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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君時雨の夏

作者: 霜月夜空

 幼馴染の佐藤さとう世絆せつなが、美術教師の速見と付き合っている、という噂を耳にしたのは、七月に入ってすぐの頃だった。いつも通り教室で読書をしていると、ふと、クラスメイトの囁きが耳に入ったのだ。


 「佐藤って、あの一組の派手な?」

 「そうそう。放課後の美術室で二人きりだったとか、駅前のモールで手を繋いで歩いてたとか、怪しい目撃情報が沢山あるんだよ」


 ショワショワという蝉の鳴き声の合間を縫って、男子たちの会話が聞こえてくる。僕は自分でも驚くほど集中して、彼らの話を盗み聞きしていた。できれば今すぐにでも席を立って質問したいが、あいにく彼らとは接点がない。男友達の一人くらいは作っておくんだったと、この時ばかりは後悔した。


 やがて教室に人気が増えてきた。昼休憩が終わりに近づき、生徒たちが戻ってきたのだ。世絆について噂していた男子も、そのタイミングで話を打ち切る。僕はもう少し聞き耳を立てていたい欲求に駆られながら、引き出しから現国の教科書を取り出した。



 放課後。帰宅ラッシュの昇降口を抜けると、生ぬるい西日を浴びた。すぐに首筋が汗ばみ、自宅の冷凍庫で眠るアイスが恋しくなる。早いとこ家に帰ろう。そう思って自転車小屋に足を向けた時。


 「あ……」


 思わず声が漏れた。なんと、そこには世絆がいた。薄く脱色した髪をくるくると巻き付けながら、チャラい雰囲気の男子たちと話している。この距離だと会話の内容は分からないが、あまり平穏な空気ではなさそうだ。「んだよ、ノリ悪りーな」と背の高い男子が叫んだ。それから世絆を置いて、そいつらは自転車で帰っていく。僕は昼間に聞いた噂を思い出して、どうしたものかと立ち止まっていた。すると、一人になった世絆が僕の方に目を留めた。


 「タク」


 自転車小屋の屋根の下で、世絆の唇が動いた。それが僕、原田はらだ卓司たくじを指すあだ名であることは、当然すぐに分かった。ただ、そのあだ名の響きは僕にとってあまりに懐かしくて、衝撃を受けたようにその場に立ち尽くしてしまった。


 「世絆…」


 乾いた唇がようやく開いた時。カシャン、と金属音がした。世絆が自転車のスタンドを上げた音だ。ぬるい風を浴びながら自転車を漕ぎ出した彼女は、すれ違いざまに一言呟いた。


 「またね」

 「……」


 僕の返事を待つこともなく、世絆は自転車を走らせた。水面に映る影のように、ゆらゆらと遠くに消えていく彼女を、僕は瞬きもせずに見送った。


          *


 僕と世絆は、かつてよく一緒に遊んでいた。同じ幼稚園だった僕たちは、母親同士がいわゆるママ友で、その影響で互いの家を行き来するようになった。今思えば、原田家も佐藤家も共働きだったから、子どもたちが一人にならないよう固めておこうという、親たちの考えがあったのだろう。特に、佐藤家には深礼みらいさんという僕たちの一個上のお姉さんがいた。だから僕の母親は良い息子の預け先が見つかったとでも思っていたのだろう。


 そんな大人たちの思惑通り、小学校に上がるまで、僕と世絆と深礼さんは毎日のように三人で遊んだ。大抵はどちらかの家でゲームか、近くの公園で球技や縄跳びをした。たまに、探検と称して歩いて町まで出た。この探検では、世絆が見栄を張って知らない道をズンズン進み、やがて本格的に迷って僕が泣き出し、見かねた深礼さんが助けを呼ぶ……というのがお決まりのパターンだった。強引でワガママな世絆と、心配性で泣き虫の僕と、温和で頼りになる深礼さん。今思い返すと、絶妙にバランスが取れていた。


 だけど、そんな日々も精々小学校四年くらいまでだった。きっかけは多分、僕の家が別の地区に引っ越したことよりも、僕と世絆の人間性の違いが明確になったことの方が大きかった。つまり、いつも教室の隅にいる僕と、クラスの中心に君臨する世絆とで、カーストにはっきり差が開いたのだ。当然、僕と世絆の関わりが薄まれば、そもそも学年の違う深礼さんとの繋がりもなくなる。


 そうして、僕と佐藤姉妹が共に時間を過ごすことは減った。中学に上がり、思春期に入ってからは言葉も交わさなくなった。いや、正確に言うなら、言葉なんて掛けられなかった。地味で友達のいない僕からすれば、恵まれた容姿とキラキラとした仲間を持つ世絆は、どこか遠い存在になっていた。


 だけど、中学三年の時、僕と世絆は同じクラスになった。そしてそこで、心が抉られるような辛い経験をした。それが原因で、僕は二度と世絆とは話せなくなった。だから、何の因果か同じ高校に入学して、また「タク」と昔のあだ名で呼ばれるなんて……



 「暑い……」


 夜、僕は自室のベッドの上で寝返りを打った。冷房を付けているのに、この暑さ。多分、熱いのは空気じゃなくて僕の体だ。今日、世絆とわずかでも言葉を交わしたことで、胸の奥にしまっていた激情が再燃した。

 早く、この気持ちをどうにかしたい。脳裏に世絆の顔を思い浮かべるたび、そんな思いに駆られた。だけど僕は今日、衝撃的な話を聞いてしまった。世絆と、美術教師の速見が付き合っているという噂。この燃えるような感情をどうにかするには、まずはあの噂の真偽を突き止めることが先だ。 


         *


 世絆と自転車小屋で会った日から、一週間が経った。夏休みが着実に近づいて、クラスメイトたちの表情は日に日に浮かれるようだった。だけど反対に、僕の気分は最悪だった。


 この一週間、自らの小ささを嫌というほど痛感した。何とか世絆と話したいと思う一方で、いざ彼女のクラスに向かおうとすると、足が貼り付いたように動かなかった。一度だけ教室の前まで辿り着いた時も、例のチャラい連中とつるむ世絆を見て、やっぱり物怖じした。


 これが、あの時以来、人との交流を断ち続けた末路か……そう思うと、沸き上がるのは世の中に対する怒りだった。一人になることを決意させるまで僕を追い込んだ、この世界が憎かった。


 だけどこの一週間、進展がないわけではなかった。世絆に関して、気になる情報を得た。



 あれは一昨日、放課後に美術室を訪ねた時のこと。もう一人の噂の的である、速見から話を聞こうと思ったのだ。でも僕は、美術室に入るのも、速見に会うのも初めてだった。だから緊張して、扉に手を掛けることが出来ずにいた。


 「あれ、君一年?どうしたの?」


 突然、快活そうな女子に声を掛けられた。しどろもどろになりながらも、僕は事情を説明した。


 「は、速見先生と、話がしたくて」

 「あ~、ハヤミンなら今日はいないよ。てか、あの人最近、全然部活に顔出さないし!顧問失格だよ、マジ」


 僕は呆気に取られる。教師をあだ名呼びするなんて、馴れ馴れしい人だ。いやでも、それを許す速見も同じか。そう思うと、女子生徒と付き合っているという噂が流れるのも、少し納得がいった。


 「先生は、いつから部活に来なくなったんですか」

 「そうだねぇ……一ヶ月くらい前かなぁ。実は一人、ウチの部から不登校児が出てね。その子が不登校になったのも、それくらいからなんだけど」


 こちらが聞いてないことまで、よく喋る。でも、念のため掘り下げておこう。


 「良ければ、その生徒の名前を…」

 「佐藤深礼。私と同じ、二年生なんだけど」


 まさかの名前に、絶句した。佐藤深礼……間違いない。世絆の姉だ。

 そう。僕が入手した情報とは、かつてよく一緒にいた幼馴染の姉が、何らかの理由で不登校になっているというものだった。


        *


 ある日の放課後。いつもだったら帰宅するところを、僕は自転車小屋の下で人を待っていた。相手はもちろん世絆だ。偶然を装って、今日こそ絶対に話しかける。


 ピークは過ぎても、気温はまだ高い。屋根で日陰になっているとはいえ、額は汗ばんで、シャツの中は蒸れていた。かれこれ一時間は待っている。世絆の自転車はあるのに、持ち主の彼女は一向に現れない。心に焦りが芽生える。


 「くそ、もう限界だ……」


 僕は暑さと蝉の悲鳴に耐えかねて、昇降口に向かう。入れ違いになるリスクを承知で、世絆を捜すことにした。


 「おいおい。もう少し離れろ」

 「えぇ~?いいじゃんセンセー、もっとくっつこうよ」


 昇降口に入ってすぐ、男女の声がした。僕は咄嗟に靴箱の裏に隠れる。息を殺して、上がったところにある廊下を見た。そこには、端正な顔立ちの男性教師と、その教師に腕を絡める世絆がいた。体を押し付け、甘えるような目で見上げている。一度だけ写真で目にした速見と、目の前の男が一致する。自分でも分かるくらいドクン、と心臓が脈打った。


 ――あの噂は、本当だった……!


 「ばいばいセンセ。また明日」

 「ああ、気を付けろよ」


 足音が別れた。速見が廊下を去り、世絆が昇降口に降りる。こんな形で彼女を見つけて、喜びよりも衝撃が大きかった。すぐそばで世絆が靴を履き替える。僕はゴクッと唾を飲んで覚悟を決めた。


 「世絆」


 僕は先に姿を現した。すると、世絆は大きく目を開いた。幽霊にでも会ったように、信じられないという表情で立ち尽くしている。


 「もしかしてタク……見てた?」


 速見にすがっていた時とは別人のように低い声で、世絆が訊ねた。僕がコクリと頷くと、世絆の顔から血の気が引いた。すぐに無言で走り出そうとする彼女に、僕は思い切り叫んだ。


 「せっちゃん!」


 ビクッと世絆の動きが止まる。彼女はおずおずと振り向いた。


 「今……なんて……」


 顔を驚愕に染めて、世絆が言った。僕は声を震わせながら、彼女と真っ直ぐ目を合わせた。


 「もし今、せっちゃんが何か悩みを抱え込んでいるなら……僕に、相談してほしい」


 二度と口にすることはないと思っていた幼馴染のあだ名は、何だか不思議な響きがした。


     *


 「はい、これ」


 そう言って、駅の待合室で座る世絆に、自販機で買ったカルピスを渡した。


 「あ、ありがと…」


 世絆は驚いた顔でカルピスを受け取った。僕は彼女の隣に腰を降ろす。


 ベンチが一つ置いてあるだけの待合室は、狭くて薄暗かった。木造の壁には列車の時刻表と、ぼろぼろのポスターが貼られている。夕方の無人駅は閑散としていて、僕たち以外は誰もいない。つまり、直射日光と人目を同時に防げるこの場所は、内緒話には最適だった。


 「あのさ、せっちゃん…」

 「ちょっと。その呼び方やめてよ。子どもみたいで恥ずかしい」


 世絆に睨まれた。僕は慌てて言い直す。


 「ご、ごめん。じゃあ、世絆…」

 「タクはさ、私と速見ができてるって噂、知ってたの?」


 世絆が気まずそうに言った。僕のことはあだ名で呼ぶのか、という言葉を飲み込んで、ゆっくりと首肯しゅこうする。


 「はぁ……これだから田舎は。外の流行には疎いくせに、中のゴシップはすぐ広まる」


 世絆は苛立たしげに髪を指に巻く。それからカルピスを一気飲みした。白くて細い喉元が、音と共に上下する。彼女の好きな飲み物を覚えていて良かった。


 「やっぱり本当なのか、あの噂」


 僕の追及に、世絆がぷは、と唇を離した。


 「ええ、本当よ。私はアイツと……正確にはまだだけど、男女の仲にある」


 世絆はあっさり認めた。口元には自嘲気味な笑みを刻んでいる。僕はその様子に違和感を覚えた。


 「好きなのか、速見のこと」

 「はっ。好きなワケないじゃない、あんなクズ。むしろ、殺してやりたいほど嫌いだわ」


 思いがけない過激な言葉に、僕は少し狼狽えた。


 「じゃあ、なんで…」

 「…………」


 世絆は黙り込んだ。険しい表情で床を見つめている。


 彼女は昔からこうだ。隠し事をして誰かに問い詰められると、いつも必ず黙秘する。嘘や作り話は絶対に話さない。もしこれが、言ってはいけない誰かの秘密を守っているのなら、立派な態度だと思う。だけど彼女の場合、単に弱音を吐く自分を見られるのが嫌で、黙り込んでしまうことが多かった。だけどそれは、自分で自分の首を絞めているのと同じだ。無茶な意地を張り続けても、、いつか必ず限界が来る。


 「せっちゃん」

 「だから、その呼び方はやめてって!」


 メコ、とペットボトルが握り込まれる。世絆の爪を飾るネイルが、夕闇の中で光った。


 どうやら、彼女は迷っているようだ。僕に悩みを打ち明けるべきか。なら、ここは僕の方から話を促してみよう。


 「……違ってたらごめん。世絆が速見と仲良くしてるのって、もしかして、深礼さんが関係してる?」


 僕は慎重に訊ねた。すると、世絆の顔が露骨に歪み、どうして、という視線を向けられた。これは間違いない。ビンゴだ。


 「知り合いから聞いたんだ。深礼さんが学校に来てないって。しかも彼女は美術部員で、その妹の世絆が、美術部顧問の速見と絡んでる。常識的に考えれば、何か関係ありそうだ」

 「……っ」


 世絆は愕然としていた。またもや沈黙が流れ、弱々しい蝉時雨せみしぐれが壁から溶け込んで待合室を満たした。


 「変なとこで鋭いの、昔から全然変わってない」


 世絆が溜息を吐く。その表情からは、いくらか険が抜けていた。


 「僕はずっと同じだよ。いつまで経っても実らない、青くて小さな芽のままだ」

 「何その表現。よくわかんない」


 今日はじめて世絆が笑った。こんなに近くで笑顔を見るのは、一体何年ぶりだろう。


 「タク、何も言わずに聞いてくれる?」


 僕は頷いた。すると世絆は深呼吸して、瞳に冷たさを戻した。


 「私は、復讐のために速見と付き合ってる」

 「……復讐?」


 思わず聞き返した。まさか世絆の口から、その単語が出てくるとは。


 「そう。あの男は、お姉ちゃんの未来を奪った。だから、私が代わりに復讐する」


 それから世絆は、怒りに肩を震わせて語り出した。


 「お姉ちゃんが不登校になったのは、全部アイツのせい。アイツはお姉ちゃんに目をつけて、部活が終わった後も、デッサンの指導がどうとか言ってお姉ちゃんだけ残らせた。実際は、二人きりになるためだけど」


 じわ、と嫌な予感がのぼる。僕は黙って続きを待った。


 「タクなら分かると思うけど、お姉ちゃんって優しいから、他人を拒絶し切れないとこあるじゃない?速見はそこにつけこんで、毎日のようにお姉ちゃんを残らせた。それである日、ついに、アイツはお姉ちゃんに手を出した」


 世絆はまだ中身のあるカルピスを握り締めた。


 「それからお姉ちゃんは、精神を病んで、学校に行けなくなった。今はずっと、自分の部屋に閉じこもってる。ご飯の時にも降りて来ないし、心配するママたちにも何も言わない。でも、私にだけはこっそり教えてくれた。途中で泣き崩れて、話が支離滅裂になってたけど……」


 胸が張り裂けそうだった。いつも優しく微笑んでいた深礼さんが、そんな状態になっていたとは……そして同時に、速見に対する嫌悪も湧いた。さっき昇降口で目にした顔を、思い切りブン殴ってやりたい。


 「お姉ちゃんは、私なんかよりずっと、幸せになる権利があった。そのくらい優しくて立派な人だった。なのに、あのゴミ野郎のせいで人生をメチャクチャにされて、明るかった未来が全部台無しになった。アイツは、お姉ちゃんの芽を摘んだ。だから私は、絶対にあの男を許さない……!」


 世絆が奥歯を嚙み締める。瞳には真っ赤な怒りと、真っ黒な憎悪が映っていた。 


 「じゃあ、君が速見と付き合っているのは…」

 「そりゃあ、アイツに弱みを作らせるためよ。写真や動画で記録した上で、私にも手を出させるの。そうすれば、教師と生徒がそういうことをしてるっていう、アイツにとって最悪の証拠が手に入る。そしたら、あのゴミを生かすも殺すも、私次第になるってわけ」


 世絆の口元に邪悪な笑みが浮かぶ。憎い相手の破滅を想像して、楽しんでいるのだろう。だけど、彼女の計画に僕は納得できなかった。


 「速見を追い込むのが目的なら、深礼さんが傷付けられた事実を、学校や警察に相談すべきだ。深礼さんは嫌がるかもしれないけど、君が犠牲になるよりはずっとマシだ」

 「無理よ。アイツは狡猾だから、お姉ちゃんとのことで物的な証拠は一切残さなかった。それに、アイツの罪を公表したところで、全然復讐にならない。社会的に殺すことは出来ても、精神的には殺せない。あの男には、もっと相応しい罪の償い方がある」


 世絆は冷酷に言った。もっと相応しい罪の償い方……具体的にどんなものを指すのかは不明だが、口ぶりから察するに、速見の精神をとことん追い込むつもりだろう。


 「世絆……」


 僕は今までとは全く別の意味で、世絆に対して距離を覚えた。彼女はもう、僕の知ってる彼女じゃない。ドス黒い復讐に囚われた、一匹の悪鬼あっきだ。


 ……いや、僕は何を言ってるんだ。世絆が自分から遠のいた?それはむしろ逆だ。

 僕と世絆は、今、これ以上ないほど近くにいる。小学生の頃とは比べ物にならないほど。知り合って十数年、はじめて、僕と世絆は同じ世界にいる気がした。


 「……深礼さんは、このことを知ってるのか」

 「なわけないじゃない。私がこんなことしてるって知ったら、お姉ちゃんは発狂するわ」


 世絆は怒ったように言った。まあ、自分のために妹が犠牲になっていると知ったら、ショックどころじゃないだろう。しかも相手が、自分を傷付けた男とあれば。


 「……ねえ、タク」


 不意にか弱い声がした。顔を上げると、世絆が縋るようにこちらを見ていた。


 「なに?」

 「その……お願いだから、止めないで。私は私のやり方で、アイツを裁きたいの」


 待合室に声が響いた。いつの間にか蝉の音が止んで、辺りは静けさに包まれている。僕はベンチを立って外に出た。太陽は沈み、夜の帳がおりていた。目の前に敷かれた線路には闇が蟠っている。夏の夜風が心地良かった。


 「タク?」


 突然外に出て伸びをし始めた僕を、世絆が不安そうに見つめた。徐々に近づく列車の音を聞きながら、僕は笑って唇を開いた。


 「僕は、君を止めないよ」

 「え……?」


 世絆が息を吞んだ。ガタタタン、と背後を列車が過ぎて、待合室にいる世絆が淡く照らされた。僕は後ろ髪に風を浴びて、もう一度言った。


 「君が速見に復讐するのなら、僕は止めない。むしろ、僕にも復讐を手伝わせてほしい」


 世絆の顔に驚愕が浮かぶ。だけどそれは一瞬のことで、すぐに不敵な笑みを浮かべ直した。


 「意外だわ。絶対止められると思ってた」


 世絆も待合室を出た。短いスカートを揺らして、僕の隣に並ぶ。


 「わかったんだ。僕と君は、同じ景色を見てるって」

 「何それ。どういうこと?」


 小首を傾げる世絆に、僕は曖昧に笑った。


 「ところで」


 僕は横目で世絆を見た。


 「世絆って、こんなにチビだっけ」

 「はあ?アンタが勝手にデカくなっただけでしょ」


 むが、と歯を出して怒る世絆に、僕はクスリと破顔した。すると世絆は顔を逸らして、「ま、ちょっとは男らしくなったんじゃない」と小さく呟いた。


         *


 それから、僕と世絆はちょくちょく昼休憩に会うようになった。場所は屋上に続く階段を上がったところで、固く施錠された扉に背を付けて二人で弁当を食べた。世絆いわく、入学早々に見つけた精神と時の部屋らしい。静かで人気のないこの場所は、一人で考え事をするのに最適で、時間が経つのも遅く感じるのだとか。


 「毎日友達といると、なんかこう、息が詰まるのよね。互いに空気読んで話合わせるだけで、ぶっちゃけ面白くないし」


 いつか世絆が漏らした言葉だ。傍から見れば楽しそうでも、実際は全然そんなことはないらしい。「ならどうして僕と会ってるの」と聞くと、「タクは幼馴染だから」とそっけなく返された。気を遣わないで済むという意味だろうか。


 とはいえ、そんな話をするのは稀だった。大抵は、昨日は速見とここまでいった、とか、もし証拠が採れたらこう脅そう、とか、復讐に関する相談をした。速見は世絆が深礼さんの妹であると知っているため、流石に警戒していた。ただ、徐々にそれも揺らいできているらしい。


 「昨日ね、久しぶりにお姉ちゃんと話したの」


 たまに、深礼さんの話を聞くこともあった。基本的に自室に籠り切りだが、稀に部屋から出てきてくれるらしい。そんな時は、なるべく声を掛けるように努めているという。


 「最近タクとよく話すんだ、って言ったら、お姉ちゃん驚いてた。なんか、校舎でタクを見かけると大体一人だから、いつも声を掛けるか迷ってたみたい」

 「それは申し訳ないな。深礼さんにまで気を遣わせて」

 「何言ってんのよ。お姉ちゃん、昔からそういう性格でしょ。そんな他人行儀やめてよ」


 世絆が不満気に頬を膨らます。僕は「ごめん」と軽く笑った。世絆はすぐに機嫌を直して、昔三人で遊んだ頃の話を始めた。記憶の中の僕たちはいつも笑顔で、世界も今とは別物のように優しかった。僕にとってのあの日々は、世絆や深礼さんにとっても同じ日々なのだろうか。


 「いつかまた、三人で遊びたいね」


 世絆がぽつりと言った。いつか、の部分に自信がない。


 「そうだね、いつか……」


 僕も曖昧に返す。並んで座る冷たい床に、白い夏日がうっすらと落ちた。

 



 そうして一週間が経ち、終業式を翌日に控えた日のこと。


 「ついにやったわ」


 蝉の音が一瞬止んだ。昼休憩、僕がいつものように屋上前に着くと、体操座りで待っていた世絆が言った。


 「それは……証拠が採れたってこと?」


 ドキドキしながら訊ねると、世絆が無言で頷いた。僕は思わず心臓が止まりそうになる。


 「昨日の放課後なんだけど…」


 世絆が消え入りそうな声で話し出した。昨日、世絆は遅くまで速見と学校に残っていた。すると速見の方から、ドライブに誘ってきた。そして、車に乗り込んだ世絆が連れられた先は、ラブホテルだった。


 「タク……私……」


 不意に世絆が顔を覆った。細い指の隙間から雫が落ちるのを見て、僕は慌てて駆け寄った。


 「世絆」

 「ごめん、何でもないから」


 世絆は頑なに涙を隠した。きっと、とても怖かったに違いない。そのうえ大嫌いな相手に触れられたのだ。想像を絶する不快さを味わったことだろう。


 「……すごく大切なものを、うしなった気がする」


 膝の間に顔を埋めて、世絆が言った。僕は速見に対する嫌悪感で吐きそうだった。欲望の働くままに、生徒に手を出すクズ教師。やっぱり、この世界には汚らしい人間がゴミのように溢れている。


 「でも私、これでいつでもアイツを葬れるんだよね」


 世絆が確かめるように言った。僕は彼女の隣に腰を降ろす。


 「そうだね」

 「タク、色々協力してくれてありがとう。こんなこと、誰にも相談できなかったから…」


 世絆がしおらしく感謝を口にした。


 「気にしないでよ。僕たち、幼馴染なんだからさ」

 「うん……」


 僕はなるべく落ち着いた声を出した。世絆の情緒が不安定になっている手前、せめて僕だけは平静であるべきだ。空気というものは伝染する。特に、不安や恐れといったたぐいのものは。


 「私ずっと、タクに嫌われてると思ってた」


 世絆が告白するように言った。僕は思わず目を丸める。


 「それは、どうして?」

 「んー……」


 つい食い気味に放った問いに、世絆は珍しく言葉を濁した。それを見て、僕はこれ以上の追及をやめた。理由は気になるが、たとえその内容が何であれ、僕の世絆への態度は変わらない。あの日以来、彼女に対して抱く強い思いは、一度も揺らいだことがない。


 「証拠動画は、スマホに保存してあるの?」

 「……うん」


 世絆の声がまた沈んだ。僕はしばらく黙って、掛けるべき言葉を探した。だけど浮かんでくるのは安い慰めばかりで、結局口にするのは一番最初に思ったことだった。


 「……今日はもう忘れなよ。アイツのことも、深礼さんのことも。復讐のことは、一旦頭から追い出そう」

 「……そうする」


 世絆は頷いた。それから、僕たちは普通の幼馴染として、普通の会話をした。やがて昼休憩が終わり、僕たちは教室に戻った。僕は世絆が自分のクラスに入るのを見送ると、自分の足を教室ではなく元来た道に向けた。


 「……これで次は、僕の番だ」


 呟いた口元が緩む。授業開始のチャイムを聞きながら、蒸し暑い廊下を逆戻りしていく。


 世絆は立派に復讐を遂げた。苦しみながらも、悪鬼としての使命を果たした。そして今度は、僕も彼女と同じ悪鬼として、やらなければならないことがある。


 僕は人目を忍んで、学校を抜け出た。そして、正門の傍にある公衆電話に入り、懐かしい番号へとダイヤルを回した。


 その日の夜、僕たちの住む町に、救急車のサイレンが鳴り響いた。


       *


  翌朝。終業式当日を迎えた教室は、異様な騒がしさに包まれていた。誰も彼もが同じ話題を口にして、始業のチャイムが鳴っても皆まだ席を立っている。僕はその光景を一人、自分の机で頬杖を突きながら眺めていた。


 「一組の佐藤の姉ちゃんが、死んだってよ」

 「自宅の窓から飛び降りたらしい」

 「なんか、前から不登校だったって。やっぱり、気が触れちゃったのかな……?」


 昨晩、深礼さんが亡くなった。そしてそのことを知らない者は、もはや一人もいなかった。田舎特有の情報網のせいだろう。僕も今朝、慌てふためく両親たちから聞いて知った。


 その時だった。ガラッと勢いよく扉が開いて、教室に一人の女子生徒が現れた。薄く茶染めた髪に、短いスカート。その姿に気付いたクラスメイトは皆黙り、うるさかった教室に静寂が訪れた。


 「……世絆」


 僕は、現れた彼女に声を掛けた。世絆は僕の姿を認めると、くるりと背中を向けて廊下に出た。影に隠れて表情は見えなかったが、ついてこい、と無言で訴えられたのは分かった。クラスメイトからの視線を浴びながら、僕は彼女の後を追う。

 


 世絆が足を止めたのは、いつもの屋上前だった。着くまでに会話はなく、僕は早足で階段を昇る世絆についていくのに必死だった。


 「……お姉ちゃんが死んだ」


 呼吸を整えていると、世絆がボソリと呟いた。それから僕を振り向いた顔は、今までに見たことがないほどやつれていた。


 「昨日の夜、ママと一緒にご飯を食べてたら……突然、二階から叫び声がしたの。驚いて階段を上がったら、お姉ちゃんが私の部屋にいた。手には私のスマホを握ってて……多分、速見との証拠を見られたんだと思う」


 世絆は感情のない声で続けた。


 「半狂乱になったお姉ちゃんを、ママと二人で落ち着かせようとしたけど、無理だった。私が腕を噛みつかれて怯んでいる隙に、お姉ちゃんは、窓から庭に飛び降りた」

 「……そうか」


 僕が静かに呟くと、世絆がキッと顔に怒気を孕ませた。


 「お姉ちゃん、暴れながら叫んでた。私と速見が関係を持ってるって、電話があっただか何だかって……タク、これって、あなたがやったの⁉」


 世絆が声を荒げた。噂になっているとはいえ、世絆と速見の関係の真相を知っているのは、当事者以外で僕しかいない。当然の推理だ。


 こちらを射抜くような視線を受け止め、僕は言った。


 「そうだよ。昨日の昼休憩の後、僕が深礼さんに電話を掛けた」

 「⁉なっ……」


 世絆の顔に驚愕が滲む。僕は半笑いで肩をすくめた。


 「僕は幼馴染だから、君の家の電話番号を知ってる。それに、君の親が共働きなことも。だから、家に深礼さんしかいない平日の昼間に電話を掛けた。君と速見が関係を持っていること、そしてその証拠が君のスマホにあること。それを伝えるために」

 「…なこと聞いてないわよ!アンタ、自分が何したか分かってんの⁉」


 世絆が僕の襟元を掴んだ。そのまま壁に激しく打ち付けられる。背中に鈍痛が走った。


 「君の方こそ、自分の罪を自覚してるのか」

 「はあ⁉何わけわかんないこと言って…」

 「中学三年生、クラスの役員決め」


 僕が放った言葉に、世絆の表情が固まる。それから昔の記憶を蘇らせたのか、唇を震わせた。


 「そ、それって、あの時の……」

 「ほら、やっぱり覚えてた。僕はあの時、君に裏切られたんだ」


 僕のまなこに、過去の情景が浮かぶ。檻のような教室。こちらを見つめるクラスメイト。黒板の前で、チョークを片手に固まる先生。そして、震える手で挙手をする僕。


 「僕は昔から、ストレスを感じる基準が人よりずっと低かった。誰かが放つ何気ない一言や仕草にいちいち反応して、傷付いたり、深く考え過ぎてしまう。だから、誰とも仲良くできなかった。本当はずっと友達が欲しかったし、一人は寂しかった。でも、それ以上に人と関わることが苦痛だった」


 唐突に語り出した僕に、世絆の目が丸くなる。だけど、長年抱え込んだ苦悩を口にしたが最後、歯止めが効かなかった。


 「でも僕はある時、いつまでもこんな自分じゃダメだと思った。そして、どうにかして自分を変えようと決心した。それが中学三年の二学期。ちょうど夏休み明けで、今みたいに季節が蒸し暑かった頃だ」


 そうだ。あの日もだるような暑さだった。憎らしいほどに青い空だった。


 「二学期最初のホームルーム。そこで行われた役員決めで、僕は学級委員に立候補した。自分の殻に閉じこもるのをやめて、外の世界に足を踏み出すために。クラスのみんなは、先生含め、誰もが驚いてたね」


 僕が共感を求めるように言うと、世絆は気まずげに目を逸らした。あの時、僕たちは同じクラスだった。だから、世絆もその場にいた。


 「結局、谷山くんも手を挙げたから投票になって、僕は落ちた。まあ彼は優等生だったし、僕は自分なりの挑戦が出来たことに満足してたから、結果はどうでもよかった。問題は、その後のことだ」

 「タク、あれは違うの…」

 「何も違わないよ。君はあの時、いつも一緒にいた頭の悪い連中と、僕のことを指さして笑ってた。たとえ繋がりは薄くとも、僕はまだ幼馴染として君を大切に思ってたのに」


 世絆の顔が青ざめる。僕はあの日受けた屈辱を思い出して、はらわたが煮えくり返りそうになっていた。


 「ご、ごめんなさい。あの時は、空気に乗らざるを得なかったの…」

 「黙れ!」


 僕は叫んだ。そして、襟元に伸びていた世絆の両手首を掴んで、強引に引き剥がした。


 「……っ」

 「またそうやって責任逃れか!この卑怯者!お前みたいなヤツ、大嫌いだ!」


 喉を裂く勢いで叫んだ。世絆の顔が悲痛げに歪む。僕はようやく胸のつっかえが取れて、生ぬるい空気を吐いた。


 「……あの時を境に、僕は世界を捨てた。こいつらみたいなクズがいる限り、僕の努力も全て潰される。だったら、最初から何も期待しない。僕はもう、誰とも馴れ合わない。孤独な人生で充分だ」


 吐き捨てるように言った。それから、呆然と立ち尽くす世絆を見つめる。


 「でも、一つだけ諦め切れないものがあった。それが、僕を裏切った君への復讐だ」

 「……っ!」


 世絆の顔に緊張が走る。僕は笑って彼女に近づいた。


 「世絆って、昔からバカだよね。もし本当に君のことを思うなら、復讐なんて辞めさせるに決まってるじゃないか。もしかして、僕が君に協力したのは、善意だとでも思った?」

 「そ、そんな……じゃあ、タクは最初から……」


 世絆が唇を震わす。僕は勝利の快感に浸るように、口の端を吊り上げた。


 「そうだよ。はじめから、僕は君を堕とし入れる気しかなかった」


 薄明るい階段に、世絆の絶叫が響く。それは、獄炎に焼かれた罪人のそれと、よく似ていた。


 僕の愚かな幼馴染は、全てを失った。友情も、貞操ていそうも、最愛の姉も。だけど、それはひとえに、彼女が無駄なものに執着したからだと思う。もし、世絆が上辺だけの付き合いなんか捨てて、幼馴染の僕を大切にしてくれていたら、たぶん、僕たちにはもっと違う未来があった。もし、歪んだ復讐心になんか囚われないで、深礼さんに寄り添って、傷付いた心を癒す方向に努力していたら、少なくとも深礼さんは死なずに済んだ。


 「せっちゃんはもっと……自分にとって本当に大切なものに、目を向けるべきだった」


 髪に指を突っ込んで、頭を抱え込む世絆に言った。


 「アンタこそ、私への復讐に囚われてたんじゃないの……?」


 ぐちゃぐちゃになった顔で、世絆が問うてくる。僕は薄ら笑いを浮かべて答えた。


 「君と違って、僕は最初から世界を諦めてる。だから、今回の復讐が唯一、僕が心から成し遂げたかったことだ」


 世絆が恐怖するように息を吞む。その時、階下から足音が聞こえた。


 「おーい。とっくに始業時間すぎてんのに、何やってんだ?」


 まだ若い男の声。僕たちが振り向くと、そこには階段に足を掛ける速見がいた。端正な顔に驚愕を浮かべて、屋上前で向かい合う僕たちを見上げている。


 「世絆と……その友達か?」


 速見の声が階段に響く。当然のような名前呼びに、僕は苦笑を漏らした。


 「せっちゃん。君もこれからは、僕みたいに全てを諦めようよ。そして、自分にとって本当に大切なことに、時間と労力を費やすんだ。たとえば……」


 僕はチラリと速見を見た。


 「心から憎い相手に、トドメを刺すとかさぁ」


 世絆の表情が揺れる。カツカツと音を鳴らして、速見が足早に階段を上がる。


 「おい、一体何の話を…」


 昇り終えた速見が、僕の隣に並んだ瞬間。


 「……っ、あああああああああああああああああっ!」


 世絆が髪を振り乱して、甲高い咆哮を上げた。そして、こちらを目掛けて突っ込んできた。


 「世絆……⁉」

 「そうだせっちゃん!僕らはこれから、一緒に世界を満たして…」


 喜々として叫びを上げた時。





 世絆の手が、速見ではなく、僕の体を押した。



 「………………………え?」



 突如、全身が浮遊感に包まれた。徐々に傾いた景色が、上へ上へと流れていく。


 そして、幸せだった頃の記憶を思い出すこともなく、僕は階段の踊り場に、頭から落ちた。


 「せっ……ちゃ……」



 赤く染まる視界に、最期に映ったのは、冷たい瞳で僕を見下ろす世絆だった。夏の校舎の床は、その瞳と同じくらいに冷たかった。

                               

                         

      〈了〉

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