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いつか春の海辺で  作者: 堀足環
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プロローグ

プロローグ


 お先にとも言わずに、僕は職場を離れた。丸天百貨店企画部は慌ただしさに包まれていた。歳末の大売り出しに向けていくつものイベントが控えていたからだ。僕は自分の仕事にきりがつくと、ちょっと外回りに出かけるようなふりをして部屋を出たのだった。

 百貨店に隣接したバスターミナルは、ちょうど多くの人が家路を急ぐ時間帯で、バス停もタクシー乗り場も混雑していた。年の瀬が近づく繁華街は、行き交う人もどこか忙しなかった。僕は駅に向かう大通りを歩いた。湿り気を含んだ冬の空気が頬を撫でた。ビルの電飾や街路灯の明かりが眩しかった。今夜は冷たい雨が降るという予報だった。

 見たことのない屋台が交差点の隅に出ていた。暖簾をくぐると、まだ二十代の半ばくらいの若い男がダウンジャケットを着込んでおでんの出汁を味見していた。

「いらっしゃいませ」と男が言う。

 僕はビールの大瓶をたのんで、おでん鍋をのぞき込んだ。

「ちくわと、豆腐と、大根、ください」

 出汁がしみ込んで茶色くなった大根と豆腐、それに柔らかく膨らんだちくわが大きめの丸皿にのって出てきた。立ちのぼる湯気を見ながら、やっぱりはじめから熱燗にしておけばよかったと思った。

「この屋台、いつから」と僕が聞いた。

「はい。九月からここでやらせてもらってます」と男が答えた。

 牛スジと玉子をたのんで、熱燗を二合飲んだ。

 屋台を出てしばらく県庁前の通りを行くと、知らないそば屋があった。

 がらんとした店に入って天ざると焼き味噌をたのみ、熱燗を大きなとっくりでもらった。

 お勘定のとき、

「このお店、いつからですか」と聞いた。

「はい。来月で一年になります」と初老の店主が答えた。

 いつも通る場所なのに、どうして気づかなかったのだろうと思いながら店を出た。

 僕はかなり酔っていた。

 僕はそば屋のとなりの雑居ビルに入った。知らないビルだ。エレベーターの表示は六階まであった。僕は六階に上がった。

 六階は薄暗かった。部屋は四つあったがどの部屋も無人で、物置として使われているようだった。エレベーターの脇に階段があった。錆びた手すりを握りしめて、僕は階段を上った。屋上へ通じるドアがあった。僕はドアノブを掴んだ。たいていのビルは、屋上へ通じるドアは施錠されている。僕はゆっくりドアノブを回した。開いた。

 屋上は思ったより広かった。東側には、木立の向こうに薄ぼんやりと城が見えた。僕は、それとは反対側の繁華街の方に行った。屋上には手すりもフェンスもなかった。

 街は明るかった。車の走る音やクラクション、街自体が発する低い唸るような音が聞こえてきた。いくつもの看板が見えた。僕が働いている百貨店の看板もあった。よく知っている街の、初めて見る風景だった。

 僕の中で声がした。

「あんた、トシエさんがどんな気持ちだったか、考えたことあるのか」と男が言った。

「お願いだから、もう私を許して」と女が言った。

 二人の声が、僕の中でいつまでも回り続けた。

 夜の街を見下ろしながら、僕は、自分の人生に訪れた長く暗い冬のことを考えていた。


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