第八十七話『おや? デカハナさんの様子がおかしいぞ?』
はあ~っと深いため息がもれた。
薄暗い騎士団の執務室で、オーク顔の巨漢が背中をまるめる様にして机に向かっていた。
簡素な事務机の上には、幾枚もの羊皮紙が並べられ、その上にチャリっと小さな音を発てて金貨や銀貨の小山が積み上げられる。
「ふう~……今月も足りんな……」
「毎度の事で」
その様を傍らで見下ろす形の、出納係のハンスは白けた口調で述べ、無情にも慣れた手つきで小山を一つ羊皮紙と共に小さな小袋に詰めた。
そんな小役人の冷めた相槌に口をへの字に曲げ、アルゴンスはもう一度ため息をついた。否、鼻を鳴らした。ふご。
「お前は良いよな。ただ金を数えてりゃあ良いんだ」
「それが仕事で。それに私のお金ではありません」
「俺の金だ」
「もう違います。支払いに充てたお金です」
「忌々しい!」
「はははは」
また一つ、小山が別の小袋の中に消えた。あれをハンスはそこかしこの支払先に持っていき、羊皮紙に領収のサインを貰って帰って来るという、いつもの流れだ。
判っているのだ。
判っているのだが、払いたく無いものは払いたく無い。どうにかしたいものだが、どうしようも無い。賄賂を取ったりとか多少の小遣い稼ぎ程度では、大した足しにはならない。この街では誰でもやっている事なので猶更だ。
ちろり、恨めし気に机の片隅に置かれた、色鮮やかな赤と金糸の小さな包みを見つめ、徐にそれへと手を伸ばした。
騎士団長というのは、名誉職である。
それを拝命する事自体、大変名誉な事とされているのだが、何しろ全てが家からの持ち出しである。子爵程度の褒賞と領地からの上りから、諸々差し引いた上で数百名の喰いぶちをまかなうには最初から無理なのだ。あそこは農産物しかとりえのない田舎である。そもそも、どこにでもあるものを扱ってるだけなのだから、そこから上るモノも微々たるもの。それに三人も居る未婚の姉たちの浪費が拍車をかけていた。
故に、この小さな包みがあった。
「素直にお使いなれば宜しいのに……」
「ふん!」
可憐な刺繍が施された女ものの小さな袋は、この殺風景な執務室に不釣り合いな色彩を放っており、その中身たるや山吹色の輝きである。
「言われんでも」
「はいはい」
「ちっ……」
チャリン。チャリン。中から取り出された金貨を足りない所へと出して行く。
寄親からの支援金と言えばそうなのだが、素直に使う気になれないという複雑な心情がアルゴンスにはあった。
「結構な事じゃありませんか? 私なら喜んで頂戴しますのに」
「お前にゃ判らんよ」
「はいはい。申し訳ございませんね」
ぶふっと鼻を鳴らし、まだ多少膨らみのあるその小袋を懐にしまうと、顎で命じる。
それをやれやれと言った風情で肩をすくめ、手早く片付けて行くハンス。その手の動きを黙って見つめるアルゴンス。
微妙な沈黙と、コインがこすれる微かな金属音がその場を支配していた。
その時である。
鼻腔を微かな香りが。
「お?」
「如何されました?」
「どうやら、来たらしいな」
「何かでございます?」
「アレだよアレ」
「ああ……アレで……」
アルゴンスの急にそわそわし出した様を、ちろり盗み見るハンスは、今朝、急に話をしてた新しい業者の件かと得心するも、それも単なる業者ではないのだと推測する。その素振りから、嫌な相手ではなさそうだとも。
「ちょっと行って来る。後は任せた」
「はい。どうぞ」
世話しなく上着を引っかけると、小さな鏡の前で頭を撫でつける。そんな騎士団長の様を、冷ややかに眺め、ハンスは何を今更とふっと息を漏らした。
やれやれ、女か……無駄な事を……と。