学校の怪談
【プロローグ】
「ねぇ、知ってる。例のトイレに小学校の花子さん出たらしいよ。」
「やだ、怖い話しないでよ。」
「でもなんで花子さんってトイレにいるの?」
「トイレは花子さんがいるから怖いんじゃなくて、トイレは怖いから花子さんがいるんだよ。」
「トイレの他には怖いところあるの?」
「理科準備室とか、音楽室、鏡の間、体育館のてけてけとか……。」
「うそばっかり。」
「じゃあ試してごらん、夏休み最後の日4時44分、一緒に帰りましょ、っていうとね。お化けたちが一緒に遊んでくれるかもよ。」
【夏休みの最終日、小学校の下駄箱にて】
「おにいちゃん、まだ終わらないのかな……」
長い黒髪のツインテールをかしげながら、野木尾有望は呟いた。オレンジ色に輝くノースリーブのワンピースに愛らしく身を包んだ小学校三年生、有望は小学校の下駄箱で桃李が来るのを待っていた。小学校は今日まで夏休み、生徒はもちろん先生の人影もない。おそらくこの小学校にいるのは有望と桃李、そして桃李の担任、中野渡先生だけだろう。桃李はこの小学校の六年生、本来は妹の有望と同じ夏休みのはずである。桃李は六年生の春頃から学校に通えなくなっていた。正確には有望を含めた他の生徒がいるときだけ、桃李は学校に行くことが出来なくなってた。ピアノを弾けば小学校中学年の部で全国大会に進み、優秀賞に評された直後にピアノを止めてしまい、勉学に励べば六年生に上がる直前の統一小学生模試で優秀な成績を収めた直後に小学校へ行くのを止めてしまった変わり者の桃李。今日は夏休み最終日、みんながいない小学校にしか来られない桃李のため、担任の中野渡先生が職員室で桃李の補習授業をしてくれていた。
下駄箱から見えるサッカーゴールの影が長くなり、桃李の個別授業の終わりが近いことを有望に教えてくれている。あと20分もしないうちに、5時を知らせる『別れのワルツ』が校内放送のスピーカーから聞こえるだろう。
──そろそろお兄ちゃんの授業も終わるかな?──
有望は個別授業を受講している桃李を迎えに来たわけではない。ピアノの練習がどうにもうまくいかず、ママの言葉にいらつき家を飛び出してきてしまったのである。練習を途中で放り出したわけだから、自分が悪いのは有望が一番よくわかっている。でも勝気な有望には自分が素直に頭を下げられないこともよくわかっている。家を飛び出したものの、戻ってママに合わせる顔もなく、ふらふら歩いているうちに小学校へ足が向いてしまった。よりによって夏休み最終日に。でも桃李が一緒ならうまくママをとりなしてくれるかも知れない。
──無理だな。──
有望は自分の頭に浮かんだ希望を自分で打ち消した。なにしろ桃李ときたら、難関中学の入試問題は理解できても他人の心情を理解することなどほぼ不可能と言ってよいだろう。最近では妹の有望でさえ桃李が何を考えているのかさっぱりわからない。先日有望がママにお説教をされているところに通りかかった桃李は
「ママ、お腹すいた。おやつ何?」
と空気を読まず一方的に話始め、唖然としたママがお説教の内容を忘れてしまう始末だ。そんな桃李が有望とママの仲裁してくれるなど夢のまた夢だ。
──夕方で誰もいない小学校の下駄箱、ひっそりしていてなんだか不気味……。──
有望がちょっとした心細さを覚え始めたとき、
「あら、こんにちは。」
と背後から声をかけられ、有望は心臓が文字通り口から飛び出るほどに驚いた。慌てて振り返るとそこには白いワイシャツの胸元をスカーフで結び、紺のスカートから覗く白いひざ下、有望よりもだいぶ背の高い中学生の女の子が立っていた。高めに結んだツインテールを揺らす有望に比べて、セミロングの女子中学生はなんだかすごく大人に見えた。呆気に取られている有望を眺めながらその子はにこりと微笑み、
「あなたこの学校の生徒さん?何年生?」
と聞いていた。大人っぽい風貌の女子中学生に見惚れて言葉を失っていた有望、
──中学生のあなたこそ、なんでここにいるのよ。──
という疑問をぐっと堪えて質問に答えた。
「はい、三年生の野木尾由美です。この小学校に通っています。」
そして、
「あの……、お姉さんは?」
ともじもじしながらも疑問をぶつけてみた。
「ああ、よかった。ここの生徒さんなのね。」
女子中学生の声は嬉しそうに弾んでいたが、有望の疑問に対する回答は含まれていなかった。
「あの~」
もう一度有望は勇気を出してみた。しかし女子中学生は取り付く島もなし、手首の時計を見て時間を確認している。
──この人なんなんだろう。変な人だったら嫌だなぁ。──
有望は突然現れた不審者とも言うべきこの女子中学生に気味の悪さを感じ始めていた。
「大丈夫、怖くないからね。」
心を読んだかのように話を変えられぎょっとして首をすくめる有望。何を言い出すのやら、有望が首をかしげるとその娘は続けた。
「わたしもこの小学校に通っていたんだよ。懐かしいなぁ、そして夏休み最後の日、私もここにいたの。そしてね。」
彼女は続けた。
「絶対に忘れられない経験をしたんだ。有望ちゃんだっけ?」
有望は黙って頷いた。その娘は続けた。
「大丈夫、あなたならきっとうまくやるわ、仲よくなれる。私と同じようにね。」
──すみません、さっきから何を言っているのかさっぱりわかりません。仲良くって誰とよ?──
そう言えたらどれだけ楽だっただろうか、しかし人見知りの有望はとても口に出すことが出来なかった。
「ねぇ、有望ちゃん知ってる?」
突然その娘は声のトーンを変えた。有望は湧き上がってくる嫌な予感に身震いした。
「もうすぐ、4時44分だね。」
「駄目だよ。」
恐怖のあまり、有望は慌てて口を開いた。そう、この小学校に通っている生徒なら誰でも知っている、この小学校にまつわる怪談話、夏休み最終日の4時44分、玄関で、
「一緒に帰りましょ。」
これを言ってはいけない、と有望が警告する前にその娘はその言葉を発してしまった。有望はこれから始まるかも知れない恐怖に身構えた。
「あれ?有望ちゃん、何してるの?」
この空気を全く読まない声掛け、声色を感じなくとも桃李であることを有望は知った。だがこの時ばかりは桃李に感謝、素晴らしいタイミングで現れてくれたものだ。声のする方を見ると、桃李がこちらへ向かっていた。そして桃李の後ろからついてきているのは多分中野渡先生だろう。朝着て行った水色のアロハシャツとベージュの短パンに身を包んだ桃李、後ろの中野渡先生だけは暗がりにいるせいか全体的にぼんやりしている。
──良かった。お兄ちゃんだけじゃなく、先生も来てくれた。──
渡りに船とはまさにこのこと、有望はさきほどの女子中学生に背を向けたまま、桃李に事情を説明し始めた。
「なんかね、このお姉さんが突然ここに来て、禁止されてる怪談のお話をしたんだよ。」
後ろの娘にあてつけるように、有望は桃李に言いつけた。
「怪談?4時44分のやつ?」
人付き合いの苦手な桃李さえも知っているくらい有名な怪談、怖がる低学年の子も多いからこの話をすることは学校で禁止されている。
「そうだよ、私を怖がらせようとしてこのお姉さんが、言っちゃいけない言葉まで言ったんだよ。」
すると桃李は不思議そうに首を傾げた。桃李の首には彼のトレードマークとも言うべきネックスピーカーが首輪のようにいつもついている。音楽聞かない時も常に首にかけていて、もはやアクセサリーと化している。そのネックスピーカーごと首を傾げる桃李が、
「お姉さんって誰?」
と不思議そうに言った。嚙み合わない桃李にイラつきつつも、有望は、
「私の後ろにいるじゃない。」
と声を荒らげた。すると桃李は左の人差し指を重ねた中指で青ふち眼鏡の真ん中、ブリッジを押し上げながら、
「その子って有望ちゃんよりちっちゃい子じゃない?」
と訝しげに言った。
──何言ってんの、お兄ちゃん。中学生のお姉さんが私より小さいわけないじゃない。──
そう思いながら後ろを振り返ると確かに先ほどの中学生はいなくなっていた。そして有望の後ろにいたのはどう見ても低学年の小さな女の子、おかっぱの黒髪に白いシャツ、赤いスカートを履いた有望より小さな女の子だった。びっくりして桃李の腕にしがみつく有望、それを見ながらおかっぱ頭の女の子はにっこり微笑んだ。
──学校の花子さんだ……。──
有望は恐怖のあまりに声も出ない、訳が分からずきょろきょろする桃李に抱き着いたまま、有望は恐怖に震えていた。すると桃李が来た廊下から足音が近づいてくる。
──良かった。先生もいたんだった。──
「中野渡先生、助けて。」
訳も分からず抱きつかれ、さらには助けを求め始めた妹に桃李は混乱した。
「有望ちゃん、落ち着いて。中野渡先生こっちの玄関には来ないよ。」
そう言いながら桃李は自分が来た方の廊下を振り返った。確かに誰かが野木尾兄妹に向かっている。シルエットは明らかに大人のそれではなく、桃李と同じくらいの背格好に見えた。そして窓から差し込む夕日がそのシルエットに当たった時、まず有望が絶叫した。
「ぎゃー。」
そう夕日に照らされたのは中野渡先生ではなく、小学校高学年くらいの児童。その子の左半分は普通の小学生に見えないこともないが、桃李たちと違うところは、右半身に皮膚がなく、顔の筋肉や体の内臓が露出している、いわゆる人体模型が兄妹に向かって歩いて来ていたのであった。恐怖のあまりにぼろぼろと涙をこぼし、桃李に抱き着く有望に比べて明らかに冷静な桃李は不思議そうに呟いた。
「じんちゃんだ。じんちゃんって、実は動けたの?」
──なに?このおばけ、お兄ちゃんの知り合いなの?ていうかじんちゃんってなに?──
有望は恐怖を忘れ、奇妙な感想を呟いた桃李にしばし唖然とした。すると、
「じんちゃん。」
と桃李に呼ばれた人体模型が左手の人差し指で自分を指さしながら、
「ジンチャン?」
と呟いた。一つ一つの仕草ががくがくしてぎこちない動き、出来の悪い機械音声がしゃべっているような言葉、右半身の内臓が見えている以外は子供型のロボットみたいだ。
「じんちゃんだよ。」
桃李が嬉しそうに繰り返す、すると、
「ジンチャン。」
とくりかえす表情が動かない人体模型、でもなんだか桃李も人体模型のじんちゃんとやらも嬉しそうに有望には見えた。
──なんなのこの状況?お兄ちゃんこんなのと打ち解けないでよ。──
心の中では悪態をつきながらも、桃李にすり寄り後ろを見ないようにする有望。
──少なくとも後ろにいる花子さんよりは、このじんちゃんとやらの方がまだましだ。──
と有望は心の中で呟いた。
「帰れないよ。」
有望の後ろから突如不気味な声がする。有望は再び恐怖に駆られ、聞かれてもいない話を始めた。
「お兄ちゃん、やっぱり私たち学校の怪談に巻き込まれちゃったんだ。夏休み最終日の4時44分にさっきのお姉さんが「一緒に帰りましょ。」って言っちゃったから。この怪談に巻き込まれた子供は、みんな学校に閉じ込められて帰れなくなるって、みんながそう言ってた。」
最後の方は恐怖のあまりむせび泣きのような震える有望の声、それを聞いていた桃李が不思議そうに言った。
「僕もその話聞いたことあるんだけど……。僕も友達や先輩から、有望ちゃんも友達から聞いたんでしょ。」
こんな非常時にまで理屈っぽく面倒くさい兄だと妹に思われていることを知らないかのように桃李は続けた。
「この怪談に巻き込まれた人がみんな閉じ込められて出てこられないなら、この話は誰が広めたんだ?この怪談に巻き込まれても、帰ってきた人がいたからこの話は学校中に広まったんじゃないの?」
理路整然と話したつもりの桃李だが、パニックになっている有望の震えは止まらない。困った顔をした桃李が首を傾げると、人体模型のじんちゃんは桃李を真似るように首を傾げて見せた。有望から見れば恐怖の怪物でしかないじんちゃんは桃季の古くからの親友みたいに振る舞っている。有望は底知れない恐怖と、訳分からない兄桃李と、得体の知れない友達との友情に混乱を極めていた。
「泣いているだけだと帰れないよ。」
有望の背後から先ほどの声が告げる、どうやらこのままでは無事返してもらえないことは間違いないようだ。すると有望が何かに気づいたように、急いで下駄箱から校外へ続くドアに向かって走り出した。どうやら有望は逃げるという選択肢を思いついたようだ。がしかし、玄関のドアは固く閉じられて有望の力ではもちろん、駆け寄ってきた桃李の力でも、そしてなぜか手伝ってくれるじんちゃんと力を合わせてもドアは開かなかった。絶望に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆う有望。すると桃李が先ほどの声がしたほうに向かって言った。
「さっき、泣いてるだけだと帰れないって言ったよね。ならどうすれば帰れるの?」
すると先ほど桃李とじんちゃんが通ってきた廊下のほうからガチャリとドアの鍵が開くような音がした。音のしたほうに向き直った桃李はさっきまでとは廊下の様子が変わっていることに気が付いた。そう、先ほどまでは廊下は教室へ続いていたはずが、廊下の先に白塗りの壁が現れ、そこには黒塗りのドアが一枚見えた。どうやら野木尾兄妹の帰り道はあのドアの向こうにあるようだ。
「行こう、有望ちゃん、じんちゃん。」
何故桃李は自分と一緒に人体模型のじんちゃんへ声をかけたのか、有望にはわからない。ただ下駄箱で泣いているだけでは家に帰れないことがよくわかった。ピアノの練習を放り出し、飛び出してきてしまいあんなに帰りづらかった家、それなのにいまや帰ることすら許されない。
──お兄ちゃんと一緒に家に帰るんだ。──
有望は固く決意し桃李とじんちゃんと一緒にドアの向こうへ進むことを決めた。有望の決意には帰り道のゴールであるママにどのように詫びるかは含まれていなかったようだが……。
【トイレの赤い紙、青い紙】
やや赤みを帯びた金色のドアノブをひねりドアを開けると、蛍光灯の白い光にタイル張りの床がまぶしく輝き、人工的な花と石鹼の香りを融合させたような芳香を感じる、そうドアの向こうはトイレだった。ドアを背に進む兄妹とじんちゃん、そして花子さんの左手には個室のトイレが並び、向こう側の壁には先ほどと同じようなドアがついている。なんとも清掃の行き届いた清潔なトイレだ。
「やべっ、ここ女子トイレじゃん。」
男子トイレとの構造的違いに気付いた桃李はじんちゃんの手を引いて背後のドアに戻ろうとする。しかし背後のドアはいつの間にか消えてなくなっており、そこには壁があるだけだった。ここでわかったことは三つ、どうやらドアをくぐったらそのドアは消えてしまうこと、兄妹には前進しか許されないこと、そして分かったもう一つはじんちゃんがどうやら男の子らしいということ。
意に反して女子トイレを進むことになってしまった桃李を先頭に、じんちゃんもその気まずい素振りを真似しながら連れ添った。それを有望が恐る恐る追従し、その後ろには花子さんがついて来ていた。あっという間に一同は向こう側のドアにたどり着いたがドアが開かない。桃李が押したり引いたりしてもダメ、もちろん人体模型のじんちゃんも手伝ってくれたがドアは開かなかった。一同が出口と思われるドアの前に集まった時、
「ギィィ。」
と扉が開く音がした。野木尾兄妹はもちろんのこと、じんちゃんや花子さんも振り向かない。ただ背後の個室トイレのどこかが開いたのだけは振り向かなくてもみんなが理解した。
「赤い紙いるか?」
開いた個室からであろう声がした。なんとも中性的でなんとも感情を伴わない不思議な声がトイレに響いた。この段階で有望は恐怖のあまり耳を塞いで目をつぶりしゃがみこんでしまった。
「ゴンッ。」
先ほどの扉が開いた音とは違う、明らかに固いもの同士がぶつかったような鈍い音、そして桃李とじんちゃんが見たものは……。恐ろしい声におののき、思わず同時にしゃがみこんだ二人の女子、そして同時に抱えた頭同士が激突、そうぶつかったのは有望と花子さんの頭だった。あまりの痛さにお互い顔をしかめつつ、頭を抱えながら見つめあう有望と花子さん。
──なんで花子さんも怖がってるのよ。あなたもトイレのお化けでしょうが。──
有望は花子さんの意外な行動に心の中でツッコミながらもちょっとだけ花子さんに親近感を覚え始めていた。
「ギィィ。」
もう一つのドアが開いた。その音を聞いた怖がり少女たちにもう迷いがなかった。さらなる恐怖に打ち勝つ方法、それは恐ろしさに震える者同士で互いの震える体を抱き締めあうこと、こうしておびえた二人の少女、有望と花子さんはきつく抱き合ったわけである。
「青い紙いるか?」
恐怖に震え抱き合いながらそれに耐えようとする、そんな健気な少女たちにはお構いなしで次に開いた扉の中から声がした。先ほどと同じようなこの世のものとは思い難い恐ろしい声、その声は先ほどとよく似ているが少し違う。そして話す内容も少し違う。赤い紙と青い紙、どうやらどちらかを選ばせたいようだ。
「ギィィ。」
三つ目の扉が開き、一つの饅頭のように抱き合い固まった少女たちをさらなる恐怖の底に突き落とす。そして三つ目の扉からさきほどとは少し違う声がした。
「どちらの紙を選ぶ?その答えを私が繰り返し、それが間違いだった時……。」
そこまで話して三つ目の声は突然感情を取り戻したように高らかに笑い出した。その笑い声に慌てる桃李とじんちゃんは開かないドアを引っ張ったり、揺らしてみたり、体当たりを試みたりと出口であろうドアを開けようとするのに精一杯。この難関においてあの二人はあてにならないことが有望には良くわかった。そして自分も恐怖におびえながらも改めて自分にすがりつき涙をこぼす花子さんを見つめる有望。その有望の眼に映っているのは恐怖におびえる小学校低学年の女の子、小学校の花子さんは気が狂わんばかりにこのお化けに怯えている。
──自分がこの子を助けてあげなければ。──
そうして有望は恐怖に打ち勝てるほどの勇気を手に入れた。そして有望は花子さんを抱きかかえながら叫んだ。
「あかまきがみ、あおまきがみ、きまきがみ。」
有望のまさかの叫びにドアをこじ開けようとしていた二人もその動きを止め、有望の胸に泣きじゃくりながら顔をうずめていた花子さんも泣くのを止めて有望の顔を不思議そうに見上げている。そして三人の視線は有望に集まり、皆の視線は有望にこう語りかけている。
──なぜにいま、その早口言葉を叫んだ。──
そうその理由は叫んだ有望にもわからない。ただ赤い紙、青い紙を選べと言われたとき、頭の中で連想ゲームが始まり、有望の中で最終的な答え、ついこの間覚えた早口ことばがこれだった。有望は少しバツの悪そうな顔をしながら自分の行動を後悔し始めていた。
「それがお前の答えだな。」
三つ目の声が明らかに感情を取り戻した声色で、嬉しそうに語りかけてきた。
「ではお前の答えを復唱しよう、間違っていた時には……」
さきほどと同じ高らかな笑い声が響き、答えの復唱が始まった。
「あかまきがみ、あおまけがめ、きまきまき……」
三つ目の声は早口言葉を正確に復唱できていない。明らかに早口言葉を嚙んでいる。三つ目の声はため息のような深呼吸のあとに繰り返した。
「あかまきまみ、あおまきまみ、きまみ……」
そこからは傷ついたDVDのように、あるいはラッパーのように同じ言葉を繰り返す三つ目の声、しかし一度たりとも正確に早口言葉を復唱できない。すると業を煮やしたように一つ目の声、二つ目の声も早口言葉に参戦し始めた。
「あかまきまき、あおまみ……」
「あかまみまき、あおまま……」
開いたトイレの個室からどうにもうまくいかない早口言葉が連呼されている。それも段々と声量が減り、繰り返す頻度も減っていく、そしてついには誰しもが早口言葉を口にしなくなった時、
「ガチャ。」
桃李とじんちゃんが引いたり押したりしていたドアが突然開いた。慌ててドアを開ける桃李とじんちゃん、そして泣きながら有望に改めてすがりつく花子さん。
「あーん、あーん。怖かったよ~、お姉ちゃんが無事でよかった~。」
泣きながら有望の無事を喜ぶ花子さん。
──自分があんなに怖がっていたくせに、私の心配なんかして。──
花子さんのセリフに違和感を感じながらも、有望は初めての感激に浸っていた。実は有望にとって〚お姉ちゃん〛と呼ばれたのは生まれて初めてのことであった。そんな感激を悟られないようにクールに装いつつも、有望は妹のように寄り縋る花子さんのおかっぱ頭を撫で続けた。
「え、これでミッションクリアなの?」
唖然とする桃李の声が閉まりかけたドアの向こう、トイレの中にこだました。
【鏡の間】
始めの課題をクリアした四人は意気揚々と、そのうちの一人花子さんはまだぐずり気味ではあったが、次の部屋に足を踏み入れた。先ほどのトイレ以上に眩しい部屋、その部屋は細長いまっすぐな通路がその真ん中を通っており、その両端には無数の鏡が置かれ、その光をお互い反射しあって輝いているように見えた。沢山の鏡に挟まれた通路の奥には先ほど入ってきたのと同じドアが見える。おそらくあのドアが出口だろう。すると先ほどの下駄箱で聞いた何とも不気味な声が響いた。
「ここは鏡の間、鏡に映った自分と目を合わせると、鏡に映った自分と本物の自分が入れ替わってしまう。」
そしてお約束のように不気味な高笑いを聞かせたあとその声は沈黙した。
「なーんだ、さっきより簡単じゃん。目をつぶって進めばクリアでしょ。」
桃李が声を弾ませながら目を閉じて前に進んだ。
「いてっ。」
その途端、桃李が何かにぶつかって悲鳴を上げた。思わず目を開けた桃李の前には先ほどまで無かったはずの鏡が……。
じんちゃんの左手越しに桃李は鏡を見た。じんちゃんの左手が桃李の目を覆ってくれなければ、桃李は鏡に映った自分と目を合わせてしまっていただろう。しかし桃李を庇ったじんちゃんは明らかに鏡を見つめている。
──大変だ、じんちゃんが鏡に取り込まれる。──
そこにいる誰もがそう思ったとき、じんちゃんが嬉しそうに踊り始めた。恐る恐る鏡を見ると、じんちゃんの姿は鏡に映っていない。恐る恐る鏡の前に花子さんが手を伸ばす、やはり花子さんも鏡には映らない。どうやら鏡に映るのは人間だけのようだ。
「有望ちゃん、花子さんと手をつないで。僕はじんちゃんと手をつなぐ。じんちゃん、花子さん、僕たち目をつぶるから、ドアまで連れて行って。」
こんな時でも頭が冴える桃李が叫んだ。桃李はじんちゃんと手をつなぎ、それにならって有望も花子さんと手をつないだ。そして二人は目をつぶって歩き始める。すると無数の鏡たちは怒ったように移動を始め、つないだ手の間を無理やりほどき、それぞれのペアを離れ離れにしてしまった。
「どうしよう、お兄ちゃん。」
「有望ちゃん、目を閉じて、じんちゃん、はなこさん、どこにいる?」
泣きそうな有望の声、不安そうに有望を呼ぶ花子さんの声、そして鏡と格闘しているであろうガチャガチャとしたじんちゃんが立てる音が聞こえた。目をつぶりながら桃李は考えた。桃李は考え事をするとき、左の人差し指を重ねた中指で眼鏡のブリッジを押し上げるのが癖であり、その癖がこの場でも出た。
──そうだ、眼鏡だ。──
桃李は眼鏡を外して目を開けた。ド近眼の桃李に鏡自体はぼんやり見えても、眼鏡を外せば鏡に映った自分と目が合うことはない。鏡を颯爽と避けながら、動けなくなっている有望のほうへ近づいた。しかし鏡の中に取り込むことができない桃李を鏡たちは有望から遠ざけるように押しのけ始めた。
「有望ちゃん。」
桃李が叫んだとき、右手に持っていた眼鏡が誰かに奪われた。慌てて周りを見渡す桃李だが、眼鏡を外した視力では眼鏡はもちろん、眼鏡を持って行った犯人すら捜せない。この部屋を出るまでならなんとかなるが、眼鏡を無くしたら妹を助けることもできない。
「お姉ちゃん、これをかけて。」
鏡たちが暴れるじんちゃんや、有望のところへ進もうとする桃李の阻止にかまけていたところ、花子さんが有望に桃李の眼鏡を渡した。眼鏡を桃李から奪った犯人は花子さんだった。有望はすぐに桃李の眼鏡をかけてみる。視力の良い有望がド近眼使用の眼鏡をかけると、
「おえぇ、世界が歪んで見える、この眼鏡かけると気持ち悪い。お兄ちゃんの眼鏡最悪~。」
と抗議の悲鳴を上げた。有望の視界はぐにゃぐにゃに歪み、鏡と目が合うどころではない。猛烈なめまいと吐き気と闘いながら、有望はドアがあるであろう方向へ足を速めた。結果一番早く出口にドアへたどり着いた有望、その後じんちゃんと花子さん、最後に眼鏡を外した桃李が何とかたどり着いた。最初にドアへたどり着いた有望が出口のドアノブに触れると、先ほどにぎやかなまでに動き回っていた鏡たちは一斉にその動きを止め、そしてばたばたと床に倒れて行った。
【理科準備室】
「ちょっと休もう。」
すべての鏡が倒れたのを確認してから桃李が呟いた。次の部屋に続くであろうドアノブに手をかけたものの、桃李は一呼吸つきたくなっていた。それを合図に有望と手を繋いでいた花子さんと有望はその場に座り込み、じんちゃんは右回り、左回りと首をぐるぐる回転させ始めた。
──やっぱりじんちゃんは人間じゃない。──
見た目通りではあるが、改めて思い知る桃李だった。そして有望と一緒に怖がり運命共同体と化した花子さんも、さきほどの鏡に映らなかったことから人間とは思い難い。でもじんちゃんも花子さんもこの怪談に巻き込まれた野木尾兄妹を助けようとしてくれている。
──それにしても、じんちゃんが動くだなんて……。──
実は下駄箱で人体模型のじんちゃんが動くのを見た時、桃李も腰を抜かすほどに驚いた。しかし、それ以上に桃李は久しぶりの再会に感激している自分に驚いていた。
『理科準備室の人体模型』
低学年、中学年の子供たちが怖がるから、準備室に置きっぱなしになっている右半身の筋肉と内臓がむき出しの人体模型、そして窓もなく暗い雰囲気の理科準備室、用が無ければ先生たちもあまり出入りすることはない。そんな理科準備室は桃李のお気に入りだった。いつもは明るい桃李であるものの、嫌なことがあると必ず理科準備室に足が向いた。嫌なことがあっても顔に出すことができない桃李、何を言われてもクールで平静を装うのが常になった桃李、人のことを気にしないように振る舞うがあまり、いつしか周りの空気を読むことすらできなくなってしまった桃李。そんな桃李が誰もいないところで、面と向かって言えなかった反論、誇ることのできなかった自分の努力や工夫、協力への感謝を吐き出せる唯一の場所、それが理科準備室だった。そして暗がりの理科準備室、たったひとり桃李の独り言に耳を貸してくれている、桃李をそんな気分にさせてくれていたのが人体模型、桃李が名付けたじんちゃんだった。頷くことも返事をしてくれることもないじんちゃんではあったが、桃李の言葉を否定することもなかった。現在不登校となった五年生まで学校に通ってこられたのは、理科準備室のじんちゃんがいたから。しかし桃李が六年生になってすぐに、二つの不幸が重なった。悪気のないクラスメイトにどうしても我慢ならない言葉を投げかけられたこと、そしてそのうっ憤をため込みつつ向かった理科準備室にはカギがかけられており、生徒立ち入り禁止とのお触れがドアに貼ってあった。この日から桃李の足はどうしても学校へ向かなくなってしまった。
──じんちゃん、俺に会いに来てくれたのかな?──
首を回すのに飽きて下半身はそのままに上半身をコマのように回すじんちゃん、そのあまりに人間離れした動きに有望と花子さんが怯え始めているのも意に介していないようだ。周囲への気遣いを感じさせない、あるいは元から何も考えていないように見えるじんちゃん、人間関係に疲れていた桃李には本当にありがたい存在に思えていた。桃李の視線に気づいたじんちゃんは桃李に向き直り、皮膚のない筋肉むき出しの右親指を上に向け、瞼のない右目でウインクのような動作をしながら、先ほど立てた親指を次の部屋へのドアノブに向けた。
「俺は大丈夫だよ、じんちゃん。」
家族の前では第一人称が『僕』である兄桃李の『俺』を初めて聞いた有望が唖然として桃李を見つめる中、桃李はじんちゃんに促されるがままにドアノブを捻った。
【てけてけ①】
ドアを開けるとワックスに光るフローリングと、両脇に見えるバスケットゴール、そこは体育館だった。しかしバスケットボールのコート二面分しかない有望や桃李が知る学校の狭い体育館ではなく、六面のバスケットコートが横に並ぶほど広く、そしてその向こう側に今まで通り黒塗りのドアが見えた。そして体育館の中央には、バスケットボールほどの大きさの頭、そして耳があるはずのところから両腕が生えている、そして体も足も無い、老婆の顔をした白髪の化け物がいた。さすがにこの場に慣れてきたおかげか、有望と花子さんは悲鳴こそ上げなかったが、二人はそっと身を寄せあった。
「てけてけ……。」
桃李が呟くとじんちゃんがそれっぽく頷いた。『てけてけ』とは老婆の顔をした手だけが生えている化け物で、走るのがものすごく早いと言われている。じんちゃんがこの化け物を知っていたかは別にして、おそらく次のミッションはこのてけてけとの徒競走になるだろう。
「もうおわかりだろう。このてけてけとかけくらべをしてもらう。勝たないとこの部屋からは出られない。」
不気味な声が体育館に響き、最後にお約束とも言うべき笑い声が響き渡った。
──誰が走る?──
そう思ったのはどうやら桃李だけで、有望と花子さん、じんちゃんは桃李を全力で応援する姿勢をはっきりと表し始めた。有望と花子さん、じんちゃんが下がり気味なのを確認してか不気味な声は続けた。
「桃李君が走るんだね。天才少年、桃李君、足も天才的に早いのかな?」
「やめてくれ、俺は……。俺は天才じゃない、天才なんかじゃないんだ。」
「大丈夫だよ、お兄ちゃんは何だってできるよ。」
「俺は準備して、練習したことしか出来ないんだ。」
不気味な声の挑発につい有望に対して声を荒らげる桃李、言われた有望も言った桃李もこんな荒い声は初めてだ。はっとしたように声のトーンを下げた桃李は何とも弱弱しく、
「有望ちゃん、無理だよ。勝てっこないよ、僕足早くないの知ってるでしょ、できないよ。」
と頭を抱えてしゃがみ込んだ。
桃李を最も打ちのめした言葉、それは『天才』だった。いつだって桃李のことを何も知らない人間はこの言葉を使いたがる。
「桃李は天才だからピアノも賞取れるんだよな。」
「さすが天才桃李君、コンクールも軽々通過だね。」
この言葉がいつも桃李を苦しめていた。『天才』の言葉を使われるたび、自分の努力や工夫、そして周囲の協力がすべて否定されている気がしてならなかった。
──どうして誰もわかってくれないんだろう。──
ピアノのコンクールに向けてどれだけ桃李が練習に励んだことか、学校でも常にピアノの譜面が頭から離れなかった。レッスンで指摘された指使いを授業中に思わず机で試すこともあった。夜遅くになっても練習できる場所へパパやママが送り迎えをしてくれていた。譜面に記されないわずかな強弱をつけてしまう桃李独特の癖も、ピアノの先生と相談を重ね、緩急を用いた工夫で克服した。それなのに『天才』という何気なくかけられた言葉が自分の努力や工夫だけではなく、周りからの協力さえも否定されているように桃李には響いていた。誰にも言えなかった自分の努力、一所懸命に奏法を工夫してくれた先生への恩、そして協力してくれた家族の有難さ、それを誰もいない、もとい人体模型のじんちゃんしかいない部屋でつらつらとこぼし続けた。その後桃李は四年生でピアノを辞めた。そして中学受験にその努力を向けた。桃李は実際に頑張った。遊び時間を削り、塾通いに勤しみ、夕食はママが作ってくれたお弁当を塾で食べる日も少なくなかった。トイレには歴史年表を貼り、寝室の天井には日本地図を飾った。図形問題で計算ミスが目立つ桃李は、その記憶力を活かして円周率の掛け算を暗記するなどの工夫も怠らなかった。その努力が実り、公開模試で名前が出るほどの高得点を得た桃李は、またしても同じ塾に通うクラスメイトの心無い、『天才』という言葉に打ちひしがれた。
「何の工夫もいらないよな、凡人と違って天才は。」
「天才はいいよな、自然に成績上がるんだから。」
これが桃李を不登校にした理由だった。努力家の桃李にとは何気ない天才という言葉がすべてを否定する言葉に聞こえていたのだ。そして理科準備室の閉鎖にて誰にも言えない胸の内をこぼす場所とその相手さえも奪われてしまった桃李はもう学校に足を運ぶことが出来なくなっていた。
不気味な声に煽られながらも桃李は頭を抱えたまま動けなかった。もちろん野木尾兄妹と二人の妖怪、この中で最も足が速そうなのは桃李に決まっている。しかし桃李はもともと走るのが早いわけでもなく、なによりかけくらべに備えた準備など何一つをしていないこと、これが桃李を挫けさせていた。勝負事に臨むにあたり完璧なまでに自分を追い込む桃季には、ぶっつけ本番の勝負などはなから論外、先程『赤い紙、青い紙』にも答えなかったのは勝算が無かったからだ。なんの根拠もなく早口言葉を唱える、妹有望のような度胸を桃季は持ち合わせていなかった。桃季の不安が伝染し、有望がすすり泣きを始めたとき、突然じんちゃんが立ち上がった。そして両腕を斜め上に挙げ、文字通りYの字になるじんちゃん。そして両腕を振りながら応援団の如く叫んだ。
「ドリョク、クフウ、キョウリョク。」
そして両腕を前に伸ばし、伸ばしたさきの桃季に向かって吠えた。
「トーリ。」
しょげていた桃季はもちろん、メソメソしていたふたりもあっけにとられじんちゃんの応援?を見つめた。
「ドリョク、クフウ、キョウリョク、トーリ。」
先程と同じ様に腕を振りながら同じセリフを繰り返すじんちゃん。腕を振るたびにギコギコ音がするのは、じんちゃんの硬い材質で作られた身体が、作った人が想定していなかった動きをしているからだろう。右半身から取り出し可能な肺や肝臓が落ちてきそうで心配なほどじんちゃんの動きは激しかった。
「じんちゃん……。」
桃李は胸が熱くなるのを感じた。そう、ここには桃李を一番理解してくれている、であろうじんちゃんがいた。絶望に暮れていた自分を恥じて桃李は持ち前の冷静さを取り戻していた。
──努力、工夫、協力。それが俺、桃李ってか、ありがとうじんちゃん。──
じんちゃんの思いがけぬエールに冷静さは取り戻したものの事態は好転したわけではない。桃李は眼鏡のブリッジを押し上げながら考えた。雰囲気の変わった桃李に有望と花子さんは期待の視線を降り注ぐ。
──努力、は無理だな。今から走力を鍛えるのはどう考えても無理。──
──俺に残っているカードは、工夫と協力だけか。──
──工夫、協力……。あの不気味な声はかけくらべとだけ言った。細かいルールや走り方は決まっていない。──
桃李の眼鏡が光ったように見えた。有望と花子さんはその光に勝利の予感を感じ、じんちゃんはそれにすら気づかず、
「ドリョク、クフウ、キョウリョク、トーリ。」
とエールを繰り返し送っていた。その頃てけてけと呼ばれた妖怪は、かけくらべは今か今かと待ちながら頭から生えた両腕のアキレス腱的なものを伸ばしていた。
【てけてけ②】
「かけくらべを始めよう、でもルールは僕が決める。」
迷いを断ち切ったように見える桃李が不気味な声の主に宣言した。不気味な声は沈黙を守っている、どうやら桃李の宣言は受託されたようだ。桃李は自信を得たように高らかに続けた。
「三角コーンを二つ用意してくれ。それをバスケットコートのフリースローライン中央に一つずつ置いて。それの周りを右回りに三周、さきに三周したものを勝ちとする。これでどうだ。」
桃李は三角コーンを16.4m間隔で二つ配置し、その周りを三周するというかけくらべを提案した。まっすぐ走ったあと、三角コーンを中心に右回りして180度反対方向へ走ることを繰り返す、難易度の高い走り方になる。しかしてけてけは負ける気など微塵もないように悠々と独特なストレッチを繰り返している。
「走るのが得意な妖怪と普通の小学校六年生が走るんだ。仲間に協力してもらうのは問題ないな?」
「いいだろう、小細工が通じる相手だと思うなよ、天才君。」
笑いを堪える様に不気味な声が答えた。しかし最早何と言われてもひるまない桃李がそこには存在していた。
いつのまにかバスケットコートのフリースローラインには赤い三角コーンが対に二つ用意され、桃李たちから見て手前の赤い三角コーンがスタート地点と決まった。三角コーンの傍に立つ桃李に並ぶように、てけてけはその左側に立つ。右回りで走るかけくらべだから桃李の左側に立つと走る距離が長くなって不利であるはずだが、てけてけはその不利すらも楽しんでいるように見える。
かけくらべ開始の合図が鳴る前に、桃李の指示でじんちゃんがスタートから見て第一コーナーとなる三角コーンに向かった。そしてじんちゃんはかけくらべのUターン地点、三角コーンの手前に立った。するとやはり桃李の指示で有望がスタート近くのコーン内側に、花子さんに後ろから抱きかかえられるようにして立っていた。有望と花子さん、じんちゃんはそれぞれかけくらべコースのUターン地点内側に立っていることになる。これが桃李の策、三人ともこれを理解しその持ち場についてくれた。桃李は勝利を確信したかのように口角を上げながら左に並んだてけてけに目をやった。そこには口角を上げるというより口が裂けるんじゃないかとばかりに口角を限界まで吊り上げながら口を開けて笑う化け物がいた。
──キモッ、でも見てろよ、その笑い顔を吠え面に変えてやる。──
桃李が正面に向き直ったとき、目の前の空間に丸っこくて緊張感に欠けた数字が表れた。それは誰の目にも明らかなスタートへのカウントダウン、これから始まる16.4m、右回りの切り返しかけくらべ、間もなく決戦の火ぶたが切って落とされようとしていた。その数字が0になった瞬間、桃李は走り出した。悪くない桃李のスタートに見えたが、ライバルのてけてけはさらに早かった。あっという間に桃李の前にその背中ならぬその後頭部を見せた。てけてけの走る速さはおそらく並みの大人より早い、もちろん桃李よりはずっと早い。しかしここから桃李の仕掛けが効いてくる。スピードが速ければ直線では有利だが、このかけくらべは180度ターンを繰り返す必要がある。スピードがあればあるほど、そのスピードが向かう方向を変えるのは困難だ。だからてけてけは直線のダッシュはできても、すぐにUターンを考えて減速しなくてはいけない。てけてけがUターンを意識し始めた時、なんと直線を走るスピードのまま、桃李が後ろから突っ込んでくるではないか。てけてけは走りのスペシャリストと言っても過言ではない妖怪、このスピードでは桃李が曲がり切れないことを十分承知している。だから安心して自分のスピードを緩めて、後ろからくる桃李を先に行かせた。桃李が三角コーンを曲がり切れずにまっすぐ進んで壁に激突するかに思われたその時、三角コーンの内側にいたじんちゃんが手を伸ばした。その手をしっかりとつかむのは桃李、じんちゃんはハンマー投げの選手みたいに桃李を反対方向に振り回した。たたらを踏みながら三角コーンを回るてけてけは、じんちゃんを軸に180度方向を変え、遠心力で加速したかに見える桃李の背中を追いかけた。桃李の背中にてけてけが追いつこうとしたとき、またも三角コーンのUターン地点、そこには幼い二人の少女、有望が手を伸ばしそれを後ろから花子さんが引っ張る、桃李は妹の手を握りつつ先ほどよりはスピードを殺しながらも明らかにてけてけよりも早いスピードで180度ターンをクリアした。まっすぐ走るだけなら絶対負けないはずのてけてけ、自分は三角コーンを曲がるたびに減速しているのに、相手の桃李は遠心力で加速しているように見えた。てけてけ自慢のスピードがUターンでは仇になっている。これではとても勝負にならない、勝ちに焦ったてけてけは四回目のターンで曲がり切れず体育館の壁に激突、その轟音は半周近い差をつけていた桃李が足を止めるほど、文字通り頭から壁にぶつかったてけてけはもう走れる状態では無くなっていた。桃李がふらふらしているてけてけを気遣いながら最後のターンを回り切ったとき、何もなかった空間に白いゴールテープが現れた。何の迷いもなく胸で白いテープを切る桃李、それが四人の勝利を決定づけた瞬間だった。衝突の衝撃から回復したてけてけは両腕で頭を抱えながら悔しそうに地面をごろごろと転がっている。そんな哀れな妖怪を尻目に桃李は出口のドアノブに手をかけた。さきほどまでと同じようにガチャリと音がしてドアノブが回る、有望と花子さんが桃李の勝利を賛美しながらついてきた。そしてじんちゃんは、
「ドリョク、クフウ、キョウリョク、トーリ。」
と未だに繰り返していた。
【ベートーヴェンのデスマスク】
桃李たちはくやしがりながら体育館の床を転がり続ける回転体と化したてけてけを後に次の部屋へと向かった。
「音楽室だ。」
花子さんに半ば抱き着かれたようにぴったりと寄り添う有望が呟いた。白く塗られたべニアボードの壁には規則的に並ぶ小さな孔が覗き、床は黒いカーペット敷き、なにより四人の目の前には黒い大きなグランドピアノが鎮座ましましている。そしてグランドピアノと四人の間には黒い仮面がゆらゆらと浮かんでいるではないか。
「ベートーヴェンのデスマスク。」
花子さんが先ほどのよりもさらに強くしがみ付くのも意に介さず、有望が呟いた。怖がってばかりいた有望だったが、このお化けだらけの状況に慣れたのか、それとも自分より怖がりの花子さんを勇気づけようとしているのか、とにかく学校の怪談に巻き込まれた当初に比べるとずっと勇敢になっている。
ダダダダーン。
無人のピアノが突然大きな四つの音を響かせた。誰もが知っているであろう名曲、ベートーヴェン作曲交響曲第5番『運命』の出だしだ。
「ようこそ、私の音楽会へ。」
どうやら先ほどまでの不気味な声とは違う野太い声、黒いデスマスクがしゃべっているようだ。
「我こそは楽聖。今日は君たちに音楽のすばらしさを教えてあげよう。」
そういうとデスマスクは先ほど演奏を止めた『運命』の続きを奏で始めた、正確には無人のピアノが奏でているのだが。桃李とじんちゃんは無視を決め込み、二人がデスマスクの横を通り過ぎようとしたとき、
ダダダダーン。
と曲の途中でまたあの四音が岩のように響いた。
「お前達、演奏中に失礼だろう。」
表情のないデスマスクが音楽会から逃げ出そうとした二人に怒鳴りつけた。桃李とじんちゃんが向かおうとしたグランドピアノの向こう側にはほかの部屋と同じような黒いドアがある。しかしそのドアはおそらくこのデスマスクをどうにかしないと開かないだろう。不貞腐れたように座り込む桃李とそれを真似して座り込むじんちゃん。有望は花子さんに腕を掴まれたまま仕方なく音楽会の観客になることにした。
『運命』が終わって次は『悲愴』、『月光ソナタ』と続いた。無人のピアノが懸命に引いているのに、いちいちデスマスクがしゃしゃり出て解説を述べる。典型的に嫌われるタイプの演奏家に見えた。そしてピアノソナタ第23番『熱情』を轢き終わった後デスマスクは言った。
「どうだ、私の曲はすばらしいだろう。学校のピアノでもこんなにすばらしい。」
デスマスクは続けた。
「なにしろ私はピアノを選ばない、楽聖だからな。私は疲れているとき、気分が優れないときはエラールのピアノを弾き、気分が良く体力のあるときにはプレイエルのピアノを弾くのだよ。」
演説するかのように高らかに語るデスマスク、これを聞いて静かにピアノに耳を傾けていた有望がようやく口を開いた。
「あなたベートーヴェンじゃないでしょ。」
突然デスマスクを挑発するようなセリフを吐いた有望にほかの三人は唖然とした。
ダダダダーン。
またあの四音が鳴る。
「何を言うか、私こそが楽聖、ベートーヴェンのデスマスクだ。」
デスマスクは有望に向かって吠えた。しかし有望は冷静だった。
「その弾き方、その四音だけいわゆるベートーヴェン的な岩のような響き。でもほかの曲は全然ベートーヴェン的じゃないでしょ。タッチが柔らかすぎるし、きれいすぎるのよ、ベートーヴェン弾くには。」
デスマスクは有望を見つめるかのようになにも語らなくなった。有望が続けた。
「疲れているとき、気分が優れないときはエラールのピアノを弾き、気分が良く体力のあるときにはプレイエルのピアノを弾く。」
「これってショパンの言葉だから、これってベートーヴェンがとっくに死んだ後のお話ですけど。」
デスマスクは完全に沈黙した。実は有望はショパンマニアであった。ピアノを始めてからショパンにあこがれ、その人物を知るために伝記やショパンにまつわる書籍を読み込んでいた。そしてなによりも有望にはベートーヴェンとショパンの弾き方を聞き分ける耳と弾き分ける奏力があった。
「あなた本当はショパンが弾きたいんじゃない?ベートーヴェンのデスマスクって呼ばれて、ベートーヴェンしか弾きづらくなって。あなたの弾き方はショパンに向いてるよ。」
するとデスマスク舞い散る木の葉のようにふらふらと有望の眼前に降りてきた。近づいてきたデスマスクに歯をむいて威嚇する花子さんを制しながら、有望は続けた。
「本当に弾きたいショパンを自分が思い描くショパンの弾き方で弾きなよ。」
デスマスクは下を向いた状態でちょっとだけその顔を上げた。まるで有望の顔色を伺うように。そんなデスマスクに有望は微笑んで見せた。
「何が弾きたい?」
有望はツインテール頭を右に左に傾けながら優しくデスマスクに聞いた。
「……ワルツ第9番、別れのワルツ。」
デスマスクは先ほどまでの野太い声がなんとも弱弱しく言った。有望は満面の笑みでこれに応えた。
デスマスクの練習が始まった。なにしろ有望が指導するにしてもデスマスクは宙に浮いているだけ、グランドピアノの鍵盤が自然に浮き沈みするのを見つめながら有望は曲に耳を澄ませるだけ。
デスマスクのショパンは実際に素敵だった。先ほどまでベートーヴェンに合わせようとして無理に叩いていた鍵盤がショパンらしく美しく踊るのを有望は見た。自信なさげでたどたどしさはあるものの。
「もっと気だるげに、次の情熱的なパートがはっきり目立つように。」
思わず口をついたこの言葉、有望は自分で口に出してからはっとした。さきほど家でピアノの練習中、ママがかけてくれた言葉が何故かそのまま有望の口から出てきた。
──うるさいな、そんなのわかってるよ。──
そしてその時感じた自分のいらつきも思い出した。なぜあんなに自分はいらついていたのだろう、デスマスクのお化けでさえ有望のアドバイスを真摯に受け止めている。有望は自問自答した。答えはちゃんとわかっていた。ママの心がわからなかったからだ、いま有望はデスマスクの上達を願いつつ指導している。そしてママも同じだったはずだ、だからさっきの言葉が有望の口から洩れた。
──ママも今の私と同じ気持ちで言ってくれていたのに、いらいらして受け入れられず、ごめんなさいママ……。──
有望が心の中で謝罪を終えた時、デスマスクの演奏も終わった。顔を上げるようにデスマスクが有望と目を合わせた時、
ガチャ
とドアの鍵が開く音がした。デスマスクが無言で見送る中、四人は出口のドアをくぐった。有望は後ろ髪を引かれるような思いを感じながら、デスマスクに感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、また素敵なショパン聞かせてね。」
見ると花子さんもデスマスクに手を振っている。有望はちょっと不思議に思った。
──花子さん、お化けに慣れたのかな?、一番初めのトイレほど怖がらないな。──
というよりも花子さんのトイレでの怯え方はちょっと異常だった気がする。もちろん有望も怖がってはいたが、あまりに怖がる花子さんの姿を見て、むしろ自分が頑張らなくてはという勇気をもらった。
──花子さんって、トイレのお化けじゃなくて、トイレに出てくるお化けを怖がる子供を心配するお化け?──
混乱する思考の中有望は花子さんを見つめた、その視線に気づいた花子さんはにっこりと笑顔で答えた。その笑顔に有望は友達から聞いた不思議な言葉を思い出していた。
「トイレは花子さんがいるから怖いんじゃなくて、トイレは怖いから花子さんがいるんだよ。」
── そうだ、花子さんはトイレで子供を怖がらせるお化けじゃないんだ。──
有望は唐突に理解した。子どもがトイレで怖い思いをしなくてすむように、そんなみんなの願いが花子さんというお化けを作ったのだ。怖がりなのは大好きな子供たちが怖い思いをしないように、怖がって危ないところから遠ざけようとしているから。だから花子さんはトイレであんなに怖がって、そしてあんなに有望の無事を喜んでくれたのだ。もう有望にとって花子さんはお化けではなくトイレの、いや学校の守り神にも思えていた。
【エピローグ】
音楽室のドアを開けるとそこはもと来た下駄箱だった。おそるおそる下駄箱を出口へと進むと、下駄箱から校外へ続くドアが開いている。さきほどは閉まっていて郊外に出られなかったドアが開いていた。おそるおそる下駄箱から土間を通ってドアへ向かう野木尾兄妹、二人は同じ違和感に気づいて振り向いた。そこにはじんちゃんと花子さんが見送るように立っている。そうここは野木尾兄妹にとっては帰り道の始まりだが、四人にとってはこの冒険のゴールでもあったのだ。
「おめでとう、君たちは帰り道にたどり着くことが出来た。」
不気味な声がドアの外側から響いた。
「さあ、帰るがいい。」
昔校門前に置いてあった二宮金次郎像がこの不気味な声の正体であり、外から話していたようだが野木尾兄妹はその存在にすら気付かない。そう、それぞれに別れを惜しんでいた。
「じんちゃん、ありがとう。」
「トーリ、オレナイ、トーリ、マケナイ。」
会話になっているのかいないのか、二人だけにしかわからない交流がそこにはあった。
「花子さん。」
「お姉ちゃん、無事帰れてよかった。」
「花子さんは?」
「私はここがおうちなの、帰り道はお姉ちゃんたちだけのもの。」
「また、必ず会いに来るよ。」
「これは一度きり、一度この怪談を体験した子はもう来られないの。」
「そんな……。」
「学校でみんなを見守るのが私の仕事、お姉ちゃんのことも見守っているからね。お話できなくなるのは寂しいけど……。お友達になってくれてありがとう。」
「……。連れてくるよ、私じゃない新しいお友達を、きっと約束する。来年も再来年も、その次も、夏休み最終日に。そして私と同じようにその子ともお友達になって、私と同じように一緒に冒険して、私ももしかしたら前の子も、私が連れてくる次の子たちも、ずっと花子さんのお友達。花子さんは独りじゃない、お友達はどんどん増える。私必ず約束する、絶対花子さんのこと忘れない。」
美結の叫ぶような声に被って校内放送が聞こえ始めた。『別れのワルツ』、午後五時を知らせるいつもの音楽だ。その曲にかき消されるようにじんちゃんと花子さんは姿を消した。校内放送のスピーカーを通した演奏ではあったが、『別れのワルツ』はいつもより歌うような素敵な響きに聞こえた。その曲に促されるように兄は嗚咽に震える妹の肩に手を置き、帰り道へと踏み出し始めた。