門前の祈り ある排泄の記録
朝の光は淡く、冷たい。
通勤という名の戦争。
その最前線に、私はいた。
胃の奥にわだかまる気配が、もうそれだけで不穏だった。
昨夜のカレーか、はたまたこの一週間の不摂生か。
いずれにせよ、車に乗り込んだ瞬間から「それ」は、明らかに私の内部で身を起こしていた。
通勤には片道四十分を要する。
職場は遠く、道は混みやすく、胃腸は繊細だった。
車のエンジンがかかると、腹が鳴った。
内臓が、何かを密談をしていた。
「出す?」
「うん、いっとく?」
そういう無言の相談が腹の奥で交わされている気配。
胃と腸と肛門が密室会議をしている感覚。
とても、いやな予感がした
戻るか?
だが車は家から五十メートルばかり離れた月極駐車場にある。
戻るには歩いて五分、準備して再び車に戻る頃には、道路にさらなる通勤車が溢れ出し、道は混む。会社までの所要時間は、倍になる可能性が高い。
だがその時はまだ、「気のせい」で押し通せる程度の不穏さだった。いつものように出勤すれば、会社のトイレで処理できる。
私は決断した。
私は、前進を選んだ。
その瞬間、私の肉体は「排泄」という名の終末と、「社会的信用」という名の秩序との、どちらに加担するかの選択を強いられることとなった。
会社までは三つの渋滞ゾーンがある。
最初の渋滞は、バイパスへの脇道からの合流だ。
次に、産業道路からの降り口。
そして、最後に会社の駐車場付近。
しかも駐車場からトイレまで、少し歩く必要がある。
走り出してすぐに、腹部がきしむように波打った。
「まだだ」
私は声には出さず、自らを叱責する。
途中、コンビニが一軒ある。しかし、朝のトラックが列を成し、トイレが空いているとは思えない。寄るかどうか逡巡し、通り過ぎた。
この決断が、…誤算だった。
それ以降、会社までの道にトイレはない。
車を走らせながら、私は己の肛門に語りかけていた。
「どうか、今はまだ開くな。おまえの気持ちはわかる、わかるが、今ではない」
だが肛門とは、しばしば肛門自身の理屈をもたぬ器官である。
それは突如として裏切る。信頼を踏みにじり、赤子のように泣き出す。否、泣くのではない。
放出するのだ。
ありったけの、すべてを。
肛門が絞扼している。
己が意志で封じている感覚ではない。
内臓が、無意識のうちに「開放」を目指して動いているのが、わかる。
脳が勝手に排便の快楽を思い描き始める。
あの安堵、あの開放感。
いかん、いかん! と意識を逸らす。
私は冷静を装って、無関係なことを考えた。
昨晩見たテレビ番組。ロボコップ。水野晴郎。サヨナラ、サヨナラは淀川長治――
おばあちゃんの裸――これは違う時。
しかし、どれも五秒以上はもたない。
意識はすぐに「排便のイメージ」に回帰する。
想像してはならない。
快楽のイメージが肛門に伝わる。
肛門がそれを本能として受け取ってしまう。
脳と腸が裏で手を組む。
その瞬間、人は終わるのだ。
冷や汗が額から顎へ伝う。
渋滞ゾーンの第一関門の
ジッパー合流が見える。
腹の中を、何かがくぐもった音で通過した。ゴボ、と蠕動がひとつ。
背筋が凍った。冷や汗が浮かぶ。ハンドルを握る手が汗ばむ。
私は思考のすべてを「無」にした。
後ろから、エンジン音がやけに腹に響く。
腸がひときしり呻く。
ワンセグから目覚ましテレビの占いが流れる。
堂々の12位。
たかが娯楽、されど因果。
数年前、同じ最下位の日にプライドを失っている。そのトラウマから、占いが始まるとチャンネルを変えていた。
だが今は、内側から響く“あの警告音”のほうが強すぎて、切り替える余裕もなかった。
最悪だ。
また同じ運命をたどるのか。
テレビからは明るい声が響く。
「ラッキーアイテムは、クラムチャウダー♪」
そんなもん今すぐ出てくるわけがない。今出てくるのはクラムチャウダーじゃなくて……。
絶望感が、静かに、確実に、腹の底からせり上がってきた。
尻の方に、圧が溜まってくる。
決壊は間近だ。
漏れる…。
私は一度、屁を放った。
それは計算された、緩和のための脱圧行為であった。
だが直後の恐怖。
混じっていたかもしれぬ。
いや、混じっていなかったかもしれぬ。
この不確定性――それこそが人間の存在の不安定さそのものだ。
一瞬、運転を止めて確かめたくなる衝動。
だが止まれば、それだけで遅れる。
だが、これはまだ「第一関門」に過ぎなかった。
第二の地獄――産業道路の出口。
信号は私の敵であった。
車内で深く息を吐く。だが腹に力を入れられない。
さらに圧は高まっている。肛門は、今、自我と生理のはざまで、静かに震えていた。
信号が赤に変わる。
ああ、まただ。
変わるな。変わらないでくれ。
その無情さ、その赤色。まるで神が私の罪を嗤っているかのようだ。
もはや、車内で盛大に漏らして、いったん家に帰る。
その悲劇的なプランに、私は本気で希望を見出しかけていた。
そして、左手に公園が現れた瞬間、私の心に邪念が差し込んだ。
「あそこで、してしまえば――」
悪魔の囁き。
その木立の向こうに、「楽になれる未来」がかすかに揺れていた。
だが、私はその思考を即座に打ち消した。
私は人間でありたい。
社会という仮面をつけたままでいたい。
ここは会社の通勤路。
私を知る者が多数行き交う。
私は、排泄を選ぶのではなく、理性に殉じる道を選んだのだ。
二つ目の渋滞を抜け、最後の難関。
第三の渋滞――会社の門前。
この最後の壁に、私は試される。
腹が攪拌され、汗は下着を濡らし、頭は白くなり、何も考えられなくなる。
すでに私は、半分「人間」ではなかった。
ここでも、信号が、容赦なく赤に変わる。
人間の作ったこの機構が、今や私の尊厳を破壊しようとしている。
身をよじる。
腹が攪拌される。
会社の駐車場へ。
段差を越えて車を滑り込ませたとき、段差で腹が揺れ、尻が意思を持ち始める。
「今ですか?」という声なき問いかけに、私は必死で否定を投げかける。
車を降りた。
そこからトイレまでは、まだ距離がある。
後輩が前を歩いている。だが、声はかけない。いや、かけられたくない。
無駄な力は使えない。
そう、私は――人間ではない。今はただの圧縮タンク。
ゲートへ向かう途中、私はポケットに手を入れた。
社員証が、ない。
右も、左も、尻も、首も、鞄の中も。
どこにも、ない。
よりによって今日家に忘れてきたのか。
神がそれを隠したような感覚だった。
……詰んだ。
私は絶望の淵へ、文字通り落とされた。
神は、私を試しておられる。
私はすでに限界だった。
いや、まだ終わってはいない。
車に戻って、正門から入る。手続きをして、遠回りでトイレへ行く。
だが、時間が、ない。
限界が近づいている。
まさにその時だった。
「落としましたよ」
声がした。
振り向くと、社員証が、差し出されていた。
若い女性社員だった。
彼女の手の中の青いプラスチックのカードが、まばゆい聖典のように見えた。
私の中の何かが、限界を越えて泣いていた。
神はいた。
いや、もしかすると、それは神が遣わした試練の終わりだったのかもしれない。
手渡された社員証を見た私は、感謝、驚愕、歓喜、嗚咽――すべてを顔に宿していた。
「ありがとうございます…」
声は震え、眼には熱が宿っていた。
ゲートを通過し、最短距離で人気の少ないトイレへ向かう。
肛門のイメージが、便座の形になって頭に浮かぶ。
ああ、あの滑らかな白……
ダメだ、今それを思い浮かべるとアウトだ。
走らない。だが意識は、目の前を走っていた。
もはや、足取りの美しさなどどうでもよい。
トイレへ――祈りの場所へ。
心の中で何度も繰り返す。
「トイレ、トイレ、空いててくれ…」
灯りがついている。
やばい。誰かいる。
個室は2つ。
そのうち1つは、空いていた。
神は二度、私を見捨てなかった。
私はもたつく手でズボンを下ろす。
だがここでも気を抜いてはならない。
寸分の油断も許されぬ、最後の関門。
便座に尻を、落とす――
その瞬間、門が、開かれた。
あまりの安堵に、思わず天井を見上げる。
蛍光灯の明かりが、あまりにも白く、あまりにも聖なるものに見えた。
排泄とは、救済であった。
終わりを迎えたとき、私は確かに、生まれ変わっていた。
そこにいたのは、出社してまだ数分しか経っていない、一人の男。
だが彼の顔には、すでに一仕事を終えた者だけが纏う、安堵と達成の色があった。
もはや『悟り』を開いた聖人の顔であった。
私は、腹が弱い。
年に数度、こういう「試練」を通勤路で受けている。
何故このような試練が課されているのかは、私には分からぬ。
だが、落第すれば社会的には終わる。
私は、今日もまた、かろうじて合格したのであった。
了