よし、逃げよう
あれから数日後。
帰宅をして自由に過ごしていいと言われた私は、休憩所で休んでいるというマリリンの元へ向かう。
彼女は休憩所で優雅に紅茶を啜っていた。
「すみません、マリリンさん」
「今忙しいので」
まだ何も言っていないのにこの態度。本日のマリリンもつれない人だった。勝手に隣に座り、街で人気だという焼き菓子の箱を置いた。
「……これは、二時間並ばないと買えないお菓子では?」
「並びました」
マリリンはお菓子の箱を自分の元に引きよせ、少しならば話をしても構わない、と言ってくれた。
でも、ここでは何だからと、マリリンは私室に招いてくれた。
女中頭をしているマリリンの部屋は、寝台と化粧台に服を収納する入れ物があるだけ。想像していた以上に質素な場所で暮していた。聞けば召使いの中では一人部屋なので恵まれている方らしい。
「あなたは客間で贅沢に、のうのうと暮らしていたわけです」
「で、ですよね~~」
冷汗がドッと浮かんでいたが、話とはなんだと急かされて、私はずっと考えていたことの答えを告白する。
「――私、結婚をしたいなって、思いまして」
「分かりました。急いで手配を」
「え!?」
マリリン、仕事早すぎだろう、と思って目を見張る。
ちょっと待ってと引きとめたら、ジロリと冷たい視線を浴びてしまった。
「なんですか。皆、ずっとあなたが決心するのを待っていたのに」
「決心って、どういうことですか?」
「旦那様と結婚をするのでしょう?」
「はあ!?」
またしてもマリリンの言葉に瞠目してしまう。私が旦那様と結婚を? そんなことなどありえない。
「私が結婚したいのは旦那様ではありません! 他の方です!」
「なんですって!?」
この前マリリンの睨みは子猫のようだと言ったが、間違いだったようだ。私を射抜くような視線を向けるマリリンの目は、まるで猛禽類のように鋭い。背中がぞわりと粟立ち、鳥肌が立ってしまう。
「どうしてそんなことを考えているのですか」
「だって、無理なので!」
「周囲の者達が、どれだけ巻き込まれているか、あなたは――」
「き、気づいています! でも無理です!」
本当は、もう随分と前から気づいていて、長い間分からない振りをしていた。私は、『旦那様と仲良くなった末に、結婚をする』ために雇われたのだと。誰が考えたか分からないが、人見知りが激しい旦那様と仲を深めるためには最適な案だったように思える。きっと、私が失敗すれば、二人目の誰かが雇用されていたに違いない。
いつまで経っても私との仲に見込みがないから、お見合いの話がきたのだろう。旦那様もまた、変わったかどうかを試されているのかもしれない。
公爵家での暮らしは本当に夢のように楽しかった。でも、夢だから、いつか目を覚まして、きちんと現実を見なければならない時がくる。夢見る時間が長ければ、今までの二十二年間生きた自分まで見失ってしまう。それだけはどうにかしてでも避けたいと思った。
「あの本を読んで、身の程を弁えろと伝えたかったのだと思いました」
「違います。あれは、単純に面白かったから勧めただけで」
「そうだったのですね」
本のことはどうでもいいとして、マリリンの視線は依然として鋭く胸に突き刺さっている。彼女も誰かの策略に振り回されていた人達の一人なのかもしれない。今の私には申し訳ないと頭を下げることしかできなかった。
「どうして無理なのですか? 旦那様のことを好きなのでしょう? この先、公爵家の者となっても毎日行うことに違いはありません。最初に言いましたが、旦那様は社交界の付き合いもしませんから、あなたが自らの無作法に思い悩むこともないでしょう」
それでも、私には無理だと思った。
「頑固ですね。……旦那様との結婚を拒否する理由を聞いても? 私なんかが、という言葉は聞きたくないので、それ以外で」
「私は――」
旦那様のお父君である公爵様が恐ろしい。フロース様だって迫力があって怖い。会ったことはないが、旦那様のお祖母様も優しい人ではないだろう。きっと、多分。
「公爵家の方々とお付き合いできる自信がないので、結婚は、ちょっと」
「そんなの、旦那様と二人で仲良く震えていればいいでしょう?」
「いいえ。旦那様はご家族と上手く付き合う努力をされています。でも、私は、無理です。そんな頭が痛くなるような歩み寄りをしたくありません」
マリリンの、軽蔑するような眼差しが痛い。だが、ここで流されるわけにはいかないのだ。
「それに、旦那様にも女性を選ぶ権利がありますから。家が決めた結婚よりも、ご自身で愛するお方を探した方がずっと――」
「旦那様が好きなのはあなたでしょう?」
「そんなわけありませんよ。仮にそうだとしても、無理なものは無理です」
最終的には深い溜息を吐かれてしまった。
「――で? ここを円満に出て行くには旦那様以外の男性と結婚する必要があると?」
「はい」
だからどうしたいのかと聞かれる。それをマリリンに相談しにきたのだ。人気のお菓子と引き換えにして。
私の考えが馬鹿馬鹿しく思ったのか、マリリンは先ほど献上したお菓子を食べ始め、棚の中からお酒のようなものを取り出して飲み始めてしまった。
「あの、マリリンさん、お仕事は?」
「半休、朝から働いていたので、今から休みです」
「左様でございましたか」
なみなみと満たされたお酒を一気飲みしてから、私に注げと無言で杯を差し出す。しばらくマリリンのお酌をするという、謎の時間が過ぎていった。
「――分かりました」
「え?」
「兄を、紹介しましょう」
なんと、マリリンのお兄さんを紹介していただけるらしい。後日、都合のいい日を聞けば、仕事が入っている日だった。マリリンは旦那様に言って休日をもらえと言ってくる。
早く聞いて来いと急かされたので旦那様の元へ行き、休みたいと言えば、あっさりと承諾してくれた。しかも、こちらの事情などは一切聞かずにたまにはゆっくり休んで下さいと笑顔で言ってくれる。なんだか騙すようで、心が痛んでしまった。




