フロース姫のお宅へ
翌日、緊張の中でお宅訪問となった。馬車でガタゴトと揺らされ、景色はどんどんと庶民たちが生活をする区分へと駆けて行った。馬車が止まり、降ろされたのは公園の前。どうしてここなのかと聞けば、この先は馬車が入れば往来の邪魔になるからだという。
「ここから歩くことになります」
「分かりました」
局長はフロース様の家はこの先にある住宅街にあると言った。ふと、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「あの、フロース様は、どういうご職業の方と結婚を?」
「騎士をしています」
噂の旦那様は王族の親衛隊に所属をしているとか。そんなことを話していると局長は「ここです」と言って立ち止まった。その家は、なんというか、控え目な造りと言えばいいのか。その辺に建っている住宅と変わらない、平民の家というか、なんというか……。
「局長、もう一つ、いいですか?」
首をかすかに傾ける局長。
「もしかして、フロース様は平民の方と結婚を?」
こっくりと大きく頷く局長。
驚いた。あのフロース様が貴族間での婚姻ではなく、身分の差を乗り越えての結婚だったとは。よほど旦那様になった人を愛しているのだろう。なんだか信じられなくて、現状を受け入れることができないまま、二階建てのお家の戸を叩いた。
「ごめんください」と言えば、扉が開く。中から顔を出したのはフロース様。
「あら、本当に来てくれたの!」
フロース様は満面の笑みで私達を出迎えてくれた。私は旦那さんとの面識がないのに本当に家の中に上がり込んでも大丈夫なのだろうかと聞こうとしたら、フロース様に手をぎゅっと握られてしまって中に引き込まれてしまう。
「イグニス、お兄様とユードラが来たわ!」
フロース様は玄関から旦那さんに報告をする。奥から返事が聞こえてきた。ついに、噂の人との邂逅に胸の鼓動が速くなる。
ペコペコと頭を下げながら玄関へとやって来た旦那さんに、フロース様は身を寄せながら、「私のイグニスよ」と紹介する。
「この子はお兄様のユードラ」
いや、だからその紹介の仕方はどうなんだと指摘したかったが、場の雰囲気を壊してはいけないと思ったので、半笑いでどうもと会釈をするだけとなってしまった。
「さあ、上がってちょうだい。お兄様も来てくれてありがとう」
フロース様の歓迎を受けて目を見張る局長。今までどのような扱いを受けていたのか。ちょっとだけ可哀想に思ってしまった。
それにしても、と驚いたのは、フロース様の夫であるイグニスさん。こう言ってはなんだが、色んな意味で普通の人だという第一印象だ。燃えるような真っ赤な髪の毛が印象的で、人の良さそうな笑顔は魅力的だとは思う。けれど、私の頭の中の『フロース様の旦那さま像』とはかけ離れていた。
驚きの連続だった。
居間に通され、勧められた椅子に座る前に、私と局長は手土産を渡すことにする。
「あの、これを、よかったら」
「まあ、何かしら?」
「リュバーブ・クランブルタルトというお菓子で、昨日お屋敷の菓子職人と二人で作りました」
「そうだったの。手作りだなんて嬉しいわ。ありがとう」
良かった、喜んでもらえて。私と菓子職人の頑張りも報われる。
局長は先日購入した薔薇の硝子細工と花瓶を結婚祝いだと言って手渡していた。
「お兄様まで? どういう風の吹き回しかしら」
フロース様と局長の兄妹仲というか、力関係は相変わらずなようだった。
中身を開けてもいいかと聞き、局長は「どうぞ」とお返事をする。椅子を勧め、私達が腰かけるのを確認してから、イグニスさんに開封をするようにお願いをしていた。
イグニスさんは包装紙を破らないような器用な手つきで開封して、箱だけになった状態のものをフロース様に差し出す。箱を開けたフロース様は薔薇の硝子細工を見て目を見張り、ぱっとイグニスさんを見てから二人揃って嬉しそうに微笑んでいた。
「まあ、とても綺麗! これは、お兄様が選んでくれたの?」
「いえ、ユードラさんが」
「そう、ありがとう。嬉しいわ」
偶然目についたから選んだだけなのに、ご夫婦は私にまでお礼を言ってくれた。
フロース様は箱の中から青い薔薇細工を取り出して、イグニスさんが出してくれた花瓶に挿してうっとりと眺める。
イグニスさんが箱の中のカードに気が付き、フロース様に手渡していた。
「あら、これはお兄様から?」
カードを見た瞬間に、フロース様の眦からほろりと一筋の涙が零れた。突然の涙にぎょっとするフロース様を取り囲んだ三名。一体どうしたものなのか。イグニスさんの差し出したハンカチで涙を拭うフロース様は恥ずかしそうな表情で言った。
「ごめんなさい。お兄様の言葉に感激をしてしまって」
大切そうに持っていたカードを私に見せてくれようとした。一応局長の方を見て、妹さん夫婦へのお祝いの言葉を拝見してもいいのかと視線で問いかければ、どうぞと手で示してくれる。
カードには、この薔薇の花言葉は『神の祝福』。二人の人生に幸あれ。とあった。
「私たちの結婚は、薔薇の花が取り持ってくれたの。だから、嬉しくって」
身分差の結婚でさまざまな障害があったのだろう。幸せそうな二人を見て、本当に良かったなあと思った。
その後、フロース様の手料理が振る舞われた。どれも美味しくって感動してしまう。
食後は遊戯盤をすることになった。局長とイグニスさんの対戦を眺めていたが、途中で飽きたらしいフロース様に私室に誘われ、二人の馴れ初めを聞かせてもらった。なんでもフロース様は一回イグニスさんに振られ、その後一年間にも及ぶ花嫁修業をしていたという。
「――彼に、私の気持ちを受け入れることができないって言われた時は本当に悲しくって、でも私は無償では転ばなかったの」
貴族と平民――住む世界が違うと言われたフロース様は、だったら相手の世界に飛び込めばいいと思ったらしい。料理に洗濯、掃除、平民の金銭感覚などを学んでいたという。なんて強い人なんだと驚いてしまう。
でも、イグニスさんの気持ちもよく分かる。貴族とは違う価値観で暮らしていて、こんなに綺麗な人に言い寄られたら、大変な事態になったと慌てたことだろう。舞い上がってしまい、冷静な判断もできなくなっただろうに、その思いを受け入れないという判断をしたことは本当に凄いことだ。イグニスさんは普通の良い人だという第一印象だったけれど、今となっては只者ではないという認識に変わっている。
話が終われば居間に戻り、私が持ってきたお菓子を食べながらお茶をいただく。リュバーブ・クランブルタルトはこの上なく好評だった。
しばらく会話を楽しんでから帰ることとなった。フロース様とイグニスさんは玄関先まで見送ってくれた。
「今日は来てくれて嬉しかったわ。また、遊びに来てね」
そんなありがたいお言葉に、私と局長は揃って笑みを浮かべてしまう。イグニスさんはまたゆっくりお話でもしましょうと言ってくれた。
これでお別れだと思っていた折に、フロース様が私に手を振ってこっちに来いと示してきた。
前に脅されたことがあったので、心穏やかな気分ではなかったが、ご命令に逆らうことはできるわけもなく、そろそろと近づいて行った。
恐る恐る顔を上げれば、見惚れるほどの美しい微笑みを浮かべるフロース様が。緊張の面持ちで待機をしていると力強く手を握られる。また何か言われるのかと構えてしまったが、目を細めるフロース様は穏やかな表情で話しかけてきた。
「――ありがとう」
「え?」
「色々と心配をしていたけれど、お兄様も、あなたの隣で幸せそうだったから、ありがとうって伝えたくて」
新婚さんの邸宅で、終始、緊張の面持ちでフロース様の斜め前に座っていた局長が、幸せそうだった? それにどうして私にお礼を言うのか。何もかもが分からなかった。
「あなたはまた、とぼけた顔をして」
「す、すみません」
「でも、まあ、あなたはそれでいいのかもしれないわ」
フロース様に再び「お兄様をお願いね」と言われてしまった。もちろん、局長が人とのかかわり合いができるようになるまで見放すつもりはないので、しっかりと頷いておいた。
こうして、新婚さんのお家をあとにすることになる。
公爵家の馬車は私達が公園に辿り着いた瞬間に走ってやって来た。偶然なのだろうか。びっくりしてしまう。馬車に乗りこんでから、局長が御者に出発の合図を出せば、ガタゴトと石畳の上を走る音が鳴り始めた。
住宅街は屋根や壁の色が統一されていて、とても綺麗だ。庭も草木が整えられており、美しい街並みを見せるための努力をしているように見える。生まれてから二十二年も住んでいた街なのに、まだ自分の知らない景色があることに気づいて、なんだかワクワクしてしまった。
それから馬車の中で局長と本日の反省会をする。
共通していたのは、フロース様はやっぱり怖かった、けれど、だいぶ雰囲気が柔らかくなっていたし、いつまでも怖がってはいけない、というもの。
以前はもっと怖かったと言う。イグニスさんに出会ってから少しずつ棘が抜け落ちていったらしい。
「フロース様は家族思いで、愛のために生まれ育った環境を抜け出して、本当にすごいなって……」
その強さに憧れてしまう。あのような堂々とした振る舞いが出来たらどんなに良いものかと思ってしまった。
「なんとなくですがフロース様とイグニス様を見ていたら、夫婦像が固まった気がします」
局長も同じことを考えていたようだ。同意を示してくれる。私は言葉を続けた。
「今日は、フロース様のおかげで希望が持てました。――私は、局長と夫婦になれるかもしれないという可能性に! ――あ、夫婦役が出来るかもしれない、か。すみません、間違えました」
間違って局長と夫婦になると言ってしまったので、驚かせてしまった。
そんな状況に追い打ちかけるかのようにガタリと少しだけ馬車が揺れ、局長は傾いた方向に倒れ込んでしまい、壁で頭を打ってしまった。
「うわ、凄い音がしましたが大丈夫ですか!? や、やっぱり局長も私みたいに馬車の中では馬の頭部を被った方が良かったんですよ!! どこか痛いところは!?」
痛むところはないかと聞けば、局長は胸が、と小さな声で呟く。
一刻も早く病院に行った方がいいのかもしれない。




