局長が世界で一番恐れるもの
それから数日。局長の頑張りもあってか私が部屋に居ても机の下に隠れずに仕事ができるようになった。とても嬉しい。馬の被り物の効果は絶大だった。さすが、局長と公爵様の愛馬を模したもの。
会話も身振り手振りで済ませることも多くなった。もちろん、話かけるのは私だけで、局長は動作で反応するのみ、というものではあったが。
けれど、以前に比べたら随分と成長したものだろう。たとえ、部屋の中に馬の頭部を被った人間が二人も居るという異様な光景であっても。
「局長、今日はお散歩に行ってみませんか? ほら、こんなに天気もいいことですし!」
窓の外に広がるのは雲一つない澄んだ青空。それに、公爵家のお庭は薔薇の花が咲き乱れている。素晴らしいお散歩日和というやつだ。
ちらりと局長の居る方向を見れば、がっちがちに固まった状態で居た。またぎゅっと手の平を握り締めているので、緊張状態なのだろう。まだお散歩は早かったかと思い、残念な気持ちになる。
まあ、仕方がない話だ。まだ、互いに馬の姿となってさほど時間も経っていない。今日のところは諦めることにした。実は休憩時間にでも庭の散策をして木陰でこっそりお菓子を食べようと昨晩クッキーを作っていたのだ。そういえばそろそろマリリンの休憩時間。彼女でも誘って出かけるかと、今後の予定を立て直す。
依然として局長は静止状態にあったので、声をかけることにした。
「嫌だったらいいですよ」
その代わりに休憩行ってもいいかと聞こうとしたら、急に局長は動き出す。ふるふると首を振っていた。首を振り続けるお馬さん。一体どういうことなのかと首を傾げたが、すぐに散歩が嫌だということの否定だということに気がつく。
「もしかして、散歩に一緒に行って下さる、ということでしょうか?」
今度は首を縦に振り始めた。
「本当ですか? 嬉しいです、ありがとうございます」
またしても首を振り始める局長。いいってことよと言いたいのだろう。
こうして私達は庭の散策に出かけることになった。大きな一歩だと言えよう。
一度部屋に戻り、籠の中にクッキーを入れてから局長の部屋に行く。
「さあ、行きましょうか」と言えば、ビクリと肩を揺らす馬、もとい局長。早く外に行けるように、わざと局長に急接近して追い立てる。作戦が功を奏し、迅速に庭まで移動させることに成功をした。
庭に出れば噎せ返るような薔薇の香り! ……がすればいいのに。馬の被り物をしているせいでいまいち香りが分からない。しかしながら、視界だけはばっちり。仕事をしやすいように視界は確保できるように改良を重ねていた。
被り物は馬の首から上を作ったもので、鼻の穴から視界を確保する構造となっている。よく見えない場合は、口を開けば問題解決構造。馬の目と人の目の位置はどうしても合わないので、このような作りとなっていた。そんな馬の頭部を被った状態で、局長と庭を散策する。
薔薇園は迷路のようになっていた。さまざまな種類の花が咲き乱れている。
「とても綺麗ですね、局長。あ、これ、凄く可愛い!」
レースをくるくると巻いたような真っ白い薔薇の花は王宮のお庭でも見たことがない、珍しいものだった。香りを嗅いでみたくて馬の口を開いて花に近づける。うん、いい香り!
さすがは公爵家のお庭。国内一の薔薇庭園という噂は本当だった。
心行くまで可憐な花を眺め、うっとりしたあとに気がつく。局長と一緒に来ていたことを。それに、年甲斐も無くはしゃいでしまった。とっても恥ずかしい。
おそるおそる振り返れば、局長はほど良い距離を取って立ち尽くしていた。
「す、すいません、つい、夢中になってしまって」
そんな私に局長はカードを差し出す。一体何事かと思って紙面に視線を落とした。
――その薔薇の名前は『ブルジョン・ドゥレーブ』。夢の蕾という意味で、異国よりもたらされた品種です。
見た目も素敵なのに名前も可愛いだなんて!! まさか名前を教えてもらえるとは思いもしなかった。満足するまで眺め、局長にお礼を言ってから先に進む。
驚いたことに局長はたくさんの薔薇についての知識を持っていた。この薔薇の名前は何とか、名称にはどういう由来があるとか、色々な話を紙に書いて解説してくれる。
「局長は薔薇の花がお好きなんですか?」
今までさらさらと文章を書いていた指先がピタリと止まる。
「局長?」
何か聞いてはいけない事情でもあったのか。
局長の手が僅かに動いたので、書きかけのカードを覗き込む。
そこに書いてあったものは一言だけ。――妹が。
「妹?」
妹ということはフロース様? 薔薇とフロース様、一体どういう関連があるのか。
「あの、局長」
顔を上げて問いかければ、局長は大袈裟な程にビクッと驚いてみせる。私は何か踏んではいけないものを飛び上がってから踏みつけてしまったのだろうか。目の前に居るお馬さんはしだいにガタガタと震え出してしまう。
「あ、あの、ごめんなさい。私――」
両手を上げながら局長から距離を取り、危害は与えないことを主張する。
だがしかし、局長の震えは納まらない。
「局長?」
不可解な行動をする馬を訝しむように見れば、人指し指を私に向ける。
「私が、何か?」
局長は首を振った。私ではないと?
「だったら一体なんに怯えて……」
「何をしているのよ、あなたたちは」
突然の背後からの声。驚きで体がびょーんと伸びてしまった。さらに振り返ってからも驚き。そこに居たのは――
「フ、フロース様!?」