続、記憶喪失暮らし
記憶を失ってから数日経ったが、大きな変化はなかった。馬の頭部も被り続けていたが、記憶は戻らないまま。そういった毎日を送る中で一日にすることと言えば、早朝に起床してマリリンさんと二人でレグルスさんのお弁当を作り、玄関でお見送りをして、そのあとは裁縫をしたり、花を活けたり、私の怪しい礼儀作法の叩きなおしをしたりと、それなりに忙しい毎日を過ごす。
礼儀の先生はマリリンさんだ。なんと彼女は大貴族の生まれで、完璧な令嬢としての振る舞い方を身に着けていたのである。お屋敷での女主人としての振る舞い方に、客をもてなす方法、貴族女性の嗜みなどを習った。
「マリリンさん、今までの私ってどうしてそういうのを知らなかったのでしょう?」
「お嬢様はお勉強を嫌がっておりましたので」
「なんだか無責任ですね、記憶を失う前の私って」
両親は領地に居てほとんど帰らないと聞いた。なので、お屋敷を統べるのは私が担わなければならないことなのに、記憶を失う前はそういった類の仕事にはまったく興味を示さなかったという。
「まあ、人には向き、不向きもありますし、ね」
まあ、確かにそういうのはあるかもしれない。階段の上から召使い達を見下ろして「あなたたち、あとのことはお願いね」なんて言って扇をパタパタさせている自分の姿を想像してげんなりしてしまった。多分、元より人の上に立つような器は備わっていないのだろう。残念なお話である。
「ですが、こうやってお勉強をしようという心意気は、大変素晴らしいことだと思います」
珍しくマリリンさんが褒めてくれたので、照れてしまう。私は記憶を失う前の私とは違う。周囲の人たちの期待には少しでも応えたいと思った。午後からはレグルスさんが遊びに来てくれた。
「お仕事はもう終わったのですか?」
「ええ。新しい局員も入ったので、仕事も少しだけ楽に」
「そうですか。良かったですね」
「はい。ありがとうございます」
今日はきちんと菓子職人に作り方を習った、お上品なお味のクッキーを振る舞う。
レグルスさんは相変わらず私の前で馬の被り物を脱ごうとしない。
焼き菓子はあつあつの紅茶と一緒に楽しんでいただきたいものだが、自分の顔を異常に気にしている人の前では言えるはずもない。
「そういえば、私ってどうして結婚していないかったんでしょうか?」
そんな質問をすれば、レグルスさんは長椅子の上でびょーんと跳び上がるという謎の反応を見せていた。触れてはいけない話題だったか。いや、私の結婚話だ。レグルスさんが気にするような話ではない。
「もう二十二歳ですし、いい年でしょう? マリリンさんに聞いたら一人娘だと聞いたので、何を考えていたのだか、と思いまして」
「ユ、ユードラさんは、悪くありません!」
「いや、悪ですよ。最低最悪の性悪女です。普通、家のことを思ったら、独身を通すなんてとても」
「それは、そうだとは思いますが、それでも、ユードラさんはまったく悪くありません」
「悪いか悪くないかは、レグルスさんが決めることではありませんから」
本人がそうだと言っているのに、馬の口元に手を当てておろおろとする姿を見せていた。そんな人のことは無視して、次の話題へと移る。
「それで、そろそろ結婚しようと思っていまして」
またしても、跳びあがって驚くレグルスさん。今度は伸びた体はそのままで、固まってしまう。
「大人しく座って下さい」
「え、でも、ど、どうして!?」
「どうしてって、それが貴族としての務めでしょう?」
マリリンさんも教えてくれた。貴族女性の一番の務めは結婚をして子孫を残すことだと。
「私は、人の上に立つような器はないでしょう。だから、せめて結婚をして、周りの人達を安心させようと思いまして」
跳び上がった勢いのまま立ち尽くしていたレグルスさんは、ストンと座り動かなくなってしまった。
「とりあえずは、この先一年の目標として、結婚をして子作りに励もうかと」
私の話を聞きながら、高速で首を横に振り始めるレグルスさん。
「いや、レグルスさんに子作りをお願いしているわけではないので」
私の話を聞いて、そのままバタリ、と長椅子に倒れ込んでしまった。この人は本当に大丈夫なのか。将来が心配になってしまう。
しかしながら、結婚を決意しても相手がいないという問題があった。こういうのは誰に頼めばいいのか分からない。だが、ちょうど良くマリリンさんが部屋にやって来て、朗報をもたらしてくれた。
「お嬢様、たった今、お父様がお帰りに」
「え、お父様が!?」
お父様! 私のお忙しくてなかなかお家に帰ってこないお父様が、帰って来た!
記憶を失ってから初めて会う肉親との出会いに、私は心を躍らせる。
「レグルスさん、ごめんなさい。私、お父様に会いに行って来ます!」
「お、お、お父様!?」
「ええ」
「ユードラさんは、お父様が、どういった方なのか、ご存じなのですか?」
「いいえ、分かりません」
これ以上レグルスさんの相手をしている暇はない。一刻も早くお父様とやらに会って、結婚相手を探してもらうようにお願いをしなくては。私は立ち上がってマリリンさんが案内してくれる、父が待っている部屋に急いだ。
「ユードラさん!」
そんな私の後を忠犬のように追って来るレグルスさん。
「部屋で待っていて下さい」
「い、いえ、一緒に」
私の服の裾を掴んで離さないので、そのまま連れて行くことにした。
マリリンさんは大きな二枚扉をコンコンと軽く叩き、父に私が来たことを伝えてもらった。
「――入れ」
部屋の中からぞっとするような重苦しく低い声が聞こえた。入れと言っているのに、入りたくなくなるような、そんなどすの効いた声色をしている。これが私のお父様? 全力で会いたくないと、何故かとっさに思ってしまう。なんとなく、レグルスさんと方を見れば、何故か彼までも顔を真っ青にしていた。否、馬の被り物をまとっているから顔色は窺えないが、どうしてかそんな気がしていた。
馬の目と目を交わしながら、やっぱり今日はお父様と会うのは止めようと、満場一致で決まりかけていたのに、マリリンさんは無情にも、扉を開け広げてくれていた。
私は、恐る恐る部屋を覗きこむ。声は怖くても、顔は優しいかもしれない。そんな期待を抱きながら、お父様の姿を確認する。
しかしながら、世界はそんなに優しく出来ていなかった。
「――ひ、ひい!」
悲鳴を口にして、途中で自らの馬の口を手で覆う。レグルスさんは私の目を覆ってくれて、眼前に居る恐怖の大魔王を見えないようにしてくれた。
あ、あれが、私のお父様!?
まず一番に感じたのが平伏せと言わんばかりの威圧感。それに加えて高貴な雰囲気も纏っているものだから、余計にわけが分からなくなる。
撫でつけた銀色の髪に、眩いばかりの深緑の目。不機嫌に歪められた表情を向けられたら、生まれて来てごめんなさいと謝りそうになってしまった。その姿は世界に絶望を与える魔王の如し。
まさか、実父に怯える日が来るとは思いもしなかった。
「そこで何をしている。座れ」
「は、はい!」
レグルスさんと二人でガタガタと震えながら、長椅子へと歩いて行き、ぎこちない動作で腰かけた。
「久しいな。元気そうで何よりだ……わが娘よ」
「は、はい。お陰様で!」
お父様も元気そうですね! とは言えない。青白い顔をしており、目の下にはくっきりとした濃い隈を作っていたからだ。領地では馬車馬みたいに働いているのだろうか。聞きたくても怖くて聞けない。一言声をかけられただけなのに、背筋がピンと伸びてしまう。なんて恐ろしい人なんだと思いつつも、隣で私以上に震えている人が居るので段々と冷静になることが出来た。
お父様は挙動不審の動作を極めているレグルスさんを見て、舌打ちをしていた。その瞬間に私の袖を掴んでいる手の力が強まったように思える。可哀想に、怯えている彼のためにも早くここから出なければと、震える己を奮い立たせていた。
だが、不自然に去るわけにはいかないので、久々の親子の会話をすることになる。
「記憶がなくなった、と言っていたな」
「はい」
「先ほど母から話を聞いて、驚いてしまった」
母、ということは、私のお祖母様? ここにいないということは、会える状態にはないのか。聞ける雰囲気でもないので、あとでマリリンさんに教えてもらおうと思った。
「記憶は、少しずつ、思い出しています」
「そうか」
「私は、良くない娘でしたね」
「いや、そのようなことはない。これを、見事に更生させてくれた」
お父様が顎で指したのはレグルスさん。レグルスさんとはどのような関係にあるかは謎だ。
「まあ、ゆっくりと過ごせ」
「は、はい、ありがたき、お言葉……」
こうして、私達は魔王の間から脱出し、冷や汗を拭いつつ部屋に戻った。
「レグルスさん、大丈夫でしたか?」
「はい、もう、平気です」
まさか父があんなにも怖い人物だったなんて思いもしなかった。レグルスさんがいなかったら白目を剥いていたのかもしれない。
それにしてもと考える。父は私達が馬の頭部を被っていても何の反応も示さなかった。やはり、私達は普段からこんな変な扮装をしていたのだ。気づいたことはもう一つある。
「レグルスさん、私、気が付いたんです」
お父様の髪の色は銀色だった。そして、以前馬の頭部を被っていなかった時に見たレグルスさんの髪色も銀。
「私とレグルスさんとの関係は――」
「!?」
「兄妹、なんですよね!?」
「……」
馬の頭部で顔を隠しているのはお父様のように怖い顔をしているからに違いない。そして、兄と名乗らなかったのは、愛人の子どもとか、そういった事情があるからだと確信していたのに、レグルスさんは首を振って違うと言った。またしても、私の考えは空回りとなってしまった。




