取り戻したもの
季節は巡り、ふと気がつけば、広い庭を覆っていた白銀の絨毯は若葉色のものへと模様替えが完了していた。私とレグルスさんは相変わらずで、互いに馬の面を被って接するというおかしな交遊関係が続いていた。
ここ一カ月ほどはレグルスさんの仕事が忙しいようで、会えない日が続いている。
私は毎日マリリンさんから礼儀作法を習ったり、庭を散歩したり、森に入って香草を摘んでお茶やお菓子を作ったりと、充実した日々を過ごしていたが、その一日の中で馬面黒衣の訪問者が現れないと物足りないような、寂しいような気分にもなっていた。
平和に暮らす日々の中で朗報も届けられる。領地で暮らしているお母様がご懐妊となったようだ。
お父様に贈った薬が功を成したのか。本当におめでたい話だ。そんなお母様とはまだ一度も会っていない。お忙しい方なのだろう。
母とは半年近く文通をしている。文章から推測するに、快活で明るくはきはきとした女性のように思っていた。きっと堅物の父にぐいぐい迫って結婚をしたに違いない。領土の雪が溶けたら会いに行く約束もしている。楽しみにしていることの一つと言えよう。
今日は久々にレグルスさんが帰って来る日。
会うのは一か月振りで、少しだけ、いや、かなりわくわくしている。
マリリンさんと二人で服はどれにしようかと時間をかけて悩んだり、髪型もどうしようかと色々結っては解きを繰り返したりと、落ち着きのない時間を過ごした。
「まるで、恋人との逢瀬を楽しみにしているみたいですね」
「えっと、そう、ですね」
もう、マリリンさんにはバレていた。彼女に隠しごとなんてできるわけがないので、正直にその通りだと頷く。
――私はレグルスさんのことが好きだ。
馬の被り物の下にある顔も、どの家の生まれだとか、密偵をしていること以外のはっきりと素性も良く知らないけれど、いつの間にか好意を抱いていた。
「失礼ながら、一つ質問をしても?」
いつになく真剣な眼差しを向け、質問をするマリリンさん。一体何事かと思ったが、どうぞと言って質問を言うように促した。
「お嬢様には覚悟がおありで? あのお方がどんな人であっても、生涯愛す自信はありますか?」
そんなこと言ったって、レグルスさんはレグルスさんだ。別に、どんな事情を抱えていても、想いは揺るがないと思っている。
「ですが、愛情だけでは、上手くいかないこともたくさんあります」
「例えば?」
「その人を取り巻く、どうしようもない環境とか」
その人を取り巻く環境。
ありえない話だが、例えの一つとして、レグルスさんはこの国の王子様で、次期国王となるお方。そんな方に愛を告げることができるのかと、そういうことだろうか。仮に、そうなって、気持を受け入れてもらった先に待っているのは王妃の座。図々しい例え話だとは思うが、この屋敷の規模から見て、この家は大貴族の一つであることは薄々気が付いていた。なので、公妾に、という話には進まないだろうと。マリリンさんの言う覚悟とはそういうことなのだろう。私に、王妃になる心構えはあるのか、と。
「覚悟は、あります」
「本当ですか?」
射抜くような厳しい視線を向けるマリリンさんの言葉に、しっかりと頷くことができた。
「よく、覚えていないのですが、私は記憶を失う前に、欲くて堪らないものに手を伸ばさなくて、我慢をして、自分の感情を無理に押しつぶしていたことが、あるような気がします」
だから、神様は呆れてしまったのだろう。自分の気持ちに正直になれないものは、すべて失ってしまえと、記憶を消されてしまったのかもしれない。
「今度は、諦めません。欲しいものは欲しいと、私は、自分から手を伸ばした――痛っ!!」
決意を語った瞬間に、頭部への痛みに襲われてしまう。
私の体は一気に力が抜け、視界も暗転した。意識が途切れつつある中で、馬の頭部を被っていて良かったなあと考える。綿の詰まった馬の被り物は、転倒時の緩衝材としても優秀だった。
◇◇◇
目が覚めれば、既視感を覚える。視界の端に、馬の頭部を抱える男の姿が。
――嗚呼、旦那様、何故そこに?
まあ、そんなことよりも、大変なことがあった。失くしていた記憶が、すべて戻っていた。
なんということだろうか。
私は求婚されたという衝撃で大混乱をして、暗闇の中で動き回り、挙句、壁に激突をして記憶喪失になるという迷惑行為を働いてしまった。
しかも、そのあとこの家のお嬢様として半年も暮らしていたなんて図々しいにもほどがある。
それに、公爵様を父と思い込んでいたなんて!!
ああ、どうして私は肩叩きなんかしてしまったのか。どうして下手くそな胴衣なんぞ贈ってしまったのか。精力剤については考えたくない。でも、ラウルスさんがご懐妊となったから多少は役に立ったのだろうか。
いやいや、そんなことよりも、私は大変なことを色々としでかしている。
旦那様を気軽に名前で呼んだり、不味いクッキーをたくさん食べさせたり、上から目線で説教もしたし、「私は好きですよ~」と軽い調子で告白もしてしまった。なんて恥ずかしいことを。
このまま消えてなくなりたい。
けれど、頭を抱えて苦しむ馬男を見捨てることはできないし、私自身も離れたいとは思わなかった。
私は勇気を出して声をかけることにした。
「あ、あの~、お忙しいところに申し訳ないのですが~」
ばっと顔を上げ、目を見張っているような感じがする馬男、もとい旦那様。
「ユ、ユードラさん!!」
意識が戻った私の姿を見て立ち上がり、それから先は固まってしまって動かなくなってしまう。
爪が食い込むそうなほどに力強く握りしめられた旦那様ご自身の手を見ながら、私は話しかけた。
「もう、泣かないで下さいよ。私は大丈夫ですから」
以前旦那様が気づいたように、私も馬の頭部を被った旦那様が泣いていることが不思議と分かってしまった。
「ユードラさん、ど、どこにも、いかないですよね?」
「行きません、ずっと、あなたのお傍に」
手を伸ばしたら、すぐに左右の手で優しく包み込んでくれた。それから、旦那様は震える声で伝えなければならないことがあると言う。
「なんでしょうか?」
「ユードラさん、私は、あなたに、嘘を吐いて、います」
……うん、知っている。
なんとなく、記憶が戻っていることを言い出せないまま時間を過ごしていた。
「ユードラさんは、この家の人間では、ありません」
「わ~、そうなんですか~……びっくり」
どうしよう。「もう記憶戻ってますよ~」なんて言える雰囲気ではない。
旦那様は嘘を吐いていたという告白を続けていた。
「記憶を失ったユードラさんを、ご実家に帰してしまえば、二度と、会えない、と、思って、とっさに嘘を、言って、しまって」
「左様でございましたか」
「本当に、申し訳ないことを、しました」
記憶がない時に不思議に思っていたのだ。どうして私は客人である旦那様を「おかえりなさい」と言って迎えていたのかと。きっと体が覚えていたに違いない。完全に職業病だ。
「なんと、謝罪していいものか」
「いいですよ、別に」
「で、ですが」
「色んな意味でおあいこですので、私達は」
肩を震わして泣き出す馬男。きっと、今まで罪悪感を抱えながら過ごしていたのだろう。気の毒に思ってしまう。屋敷の使用人や公爵様、ラウルスさんにも、口裏合わせを頼んでいたに違いない。
皆、今日まで大変だったんだろうなと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
それからしばらく手を繋いだまま、静かな時間を過ごす。
私はいつ記憶が戻ったことを伝えようか目を泳がしていたが、なかなかタイミングを掴めずにいた。
「旦那さ、いえ、その、すこし、言いたいことが、あるのですが」
そんな申告をすれば、添えられているだけだった手がぎゅっと握られる。空気も多少ピリっとしたものとなった。もしかしてまた逃げると思われたのか。乾いた笑い声を発してしまう。
「先に、私からお話をしても?」
「ど、どうぞ」
旦那様はまだお話することがあるらしい。手短にお願いします、と伝えれば震える声で「はい」という返事が返ってきた。起き上がってから聞いた方がいいかと訪ねたら、そのままで良いと言われる。なんだか落ち着かない状態で話を拝聴することとなった。
「ユードラさん、私は、あなたのことが好き、です」
お話とは愛の告白だったのか!
世間話を聞くくらいの心構えでいたので、驚いてしまう、
「いつも、あなたからいただく言葉に、励まされていました」
「……そう、でしたか」
「ユードラさんが、書いてくれたカードも、一枚一枚が宝物、です」
「……左様で」
恥ずかしいから捨てて下さいと言える雰囲気ではなかった。
「本来ならば、こういうことは、素顔で言うべき、なのかもしれませんが」
「お気になさらず」
「あ、ありがとう、ございます」
「分っています、それがあなただと」
「はい、私は、こういう人間です」
旦那様は本当に不器用な人。でも、呆れるくらいまっすぐで、純粋で、真面目で。でも、そのすべてが愛すべき点だということを、私は知っている。
「ユードラさん、お願いが、あります」
「なんでしょうか?」
「言っても、いいですか?」
「どうぞ」
ごくりと、息を呑むのが分かった。緊張感がこちらまで伝わっている。
旦那様は意を決し、願いを口にする。
「――私と、結婚してくれませんか?」
やっぱり、この話の流れはそういうことだったのかと、旦那様の馬面を見上げる。その(馬の)眼差しは真剣そのもの。
「私でいいのでしょうか?」
私の言葉を聞いて何度も首を縦に振る馬。仕方がないなあと思ってしまう。
「ユードラさんしか、いません」
「でしたら、喜んで、お気持ちをお受けいたします」
旦那様は私の返事が余程嬉しかったのか、言葉に詰まっているように見えた。
私は起き上がって、すっかり彫像のように固まっている旦那様の顔を覗き込んだ。肩を指先で突けば、石化の呪いはあっという間に解けていく。
馬の被り物を脱いでくれと言えば、すぐさま従う旦那様。
被り物で隠されていた顔は、目は真っ赤で、顔も涙で濡れていて、髪の毛もぐしゃぐしゃであったが、今まで見たことがないような晴れやかな表情を浮かべていた。
「じ、実は、目を覚ますのと同時に記憶が戻りまして」
「え!?」
「私も、これから自分に素直に生きようかと思います」
旦那様は私の体を抱きしめてから、何度もありがとうと言っていた。




