第九十三話『嗚呼デカハナ号轟沈ス』
一人食堂を抜け出したシュルルを、目で追っていたアルゴンスは、ここを逃してなるものか! と、勢い込んで後を追った。
彼女の持つスープ皿から刺激的な香辛料の香りが漂う。ただそれを追いかけるだけだ。濃密な香りの洞穴を抜ける様、廊下を駆けた。
薄暗い廊下に、彼女の赤いスカートが鮮やかにはためく。
犯罪者を追い詰める様な高揚感に、俺は弾む胸を抑え切れず、彼女を壁際に追い詰めた。
所詮は女の細脚だ。普段鍛えている俺から逃げられる筈が無い。
平民とは思えぬ整った顔だち。勝気な青い瞳は燃える宝玉の様に俺を熱く見つめている。血の様に赤く艶やかな唇が甘く吐息を漏らし、俺を待っている!
そうだ! 今こそ俺は決意を新たに胸の内を告げるのだ!
柔い壁に腕が突き立ったが、俺は構わず告げる。
そうだ、告げるのだ。
告げ。
言え。
伝えろ!
おおおお~っ!!
俺は何を言っているんだあ~~~~~~っ!!?
「あ、あの……」
「はい!」
おおおお。お返事だ! く、来る!! 来るぅ~っ!!
彼女の見開いた眼は、正にサファイアの様に光り輝き、俺の胸を刺し貫いた。
「この後、子供たちを連れ帰らなきゃいけませんし、すぐにお婆ちゃんの世話が……」
「なんと!? うむ! それは大変だな!? では、明日! 明日はどうだ!?」
駄目か~っ!! 俺、みっともね~っ!! くっそぉ~っ!! こ、このままじゃ駄目だ! このままじゃ駄目だ!
燃え盛る石炭の如く五体が熱くたぎり、アルゴンスはふいごの様に胸を上下させた。
頭では判っている。まだ、何度でも会う機会はある。契約の交渉の為に、内容を詰める為にも打ち合わせは頻繁に行われるだろう。
だが、今は今だ!
突き動かされるままに、このまま圧し潰してしまおう、組みし抱いてしまおうと。彼女の柔らかな肉の感触を! 甘美な肌の香りを!
獣欲に突き動かされ、正に猪突猛進の勢い!!
細い骨が折れ砕けんばかりに、掻き抱きたい!!!
嗚呼!!!!
「ぶひっ、シュルルさん!! シュルルさん!! シュ! シュ! シューッ!!?」
息を荒げのしかかろうというアルゴンスは、彼女の甘美な香りにくわわっと目を大きく開き、余りの衝撃に大きく仰け反ってしまった。
反対側の壁面に強く後頭部を打ち付けた、その衝撃すら忘れんばかりに、脳内をその困惑、恐怖、絶望、悲哀、湧き上がり噴出するがままの感情に翻弄される。正に深夜、嵐の海に浮かぶ小舟の如く絶望へと叩き落されたのだ。
「な、何故だ……」
認めたくない! 認めたくない! こんな事、認めたくないんだぁーっ!!
涙で滲む世界を仰ぎ見るその眼下に、たおやかな女性が悲痛な面差しで目をそむけている。
「そういう事なのか!? そういう事なんだな!!?」
「は?」
この慟哭は彼女には届いていない。遠く隔たる、旧大陸との間に広がる大海の如く、絶望の淵に俺は立つ。これは裏切りか? 否、裏切りなどでは無い。最初から、俺が道化だっただけの話だ。いつもそうなのだ。判っていたんだ。判って……
全ての美しい女性は、何故か誰もがあのゼニキチ野郎の元へと走る。そういう運命なのか?
香辛料たっぷりのスープを落さない様に掲げ持ち、破片が入らない様にシールドを魔法によって施された結果、その濃密な香りは大気から薄れようとしていた。
キスをせんばかりに近付けていた、アルゴンスのその人類のそれを遥かに凌駕した、正に神の恩恵たる嗅覚が察知したのは、シュルルの全身から立ち昇る、ゼニマールの香り。体臭だった。
あのちゃらいゼニマールの銭クソ野郎と、目の前のグラマラスな美人が、またも既にねんごろになっていた、そう察しても余りある現実に、全速前進で突き進んだアルゴンス・ドン・ボーア子爵号は正に暗礁に乗り上げ、転覆轟沈したのであった。