気持ちの整理がつかないのですが!
枕元でシャリ、シャリ、という音が聞こえた。もしや、誰かが至近距離で刃物を熱心に研いでいる音なのではと思い、意識が一気に覚醒する。うつ伏せ寝の状態から起き上がって背中をグサリ! と刺されるよりは心の準備をしてから、と薄目を開いた。
刃物を持っている人は居た。けれど、刃を研いでいるのではなくて、シャリシャリという音は果物を剥いている音だった。ホッとしたのも束の間のことで、近くに座っている麗しの人物を見て悲鳴を上げてしまう。
「あら、起きたの?」
これが現実かと確かめるために、身を起こそうと腕に力を入れたがぐっと背中を押されてしまい、一連の行動を遮られてしまった。
「まだ起き上がったら駄目よ。もう少し頭を冷やさなきゃ」
あたま? 言われてみれば後頭部がズキズキと痛む気がする。
「まったく、お兄様は何をしていたのかしら? あなた、馬車の中で頭を打って意識を失ったのよ」
私は職場から馬車で帰宅をしている途中に頭を打って、そのあと気を失ってしまったらしい。
もしかして局長か御者のおじさんがここまで運んでくれたのだろうか。多大なる迷惑をかけてしまい、申し訳なく思う。しかも、今まで私の看病をしてくれたのはフロース様。もう恥ずかしくて、穴があったら隠れてしまいたい。どうしてこんなことになったのかと、頭を抱え込む。
馬の被り物をしていたら、今頃何事もなく過ごしていたのかもしれない。ずっと身に着けておくべきだったと後悔。
「も、申し訳ありませんでした。私が、至らない行動をしたばかりに」
「何のことかしら? 馬車が揺れて頭を打ったのでしょう?」
「……その、ちょっと、事情が、異なりまして」
「どういうこと?」
なんと報告をすればいいものか。私自身もまだ頭の中の整理ができていないというのに。
「お兄様があなたを支えきれなかったから頭を打ったのでしょう?」
「いえ、局長は転びそうになった私を助けてくれました」
「だったらどうして頭なんか打ったのよ?」
問題はこの後の私の行動だ。助けてもらった体勢のまま馬車の中が明るく照らされ、初めて声を聞いて動転して身を引いた。結果、窓枠で頭を打って気を失う。そのことについて、正直にフロース様に説明をした。
「まあ、あなた、今までお兄様のことを意識したことがなかったの?」
「それは、どういう?」
「異性として気にするって意味。何も思っていない相手に、そういう反応はしないと思うのよ」
異性として意識? 局長を? 今まで一度もそういう風に考えたことがなかった。フロース様の言葉に、呆然としてしまう。だって、局長は職場のお仕えするべき人で、異性として意識するなんておかしいこと。けれど、私は不審な行動をしてしまった。一体、どうして?
私が過剰な反応をしたのは、局長を意識してしまったから? そんなわけがない。仕事に私情は持ち込むことは今まで一度もなかった、はず。
局長は想像の斜め上を超えている変わった人だった。他人の姿を見れば机の中に隠れて出てこないし、お喋りは恥ずかしいからしたくなくて、飲食も人前ではしない。そんなお方を意識したことなんてなかったと思っていたが……?
「私の勘違いかしら? まあ、意識している、していないはどうでもいいわ。とりあえず、あなたはお兄様と一緒に居て、楽しいことや嬉しいことはあったかしら?」
――楽しいこと。嬉しいこと?
初めて、こちらの言葉を伝えた紙切れを差し出して、返事がきた時は嬉しかった。行動を先読みして局長より先に馬舎へ行ってお見送りをした朝は気持ちがスカッとするような、晴れやかな気持ちになったし、何度も追い駆けっこをすることになって、馬の頭部を被っていたものだからすぐに息切れになり、あの時はこの野郎とか思っていたけれど、今となっては笑える出来事だ。
言葉と言葉で意志の疎通は出来ない、目も合わせないし、一緒に行動も出来ない。こんな不毛な関係が続くかと思いきや、そうでもなかった。局長は、人見知りを克服しようと頑張ってくれた。飲食だって人前で出来るようになったし、二人きりの空間も何とか耐えられるようになった。お喋りだってこの先はできるかもしれない。何よりも素晴らしいと思ったこともある。
「二人で薔薇庭園を歩いた日のことは、本当に楽しい記憶だったと」
振り返ってみれば、仕事に私的な感情を挟みまくっていた。薔薇園だって見て回りたいからついて来てくれと懇願したのも私だ。私情を挟んでいないと自信満々に言っていたのは誰だったのか。
「あの、私……」
「どうしたのよ、そんなに慌てて」
「駄目な召使いです。仕事なのに、こんなに、毎日楽しんでしまって」
王宮で働く日々は、決して楽なことではなかった。職場には優しい人もいれば厳しい人も、意地悪な人もいる。仕事だって汗を掻きながら、眠たいのも疲れているのも我慢して頑張ってきた。でも、それがお仕事だと思い、そうやって私は働いて、お金を稼いできた。
なのに、ここでの働きはどうだったか。胸を張ってきちんと真面目に働いてきたと言えるのか。もしも、どうなのかと聞かれたら、私は「精一杯働いていた」と答えることができないだろう。フロース様にも顔向け出来ない。この先どうなるか分からなかったが、とりあえず謝る。解雇だと言われたら、それを受け入れるしかない。
「も、申し訳ありません、でした」
「あら、いいのよ。あなたは、あなた達はそれでいいの」
それでいい? 私は局長と毎日きゃっきゃうふふと楽しく過ごしているだけなのに、それでいいと? どういう意味なのか質問してみる。
「だってあなたは、召使いとして雇ったわけではないもの」




