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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蛙が哭く

※この物語は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。

※複製禁止・転載禁止・改変禁止。

※Do not repost, Do not reproduce, Reposting is prohibited.

 風は死に、湿った空気が肌に纏わり付き、彼女が歩く道も懐中電灯の灯りがあっても不安な雰囲気に包まれていた。

 今は夏、道向こうの田んぼでは蛙が我が物顔で低い声で鳴いている。食用蛙ともウシガエルとも呼ばれるそれは小さき生き物からも持ち込んだ人間からも疎んじられていた。

 彼女は母と祖母と同居し、田舎の中小企業に勤めていた。最近は恋人も出来たが老いた家族を残して出ていくのも気が引けていた。

(今日は蛙がうるさいな……蛙はオスだけが鳴くんだっけ、メスは……鳴かないか)

 彼女の思う通り、今夜は蛙の鳴き声がひどく耳に残る。

 すると――。

『おい』

「えっ」

 彼女が思わず足を止める。聞き間違いがなければそれは、人の――。

『おい』

 ――声だ。

 彼女の背筋に暑さだけではない汗がたらりと垂れた。不審者、にしては人の気配がない。人の声、と感じたがそれも虚ろで低い風の唸りのようでもあった。

 少しだけ歩いて田んぼに灯りを向けると声が大きくなった。

『おい』

『おい』

『おい』

 蛙が、人のように鳴いている――彼女にはそう〝思わなければ〟納得は出来なかった。彼女は震える身を固くして出来るだけ早足で帰っていった。

 帰宅後、遅い夕食を家族と取って風呂に入って先に寝た母を残し祖母と話していた。帰り道に聞いた人の声のような蛙の鳴き声も。すると祖母は蒼褪めた顔になり簞笥から何かを持ってきた。古ぼけた木の耳栓で紋様が彫られている。

「おばあちゃん、何これ?」

「〝ああなった〟蛙の声を聞いたらあかん。これをして寝えや」

「でも……」

「ばあちゃんの姉ちゃんも蛙に連れていかれたんや、まじないの耳栓を作ったのはその後で……」

 彼女は冗談だろうと思ったが祖母の皺の奥の目は真剣そのものだった。そして、祖母は仏壇に向かい念仏を静かに唱え始めた。

 深夜を回り素直に耳栓をはめて彼女は眠りに就いた。木製というのに不思議と遮音してすぐに夢の世界へ旅立った。

 しかし、それは悪夢だった。

 舞台は結婚式場、花嫁姿の彼女と隣には恋人。ここまでは良かった。彼の顔を見るとそれは蛙の顔になり口を大きく開けて鳴く。彼女が逃げる、足が泥濘に取られる、夢にしてはいやに生々しく現実感がある――眼が覚めると闇の中と濡れた足の感覚、草の匂い、眼が慣れると閃光が走った。轟く雷鳴に気が付けば田んぼの真ん中に立っている事に気が付いた。蛙の鳴き声に囲まれてはめていた耳栓もない。夢では、ない。現実だ。

『きた』

『きた』

『きた』

 蛙の声は明確に人の声として認識出来るものになっていた。

 稲光、雷鳴、稲光、雷鳴。視界に映る闇の反転に蠢く蛙の群れが近付いていく。彼女はようやく動こうとするが尻もちをついた。それが合図か、一斉に蛙が飛び掛かってきた。

「いや、たすけ」

 拒絶する声も顔を覆う蛙のぬめりとした肌と重みに覆われ掻き消えた。不快なものとしか言いようがない生臭く貼り付くようなやわらかさ、じわりじわりと身体の端から中央へ上っていく。払っても払ってもその圧倒的な量に対しては無駄なものであった。次第に雨が降って来た。大粒の雨だ。蛙は容赦なく身体をよじ登り彼女を覆い尽くしていく。視界に映るのは闇に浮かぶ蛙の影と二つの眼の群れ。そして聞こえるのは耳元での大合唱。

『くる』

『くる』

『くる』

 彼女の意識は徐々に薄れつつあったが肌に触れる不愉快な違和感だけが脳に伝わっていった。寝間着の間に蛙が入っていく。最早、彼女は抵抗する気力さえ失っていった。冷たくぬめぬめとした蛙の肌がぴたりと脚に、太腿に、腹に、胸に、腕に、首に、顔に、既に彼女は意識はあるが現実逃避をしていた。

「これはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだこれはゆめだ」

 蛙の脚に口を塞がれながらも彼女はぶつぶつと呟いている。その間にも一匹、また一匹、また一匹と蛙は彼女の身体を覆っていく。ずぶずぶと田んぼへと重みで沈んでいく。肺の空気を押し出すように、息苦しさが襲うが抵抗すら出来なかった。

 稲光、そこには黒い蛙の塊の肉団子のような歪な人の形をした〝何か〟が存在していた。遠雷が響く。

 雨は上がっていた。

 明け方の田んぼ、生あたたかい風、人の形に覆っていた蛙が蠢きだす。じわじわと田んぼの端々へ散っていく。すべての影が居なくなった時、彼女は眼覚めた。

 泥の中から起き上がった彼女が辺りを見渡す。

 再び雷が近付きあっと言う間に土砂降りになった。泥が流されて彼女の顔が露わになる。

 そこには――巨大なメスの蛙が、這い蹲っていた。

 周囲の蛙が笑う、いや、嗤っている。

『かわった』

『かわった』

『かわった』

 彼女はぎょろりとした蛙の眼で辺りを見渡した。何か言おうとしたが、鳴けない。蛙のメスは鳴かない――メス蛙は悟った、鳴けぬのだ。

『やった』

『やった』

『やった』

 雨に濡れながら巨大な蛙がゆっくりと泥を搔きながら歩き出した。連れ立って周りの蛙たちの合唱が響いた。

『〝にえ〟だ』

『〝にえ〟だ』

『〝にえ〟だ』

 二度と鳴けぬ巨大な蛙の後ろで――蛙が、哭いている。

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