第五十六話『これって、何だ?』
朝食用のパンを受け取りに来る人々で、ベイカー街のメインストリートは今朝もかなりの賑わいだ。
老いも若きも、焼き立てのパンを籠に入れるや、そぞろ歩きで家路を急ぐ。
木靴に裸足、みなそれぞれ。ペタペタ、パタパタ、カタカタと。
そんな中を、パン籠を両手に抱えた兵士たちがぞろぞろと行進する。彼らを避けようと、平民たちは右往左往だ。
「じゃ、行こうか?」
「はっ!」
駐屯地へと送り返した副団長のナザレと新米騎士のジェライドは、揃って例の建物へと歩み寄った。
三階建ての、この辺りでは同じくらいの高さだが、その前に立つと何か不思議な気分になる。だが、それが何なのか思い至らず時が過ぎる。
職業柄、ナザレはその感覚に鋭いつもりでいたが、そこに居るという、若く、美人で、胸の大きく、腰のくびれ、それでいて尻の大きないい女の事で、わくわくが止まらない。
あのむっつりスケベが、がたがたぬかすのだ。
親友の恋路を邪魔する気など毛頭無いが、これを確認せずに何の竹馬の友だ!?
ついでに、新米にイイ女って奴を勉強させてやるいい機会って訳。
「お~い、逃げんなよ~。ちゃんと付いて来てるか~?」
「あ、当たり前です! ボクだってソス家の男です! か、からかうのは止めて下さい!」
内勤ばかりで、現場度胸の無い新米のおっかなびっくりの脚運びに、にやりケツ顎を撫でながら、頬を紅潮させる少年らしさの抜けきって無い顔を流し見た。
「さ、いよいよだ」
その前に立つ二人。
店舗らしく、大きな窓が一階にあり、その右手にノッカ―の付いた木の扉がある。
見上げれば各階にある三つの窓は鎧戸が開き、四角い窓ガラスが陽光を跳ねた。平民で板ガラスは珍しい。が、気にも止まらなかった。
ぽつりとジェライドが素直な感想を漏らす。
「まっさらですね」
「そりゃ、そうだ。この間まで、廃墟だったからな」
ああ、わくわくが止まらない。
ナザレは、そっと鉄のノッカーを持ち上げ、二度、ダンダンと叩いた。
中から女の声が。その響きからしても、若い女を連想させた。
そして、ドアの小窓が上に開くと、そこからまろ身のある、如何にも若そうな青い二重の瞳が覗き返して来る。
それだけで、ナザレの内にある期待度がぐんと跳ね上がった。
「どちらさまで御座ろうか?」
その異国情緒のある響きも、魅力でしか無い。好奇心が優り、ナザレは流れる水の如くに用意したセリフを口にする。
「第四騎士団の者だ。依頼の確認に寄らせてもらった。シュルルという女はお前か? 顔を見せよ。無礼であるぞ」
少し威圧的に振る舞う。その反応で、そこから先の対応を決める。
中でほうとため息の様な気配。愛想は余り良くないと見える。
続き、閂の外れる音が。扉はゆっくりと、外側へと開かれた。
「シュルル姉は買い出しに出て、今は居りませぬ」
無作法にも、そう告げながら顔を出したのは、正しく若い女だった。
長い金髪を後ろでしばり、整った面差しに二人は思わず息を呑んだ。陽光に眩しい程の青いワンピースに身を包み、すらりとした印象が清水の如く吹き抜けて行く。
と同時に、ナザレはその胸元を見て、がっくりと。期待していたのとは違った。思わず落胆の息が。
突然の来客に憮然と応対したミカヅキは、顔から胸元へと下りた男の目線を目の当たりにし、何て失礼なくそ野郎だと思ったが、武の道を歩む者として微塵も揺るぐ事は無い。
目の前の失礼なくそ野郎の事はさておき、その隣に居る若い男の方も油断なく見据えた。
くそ野郎の方はそこそこ。だが、若い男は全然ダメに思えた。そういう空気を纏っている。
弱い。その侮りが余裕となり、微笑となる。
ジェライドは、その微笑みにきゅっと胸が締め付けられる様な、謎の感覚を覚え、自然と目を大きく見開いて、その少女のまなじりから口元、首、肩、腕の先へと目線を惑わせ、スカートの裾までも。そして腰の後ろにある、何やら棒状の物に、主鞘の道中差しへと移っては、再びその愛らしくさえある微笑みを見やると、ハッと目を反らした。
何故だか判らないが。
そんなジェライドを置き去りに、ミカヅキとナザレの会話は進む。決して、穏やかなもんでは無いが。
「で、何か言伝でも?」
「これこれ、娘。ちいとばかり不調法が過ぎねぇか?」
「そうで御座るか?」
ことりと首を傾げるミカヅキに、ナザレは苦笑するしか無い。
子供にゃちょっと意地悪いかな? と思いながらも、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「俺たちは客だぜ? 依頼をするからには、それなりの設備が整っているかどうかくらいは確認しておきたいってもんだ。違うか? なあ?」
不意に同意を求められ、ジェライドはびくっと反応し、慌てて少女の顔を見る。が、言葉を詰まらせ奇妙なうめきにも似た息を漏らし、ただただ頷くだけであった。