第七十七話『私、全然、これっぽっちも!』
大きく世界が揺らいだ。シュルルは、そう感じた。不意にアンバランスな認識に突き落とされ、大いなる熱量に鷲掴みにされ、中空に引き上げられたかの感覚だ。
正しく、シュルルは人族の細腕一本に支えられ、あろう事か。
「ああ。お嬢さん、は無かったですね? 失礼、マダム」
涼しく光る蒼い瞳を間近に、息もかからんばかりに微笑みかけられたのだ。あの、キラキラさんに。
グフ……
倒れそうな上体をぐいっと引き寄せられ、支えられる。
そのまま腰が密着し、キラキラさんの体温がそこから直に伝わり出す!
ふわわわわ~……
傍から見れば、ただそれだけの事の筈なのだが、シュルルの視界一杯に奔流の如き魅了の輝きが燦然と放たれ、それはシュルルの肉体に触れる部分からも艶美な熱量にてじわじわと浸食を開始していた。
それを隔絶した意識の中、シュルルは理解する。
魔法使いとなるにあたり、精神の領域を幾つもの階層に分け、同時並行に、ある部分では自動的に、自律的に機能する様に意識を訓練していた。故に、浸食されようとしている理性の領域すらも、他者に干渉する対象として先ずは己の内面を理解する事から監視瞑想する対象であり、そのじわりじわりと変質する様を認識すると共に、抵抗を試みるのだが……
「あ~……あら、これは隊長さんじゃありませんか?」
「はははは。まだ都は慣れませんか? よそ見をしてると、危ないですよ」
こ、れ、は……ヤバ……い~……
対抗するにも、穴が空いた革の水筒から水がぽたぽたと漏れ出る様に、自分の中に影響を受け易い部分がまるで木の根の様に存在し、そこからこちらの障壁をものともせず精神の表装面をさざ波となって広がりゆくのを感じてしまった。
ひ、左の肩だわ。
あそこに貼り付いた黒いコインが受け口となって、まるで呪いの様に止め止めも無く精神を浸食し、それにより肉体もまた……
ドム!
異様な心音が。
尻尾の先まで胸の脈動が響き渡り、カッと体温が高まり喉に渇きを覚えた。
「だ、大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます。あの……どうか……その……」
「本当に? 少しご気分が優れないのではありませんか?」
ドム! ドム! ドム!
うああああ、五月蠅~い! 頬が熱い! 目が、目がぁ~!
視界いっぱいに広がるキラキラさんのドアップに、どこへ目線を反らそうにもその瞳や唇、耳や鼻と各部パーツに吸い寄せられてしまい離す事が出来ない。
なは~んて形の良いぃ~……じゃ、な~い!!
気付くと、シュルルは小鹿の様に弱々しく震え、胸の前で両の腕を、己を守る様に縮こませていた。
まるで非力な少女の様に。
そんなシュルルの顔を、本心から心配しているかのキラキラさんのドアップが覗き込み。
「熱があるのでは? 環境が変わって無理をされたのかな?」
「ひゃ、ひゃい?」
ひやりと冷たい彼の掌が、頬を、額をと……
ド・ぎゃ~ん!!
く、喰われるぅ~……捕食されてまう~……
迷宮には幻惑し魅了し獲物を引き込んでそのまま脳を啜ったり肉を食んだり骨をコリコリィィィ~……
あはやあわふぇほふみゃぬもば──
「団長! 駄目ですよ!」
「ごっぷ!?」
ふって湧いた様な、鮮烈な声がこのキラキラ空間に割って入ってへぇ~……私のみぞおちに何故か鋭い肘が~!?
私とキラキラさんの間を引き離したのは、耳の長い銀髪女でした。顔は見えない。後頭部だけだけど、声がキンキンとしてて如何にもメスって感じ。ゴブリン並にけたたましいわ!
……ふわっ!? ふぇるふ!?
「まったく手当たり次第なんですから! 少しは自重して下さい!」
「え~? ボク、何もしてないよ~?」
「ええい! 無自覚に処構わず手を出してるんじゃありません!!」
「酷いなあ~。まるで僕が女たらしみたいな言い方するなんて~」
「団長は女たらしです!!」
「ええ~!?」
目の前で、こんなやり取りをされて、漸く周りの様子が目に入ったわ。
街の皆さん、私たちをぐるり取り巻いて、何か変な生暖かな眼差しを送ってる!?
キラキラさんの背後には、デカハナさんとも同じ様な外套を纏った兵士らしい人たちがずらり控えてて、皆さん『七』って番号が描いてあったり刺繍されていたり……
いや。
いやいやいや。
私、全然、これっぽっちもたらしこまれてたりしないんだからねへっ!!