第四章「男は女の愛を知る」 十五話
数年前、この洞窟は小さな竜たちにとって住み心地が良かった。人の住処の近くであり、天敵となる大きな竜はその人が駆逐してくれる。鉱物を食べる岩石を鎧とする小さな竜たちは、時折に群れの一部を人間に駆られることを除けば楽園と呼んでもいいほどに。
だが、奴が来た。ミューカスドラゴンと人は呼ぶそいつが。彼らの天敵で、その唾液はその小さな竜の鎧である岩石を溶かす。たった一匹であったが、おおよそ今日まで洞窟いっぱいにいた群れはすでに五十近くまで減らされて、あいつが入ってこれない洞窟の細長い横道で細々と暮らしていた。
「ゲコ!」
そんな中、喉を膨らませてあいつが走ってきた。慌てて、時にずっこけて、バタバタと手を動かして逃げ惑っていた。すると、暗闇を照らす松明の灯りもやってくる。
「ルアネさん。さっき走らせていた偵察機が戻ってきて洞窟の内部構造を把握できました。もうこの先は一本道ですね」
「ああ、いつも通り変な魔術使ってたのね……しっかし、それ便利ねぇ」
「魔術じゃないんですけど……それにルアネさんだってやろうと思えば似たようなことできるでしょうに」
人間共だ、と岩石竜たちはその目を光らせて仲間にそう伝えた。洞窟内の穴から不気味な緑の光が広がり、自らの天敵を嘲笑った。
あの竜は欲を張りすぎて慌てふためいていると。自分たちをここまで減らさなければ、追いかけてきた人間どもと自分たちを戦わせる選択肢もあったようにと。
「うわ、何これ! すごい光ってるんですけど!」
「落ち着け、岩石竜だ。我がドラゴノス帝国の屋台で売っていた肉があったろう? それだ」
「えーと、危険はあるんです?」
「ほぼ無い。基本的に臆病だからな、構わらなければあちらから襲ってはこない」
天敵を屠る死神が来たと岩石竜は歓喜した。人間どもはいつも戦っていて野蛮なことを彼らは知っていた。大昔にここの主であった大きな大きな竜を倒して自分たちの住処に変えてしまったのを、彼らは脳の記録ではなく体内に流れる血で覚えていたのだ。
だから、あの目障りな粘液竜もきっと、人間に倒されるであろうと――。
「ここが最奥です。強い光で照らしますから目を傷めないようにお願いします」
忠告を一言添えて、アラムは自分の近くに飛んでいた偵察機のステルスを解いて、強烈な光で洞窟内を照らした。それは一時的な相手の目つぶしを目的にした機能なので過剰な光だ。
忠告をされていたが、急に陽光が目の前に現れたような光に目そむける一団。そして目が慣れてきた頃に周囲を探すも、そこにはただ広いドーム状の空間しかなかった。
「え?」
青年から間抜けな声が漏れる。まさか偵察機が把握していない抜け道があったかと逡巡して周囲を見るが、あの巨大なミューカスドラゴンが通れそうな穴は無い。
ならば確かに彼らはあの大きな竜をここに追い込んだはずだ。何も無い行き止まりを前にして、誰もかれもが不思議に思っていた。たまらずギャレンが視認性の悪い兜を取ってから、ルアネに質問を投げかける。
「……ルアネ? 獲物は――」
「上よ。張り付いてるわ」
誰に聞けばいいか、その選択は正しい判断であった。ただ一人、彼女はその姿を視認していたのだから。三メートルを超えるニューカスドラゴンが、その重さを感じさせないほど静かに、ただ天井に張り付いてこちらを表情の無い顔で逆さのまま見下ろしていた。
追い込まれた粘液竜は、そんな所に隠れていたらしい。
「出たな邪竜よ! このレルドルト ドラゴノスが相手だぁああああ!」
「あ、ちょっと単身で突っ込まないって国を出る前に言ったでしょ!」
と、ルアネの忠告空しく、レルドルト皇太子は勇ましく剣を抜いて一番槍として洞窟の天井に張り付いているミューカスドラゴン目掛けて走っていく。だが空しいかな、誰も続かない。
それもそのはず、ミューカスドラゴンを仕留めるにあたってルアネから無謀な接近は止められていたからだ。そして、ミューカスドラゴンの口から黄色い液の固まりが吐き出された。
「ぐあぁああああああああ!」
そして盛大に蛮声を上げながら、皇太子様はジュウウッと音を出しながら全身を溶かされ――なかったが、溶けたものはあった。全身の装備だ。
「……」
勇んで走っていった行きとは違い。ペタペタと裸足でつるつるとした洞窟内の地面をゆっくりとした徒歩で戻ってくるレルドルト皇太子。無論、全裸でだ。下着も溶かされている。
「あのぉ……これ、その」
その姿がからあまりにも悲壮感が漂っていたのだろう。一瞬、馬鹿にされていた仕返しに何か言い返そうかと考えたアラムだったが、多くを語らずすぐさまタオルを召喚して今にも泣きそうな皇太子へと手渡す。
「無様な姿をさらし更に民草から施しを受けるなど……いや、大義である……」
そう言って少し迷ってからタオルを受け取る皇太子、全身ベトベトの液を拭き取ろうとしたが、タオルも溶けだしたので腰に巻くだけにしておいた。
さて、彼が率いていた私兵もなんだかやりずらそうにしている。主があれほど勢いよく飛び出して、秒で返り討ちにされたのだから仕方ない。
「ま、まぁ剣が無くなったら竜退治はできないわね。でもここであいつを逃がしても商人の被害が増えるだけだし、レルドルト皇太子? こっちであの害竜をやってもいいですわね?」
「あ、ああ……どうかルアネ姫よ! 我が仇を取ってくれ! いや俺は生きてはいるのだが!」
「まぁ、私も装備を解かされるのは嫌だからギャレンに投げるんだけど……」
そう言って、行ってこいとギャレンの肩を軽く叩くルアネ。今まで口数少なくここまできた彼だが、肩を落としているレルドルト皇太子を見てニヒルに笑ってから前線へと躍り出た。
ここで情けない恋敵と差を付けようとやる気になっているみたいだ。先ほど頭から取った兜を被り戦闘準備を整えてからたった一人、巨大な竜へとゆっくりと近づいていく。
「え、ルアネさんは戦わないんですか?」
「私のこの黒いドレスアーマー、売ったら屋敷が立つぐらいのお金は入るのよ? でもギャレンの鎧はアケル王国を出た頃から使ってるボロ……これだけ言えばわかるわよね」
脳筋補助魔術師であるギャレンのみを行かせたことを非難がましく見るアラムだったが、きちんとした理由があるらしい。まぁ、ここまでの旅でギャレンの装備を一度も更新していないのはそれはそれでどうかと思うのだが。
と、二人がそんな会話をしている最中、ギャレンはぼそりと何かを口走った。
「――身体強化、高出!」
それはとても魔術の呪文とは思えない彼らしい無骨な言葉であった。そしてギャレンが身を屈めた瞬間、彼が風と共に消えた。
気が付けば、ギャレンがなぜか宙に浮いていた。位置は先ほどミューカスドラゴンが張り付いていた天井付近、そしてそのミューカスドラゴンは地面に叩きつけられ、その巨体をバウンドしているところであった。
ギャレンの高速移動、それはアラムも一度見たものである。いつかの日、ルアネとギャレンが旅立って間もない時に戦ったデザートドラゴン。その時に見せた身体強化魔術による高速戦闘だ。
だが同じであると感じたのは彼だけらしい。
「アラム様、ギャレン様の動きが別物です……出会った頃より更に鋭くなってます」
「う、うん。パワーアップしてるね……え? してるの?」
青年から見ればギャレンの成長など理解できない。元々目で追えないのだから、違いなど理解できるはずもない。が、青年は自分だけ理解できていないのは恥ずかしいので流れに身を任せて、少女の言葉に頷くも、正直にそう聞き直す。
「しかし、強くなりすぎています」
キレスタールに言われ、遠くにいるギャレンを注意深く観察する青年。よく観察すればそっと腕を押さえている。あの槍の雨を受けても平気そうな大男が痛がっているのだ。身体強化の術による負荷が大きすぎるのだろう。
「ルアネ様、ギャレン様の治療を行います。私めが結界を張りますので援護を」
「不要よキレスタール。まぁ見てなさい」
すでに戦況は一方的であった。殴られたことすら理解できていないミューカスドラゴンは数度バウンドして転がりたどり着いた壁面に張り付いてギャレンを見る。だが彼の猛攻は終わらない。
「――身体硬化、高出」
またギャレンの纏う空気が変わる。静かで、でも巨大な大樹を前にしたような圧迫感だ。
「――身体治癒、高出」
次々と自身の体を強化していくギャレン。元々使えた身体強化に加え硬化と治癒、これで肉体への負荷を力技で無くしているのだ。
ミューカスドラゴンはその何を考えているかわからない無機物のような間抜け面のまま、驚愕した。なんだこの人間はと、今まで出会ったことの無い人間だと。常識というものが全く通用しない未知の存在に、この竜は戦慄した。
そして選択の時はきた、自らの命が助かるか助からないかの分岐点。もはや目の前にいる存在が自分への最大の脅威として感じたミューカスドラゴンは、その狡賢い知能をフル回転させ生存への一手を網戸そうと必死であった。
まずは先ほど身ぐるみを溶かした男への攻撃、群れの中でも子供などの弱い存在を狙うことは動物として当然の戦略だ。だがあそこには目の前の白いオスと同等にヤバい黒いメスが防衛をしているのでこれは無理だ。
死んだふり、いや、人間という生物はそんな簡単なことでは騙されない。あの先ほどから洞窟を照らす訳の分からない物を潰すか? いやそれもあの黒いメスのせいでできないだろう、とこの嫌われ者の竜は考える。
ならばどうする? 急場にて出された結論は単純なものであった。
「ゲロォ!」
広範囲に及ぶ胃の中の腐食性である粘液の大量放出。人というものはこの粘液を吐きかけ裸にすれば戦意を喪失してきた。この絶体絶命の危機に、ミューカスドラゴンはこれまでの経験から行動したのであった。
それは知能ではなく、本能での行動であり、この狡賢い竜が思考を放棄してでの行動であった。
はっきり言おう。この竜は最後の最後で間違えた。先ほどこの人間には常識が通用しないと直感的に感じ取ったのに、焦りと恐怖で本能で対処しようとしてしまったからだ。ここで攻撃ではなく完全な逃げに転じていれば、少ない可能性で生き残れたというに。
「すぅ!」
大きく、深く、そして短く息を吸う音が聞こえる。音の主は無論、目にもとまらぬ速度で動く男だ。そして、ミューカスドラゴンは信じられないものを見た。
「ゲッ……」
ふくれた顎が、中途半端な音を出す。それはこの竜にとっての驚愕であり、ありえない現実への混乱の証拠である。さきほど大量に放出したありったけの粘液、それが男が拳を振るった瞬間に文字通り“吹き飛ばされた”のだ。
何がどうして、生存に特化し進化したこの竜の頭は疑問に埋め尽くされる。竜は理解できなかったであろう。まさか群れることで生きていく弱い人間が、拳圧で己の吐いた液を飛散させたなどと……その正解にたどり着く前に、終わりはきた。
「――ゲッ……コ!」
自身が放った攻撃、それを理解不能な何かで吹き飛ばされると同時に、ミューカスドラゴンの瞳には、白い死神がすでに拳を握りしめ目の前まで接近していた……そして、瞬き間にこの竜の意識は、小さな鎌で刈り取られたのであった。
次回更新は明日の朝六時の予定です。




