第六十五話『遠い香り』
皿なんかを蓋の上に、鍋を両手に抱えたミカヅキは、ピクンと尻尾の先まで強張らせた。
「「「「「「わっはーい!!!」」」」」」
「う、うっ!?」
ぴたぴたと素足で駆ける子供らの様は、沼ゴブリンもヒューマンもそう変わらないものだと、飛び跳ねるその背を眺め、シュルルはふっと目を細めた。
ま、あいつらの場合、手には棍棒とかナイフとか振り回して来るもんで、こんな可愛いもんじゃないんだけどね~。
そんな事を思いながら、シュルルは小さく首を左右に振って、ミカヅキをいさめた。
あと少し、間合いが近付いたら、ゴブリン相手なら尻尾の凪払いが出るところだからね。
この位の頭数なら、全員を数メートルは吹っ飛ばし、当たりどころが悪ければ死ぬ子も出かねない。それくらい、相手はひ弱な種族なんだから。
ちょっとした合図に、ミカヅキは尻尾をぺたりと垂れて、やや強張った表情のまま群がる子供らの前に、その寸胴鍋を降ろした。
こおんな物騒なやり取りが交わされていたなんて、当の子供らは気付く筈も無く、目の前に置かれた、自分の胴回りよりも大きな寸胴鍋にもう釘付け。
「何!? 何!? 何のスープ!?」
「あちっ!?」
「「「「「うわわ!?」」」」」
慌てて鍋の蓋に手を出した子が、悲鳴を挙げて仰け反って、残りの五人は目をまん丸にしてびっくり。みんな、わわわっと一歩下がり、ぽかーんと大口を開けて、その子の手を目で追った。
「いってぇーっ!」
「ほらほら。こっちに見せてみなさいな」
本当にゴブリン並だなあと思いながら、その子の手に。
お鍋は直前まで竈に入れてあったのかも。
火が弱まって無かったら、そりゃ熱いわ~。火傷しちゃってるんじゃないかしら?
「もう、バカね」
「う、うっせえ! バカって言う方がバカなんだよ!」
「あら、いっちょ前に言うのね?」
コロコロと笑い飛ばしながら、ひょいとその手を摘まんでやると。
「あいたたたたたたた!! 痛い痛いってばよ!!」
「もう。あんた達、怪我なんかしたら大変なんでしょ?」
その子、顔を真っ赤にしかめて、じたばたするものだから、ぱっと手を放してあげたわ。
すると、ひーふー言いながら手に息を吹きかけていたその子、きょとんと。
「あ、あれ?」
「大した火傷じゃ無かったみたいね?」
「え? 痛くないや……」
「何だよ~」
「焦らせんなよ~」
「バカみたい」
「恥ずかしい」
「……」
「え? え? おっかし~な~? めっちゃ痛かったんだぜ~」
あ~あ、散々。みんなから小突かれちゃって。
勿論、皮がずる向けたり、水ぶくれ起こすくらいの火傷だったけど、その程度なら。ね?
組織が死んでいくより早く、生きてる組織を増殖させて入れ替えるだけの簡単な魔法。何しろ、細胞の材料はその場にあるんだから、後は増殖に必要な生命力を直接チャージしてあげれば良いだけの事。私たち、人の三倍も重いって事は、単純に考えて人の三倍も生命力が大きいって事だからね。
指先ちょっと程度、軽い軽い。
ふんと鼻息が。あらあら、はしたないわ私ったら。やあね~。
「じゃあ、ミカちゃん。手伝って~」
「あ、うん……」
「どしたの? 元気無いわね?」
「あ……後で話すで御座るよ」
「ふう~ん……」
そんなやり取りをしながら、子供たちにお皿とスプーンを渡すと、ミカちゃんから鍋掴みを受け取り、お鍋の蓋に手を。
「これ、開けて無い奴よね?」
「で、御座るよ」
そこでずらり居並ぶ欠食児童を前に。その顔を右から左へと、流し見して。
「良いかな? みんな、最初はゆっくり食べなさいよ~。あんまり急いでかっこむと、お腹がびっくりしちゃうからね~」
「そんなの良いから、早くくれよ~」
「「「「「ぶ~ぶ~ぶ~」」」」」
あははは。待ったかけられて、我慢の限界って感じ~?
「じゃ、最初は少しずつ。小分けにしてあげるからね~」
そう断ってから、鍋と一体になってる蓋を外す。銅と銅の結合部を。と同時に、中から溢れ出る熱気をおし留める。
ぱかり。静かに開いた蓋を持ち上げ、膨張してかなりの圧になってた中の空気を、そろそろと逃がしたわ。破裂して飛び散ったら、全員熱いの被っちゃうからね。
「「「「「「ふわ~……」」」」」」
ふんわりと広がる食べ物の煮えた濃密な香り。それは幸せの香り。
幼い頃、家で煮炊きした時に生じただろうそれを、シュルルは欠片も逃がさず濃縮したそれを、今、目の前で解き放ったのだ。
それは、何の不安も無く、ただ幸せが当たり前だった思い出の香り。
ひもじいお腹を抱え、路地裏で横になっている時、幸せそうな団らんが漏れ出る家から、その声と共に流れ漂う香り。
あまりに遠い香りだった……