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いつか春の海辺で  作者: 堀足環
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1 受付の女と禁酒会館の石段

「性欲はどうですか?」

 柔和な笑顔を見せる小早川医師にそう問いかけられて、僕はしばらく考え込んだ。食欲や睡眠の状態についてはたびたび聞かれていたが、性欲について聞かれたのははじめてだった。自分の性生活を振り返ったが、思い出せることがほとんどなかったので自分でも驚いた。あまりに真剣に考え込んでしまったからか、小早川医師がちいさく頷いて言った。

「まあ、食欲もあるようですし、眠ることも十分できているようなので、あまり気になさらなくても大丈夫です。ふだんの生活のリズムを崩さないようにしてください。お薬は、前回と同じものをお出ししておきます」

 待合室に戻って固いソファーに腰掛けた。となりのトトロの音楽がオルゴール風にアレンジされて流れていた。その音色に混じって、空気清浄機の吐き出す音も聞こえていた。待合室には、眼鏡を掛けた女とリュックを抱えた肥満気味の若い男、それに僕よりかなり年配のサラリーマン風の男がいた。みなそれぞれ、俯いたり壁のカレンダーを眺めたりして、視線を合わせないようにしていた。僕は受付カウンターの向こうにある窓を眺めた。霞がかかった春の空に、形のはっきりしない小さな雲が浮かんでいた。

 僕が通う精神科のクリニックは、複合ビルの七階にあった。そこは耳鼻科や整骨院や薬局が並ぶクリニックモールになっていた。明るい照明に照らされた白い廊下はいつもだいたい無人で、人とすれ違うことがほとんどないのに、精神科の待合室には必ず何人か患者がいた。僕は月に一度、仕事を抜け出してそこを訪れた。

 窓からは、白と黄色の中間のような色をした陽光が差し込んでいた。僕はぼんやりと、自分の性欲について考えてみた。もう一年以上セックスをしていなかった。ときどきインターネットの有料動画サイトにアクセスするが、それも一週間もしないうちに飽きてしまう。三十過ぎの男の性欲がそれでいいのかどうか、甚だ心許なかった。

「伊勢谷さん」

 受付の女に名前を呼ばれた。透き通ったやわらかな声だった。来たときとは違う女が受付に座っていた。このクリニックに通い始めて八ヶ月あまりになるが、初めて見る女だった。僕は鞄と上着を手に立ち上がり、受付のカウンターへ行った。

「千五百円になります。こちらが処方箋です」

 女がそう言って顔を上げたとき、僕と目が合った。よく太った女だった。色白で頬がふっくらしていた。大きな目がじっと僕を見ていた。肩の辺りもふくよかな曲線を描いており、ずいぶん大柄に見えた。ただ、顎にかけてのラインがいくぶんほっそりとした印象で、そのせいか、綺麗な顔だなと僕は思った。

 診察代を払い廊下に出て、同じフロアの薬局に行った。薬の調合を待つ間、僕はさっきの女の顔を思い浮かべていた。その女の顔がなにかを訴えかけているようで、奇妙に僕を引きつけた。大きな目と色白の頬が、しばらく頭から離れなかった。

 できるだけ遠回りをして職場に戻ろうと思い、電車通りを歩いた。キィキィと音を立てて一両だけの路面電車が通り過ぎた。四月になったばかりの春の風はひんやりとしていた。ビルとビルの間に車が一台やっと通れるほどの砂利道があって、その奥に桜が散り残っていた。そこは「禁酒会館」と呼ばれる建物の中庭だった。空襲で焼け残った木造の三階建ての建物で、かつてキリスト教系の団体が断酒会を行っていたことから、その名で呼ばれている。建物の正面には、十字架と、古めかしい字体で「禁酒会館」と書かれた看板が掲げられている。街中に残る珍しい木造建築だったから、一階はカフェとして、二階のホールはイベントスペースとして使われている。

 僕は建物の正面で立ち止まった。入り口に通じる三段ほどの石段を見て、一年前の夏の朝を思い出した。この石段だったなあと、すこし懐かしい気持ちがわき起こってきた。


 前の年の八月、僕は病気の療養のために一ヶ月まるまる仕事を休んだ。

 七月の終わりに、僕は医師から渡されたうつ病の診断書を上司に見せた。上司は一瞬、下唇を突き出して難しそうな顔をしたが、すぐに「そうか」と言って総務課に向かった。会議室に呼ばれて総務課長同席のもとで病状を聞かれ、休職制度について説明を受けた。病気療養のためであれば、最長三ヶ月間、休職することができる。その間の給与は、基本給の六割を支給する。上司も総務課長も、優しく労るように話した。けれどどんなに彼らが暖かみのある表情で話しても、僕と彼らとの間に小さな穴の開いた透明なアクリルの壁があるような、どことなく冷たい雰囲気が会議室には流れていた。

 八月一日から自宅療養が始まった。はじめの三日は穏やかに過すことができた。朝は八時ごろ目覚めパンとコーヒーで朝食をすませた。洗濯や掃除をし、昼食を兼ねて散歩をした。午後は家か喫茶店で本を読み、夕方にまた散歩がてら外で夕食をとった。

 しかしそのうちに、僕は昼間から酒を飲むようになった。TSUTAYAで「24」の新シリーズをまとめて借りてきた。酒屋に行ってワインを買い込んだ。スーパーで総菜の詰め合わせを買ってきた。日が暮れるまでDVDを見ながらワインを飲んだ。日が暮れると薬を飲んで眠った。

 三日ほどそんな風に過ごしたが、療養どころかこれでは身体を壊すと、さすがに僕も思った。だけど、酒を飲むことはやめられなかった。昼近くになって起きだし、シャワーを浴びて昼食を食べに出かけた。うどんくらいしか食べる気がしなかった。午後は本を読んだり映画を見たりして過した。酒を飲むことは考えないようにした。それでも夕方になると飲まずにはいられなくなった。午後六時になるまでは我慢して、近所の居酒屋や焼き鳥屋に行った。二軒、三軒とハシゴをすることもあったし、ビールやワインを買ってきて家で飲み直すこともあった。そんな日が一週間続いた。

 仕事に行かない生活をはじめて二週間近くたった頃、寺田涼子からメールがきた。涼子は、僕の数少ない飲み友達の一人だ。彼女には病気のことを話していたから、てっきり「療養生活はどうですか?」とかいう労りのメールかと思ったら、「あさってから夏休みだから、仕事の打ち上げとしてパーっと飲みに行こう」という内容だった。

 夏休みを前にした涼子は上機嫌だった。乳製品を製造する会社が県内にあり、その会社と大口の取引をまとめたご褒美に、社長が十日間の夏休みをくれたのだと言った。「コーデック」という小さな広告会社に勤めているのだが、景気はいいらしく、一週間グアムに行ってくるとはしゃいでいた。

 僕たちはまず寿司屋に行った。屋台村の中にある小さな店だが、安くてうまかった。地元の日本酒を厳選して置いてあるところもよかった。ビールで乾杯したあと、涼子は〈大正の鶴〉を飲み、僕は〈竹林〉を飲んだ。一時間ほどその店にいた。そのあと、涼子がスパークリングワインを飲みたいというので、立ち飲みのスペイン・バルに行った。そこではカバを一本空けた。三軒目は、いつも二人でよく行く「トロイア」というバーにした。

 涼子は、最近別れた男の話と仕事で懇意になったチーズ工房の話をした。その工房には、ごく限られた顧客にしか卸さない極上のカマンベールがあって、東京の有名なレストランなどでしか味わえない。そのカマンベールを食べると、もうほかのチーズでは満足できなくなるのだと彼女は言った。

 僕は、日々飲んだくれていることと、酒と一緒に抗うつ薬を服用したときの酩酊感について話した。薬と酒を一緒に飲むと、読んでいる本の文字がどんどんほどけていくのだ。文字と文字の間隔が広くなったり狭くなったりしはじめ、次に、文字が縦に伸びたり歪んだりしてくる。まるで一つ一つの文字が踊っているように見える。文章の意味が頭に入ってこなくなって、やがて、文字自体の意味が分からなくなっていく。

 僕はバーのカウンターで涼子と話をしながら、いい女だなと思った。細く長い足と豊かな黒い髪を持っている。顔立ちは今井美樹に似ている。大体いつも、背が高くスポーツマン的な体格の男を恋人に選ぶのだが、しばらくすると、あんな中身のないやつとはやってられないといって別れるのだ。彼女とは「トロイア」で出会ったのだが、なぜか「良き飲み友達」以上には発展しなかった。

 時計が零時を回った頃、涼子がもう一軒行こうと言った。最近知り合った女の子がやっているカフェに行きたいと言い出したのだった。もう二人ともずいぶん酔っ払っていた。僕はふらふらしながらついて行った。行ったのだけれど、その先の記憶がない。

 目が覚めると、目の前は道路だった。右の頬に何か固いものが当たっていた。平たい石だった。そこは、禁酒会館の入り口の石段だった。僕はいつのまにか、禁酒会館の前で眠っていたのだ。目の前の大通りは人っ子ひとりおらず、車一台通らなかった。夏の朝のひんやりとした空気が静かに横たわっていた。僕は建物を見上げた。「禁酒会館」と、たしかに書いてあった。

 僕は立ち上がり、家に帰ろうと思った。まっすぐ歩けなかった。タクシーを止めようと思ったが、一台も通らなかった。


 そのときの僕は、自分の人生に何が起きているのか正確に理解していたとは言えない。思い返せば、その年の春先から冬のはじめにかけて起こった一連の出来事が、僕を長く暗い人生の冬へと導いていったのだ。もし僕が、もう少し注意深く、理解力のある人間だったなら、酔っ払って禁酒会館の前で目覚めるなんてことにはならなかったはずだ。周囲の人たちともっとわかり合えるよう努力をしていただろう。自分がなにをするべきなのか、どう生きるべきなのか、もっと真剣に考えていただろう。しかしそれは、今にして思えば、という話にすぎない。そのころの僕は、自分の犯した罪にさえまったく気づいていなかったのだから。

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