悪食令嬢のお花見と宝探し
徳川の御代が終わり明治になると何もかもが早くなったと年寄りたちは言う。駕籠はより速い人力車に追い越され姿を消し、えいさほいさと街道をかけていた飛脚は、目にも見えぬ電報に飛び越されてしまった。こんなにも何もかもが早くなると春の季節も早くなるのか、古老たちは桜までが儚く散りゆくと嘆いているが、私――高屋房は淡雪の如く栄枯盛衰する桜しか知らない。
女学院で見る桜も二年目となれば、より人の模範となるべく心しなくてはならない。
学び舎の外を眺めれば新入生と思われる女子たちが海老茶袴を揺らしている。そのほとんどは口を真横一文字に結んで緊張しているようだ。おそらく昨年の四月、私もそのような顔をしていただろうと思う。もしかすれば緊張のあまり右手左手が同時に出るようなちぐはぐした歩き方をしていたかもしれない。いまとなっては確認のしようがないことだとわずかに息を漏らす。
隣ですぅーと深く霞を吸い込む音がした。
「ため息をつくと幸せが逃げると申しますが、吸い込んでも甘くはありませんね」
長い黒髪を後ろで髪束にまとめた少女はそういうとややすればきつく見える狼の瞳を柔らかに微笑んだ。病的に思えそうな白い肌にわずかに桃色がかった唇が映える。彼女――大上雪子は私の学友である。この丹州の豪商の娘のためにいろいろと気をもんだが、今年はもう少し緩やかな日々をと、願うのはきっと私のわがままではないはずである。
「人のため息を吸い込んで酸いも甘いもないでしょう」
「酸いも甘いも知る前の身ですから色々なもの口にしなくては」
確かに私たちは経験の浅い女学生に過ぎない。とはいえ、何でもかんでも口にするというのはいかがなものだろう。そんなことだから雪子は悪食令嬢となどと揶揄されるのである。本人はそれをとくに気にしている様子はないが、友人をけなされることは悲しい。
「せめて選びなさい。ため息などという霞を食べて仙人ににでもなるつもりですか?」
「仙人といえば仙果ですね。とはいえ毎日桃ばかりというのはいささか」
「飽きる?」
「白い服を着れないかと」
私は雪子が両手に桃を握りしめ口に運び込む姿を思い浮かべる。そして、瑞々しい桃の果肉に齧りつくたびに流れ出る果汁が彼女の頬とその衣にしたたり落ちるのが容易に想像できた。甘い桃の果汁は服につくと変色してしまいなかなか落ちることがない。
「一口大に切ればよいでしよう」
「桃と言えばあの嫋やかで柔らかな果肉に齧りつくことだと思います。それが冷たい水で冷やされていたりすればなおさらです」
ごくりと喉がなる。晩春の今は暑さもそれほどではないが、これから日の勢いがさらなれば冷えたた桃は、その甘酸っぱさから甘露と言えるに違いない。
「でも、真に仙人ともなればやはり主食は霞。霞喰わざる者は仙人にあらず。あなたにそれができますか?」
私が問うと雪子は目を少しだけ丸くしてこちらをしばらく見つめていたが、「無理ですね。月の満ち欠けと同じで、霞では満ちぬでしょう。それは悲しいことです」と口元を緩めて両手で丹田に手を当てた。
「で、級長は新入生を眺めてどの子に唾をつけようかとの算段ですか?」
「唾って!? 誰がそんなこと」
「私というものがありながら目移りだなんて」
着物の裾で目元を隠し雪子が泣くような仕草をする。これが舞台であれば「およよよ」と、大根役者の下手な声が漏れそうであった。
「いえ、そんな。別に目移りとかそういうわけではないのですよ」
「あらそうですか。小町も歌っております」
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふるながめせしまに
小野小町の有名な歌である。桜の色あせる姿を小町の美貌に例えることもあるが、私は向けられた愛情が時間とともに変わってゆくほうが咲いては散る桜の印象に近いと思っている。
そういうと私の手を両手でつかむと胸元に引き上げて上目づかいで私をじっと見つめ「私、級長ともっと思い出を作りたい」と恥ずかしそうに目を伏した。いかにも可憐儚げな仕草であるが、彼女の魂胆など見えている。
「で、どこで何を食べたいのです?」
「あら? あらあら。級長も随分とお分かりになるようにおなりですね」
一年も付き合いがあれば分かるものは分かるのである。しかし、雪子はなぜ私が言いたいことを先回りしたのか感心したように首をかしげている。彼女が変なところで鋭いくせに妙に自分のことになると鈍いということに気づいたのは最近のことだ。
「それはこの一年というものは、
しばらくは 花の上なる 月夜かな
と、いう有様でしたからね。分かりますよ」
「芭蕉ですか。それほどまでご覧になっていただいていたとは恥ずかしい限りです」
恥ずかしいなどみじんにも思っていないのだろう。雪子はくるりとその場で一周回る。袴がふわりと広がっておさまるが、その所作にはまったく意味はないに違いない。ただ、本当に恥ずかしかったのかもしれない。
「で、今回はなにですか?」
「はい、桜餅です」
それは驚きの答えであった。雪子の常であれば『タピヲカプジング』を食べたいだの『アイスクリーム』ではなく『あいすくりん』食べたしという私の外を望むことが多い。それなのに今回は『桜餅』である。これは私もよく知ったるものである。
小麦粉に白玉粉を混ぜたものを薄焼きする。この薄焼きの皮にこし餡を入れて二つ折りにする。最後に桜の葉の塩漬けを外に巻き付ける。これが桜餅である。はじめは向島の長命寺門前で売られ好評を博したらしいが、いまではこの季節になればどこの菓子司でも見ることができる。それほどまでに桜餅は広がったものである。
「なら、上野まで行きましょうか?」
江戸のころから東京の桜名所といえば、墨堤と呼ばれる隅田川。八代将軍吉宗の命で桜が植えられた飛鳥山。江戸の飲み水を支えた玉川上水沿いの桜の並木道。そして、上野寛永寺。いまはである。女学校からの距離を考えると上野が一番近い。
「よいのですか?」
良いも悪いも雪子が望んだことだろうと思ったが、彼女が確認した理由はすぐにわかった。上野寛永寺といえば徳川と明治政府が争った上野戦争の舞台だからだ。少なからずの幕臣がこの地で意地を通した。その中に私の血族もいる。だが、あれから三十余年である。良くも悪くもそれぞれの幕末があり、それぞれの文明開化があった。
戦火で焼けた上野寛永寺の伽藍は、いまは上野公園と生まれ変わり。焼けた桜のかわりに植えられた桜は弱弱しい苗木から大輪の花を咲かすまで大きくなった。何よりも私は江戸を知らない東京生まれの江戸っ子である。知らぬことにまで怒りは持てない。
「良いでしょうよ。それとも桜餅は諦めますか?」
「……諦めるという選択肢があるというのは知りませんでした」
「級長。見てください。桜餅が白いです」
雪子は桜餅を見るなり奇態なことを言った。桜餅は白いものだ。上野公園の六角茶屋で雪子はしげしげと桜餅を眺めると「桜餅を二つづつ」と注文した。一つで良いだろうと目で訴えかけたが雪子は微笑んだだけだった。
公園内の茶屋だけにとくに案内はなく私と雪子は適当な席に着いた。
上野の桜は全体的に桃よりもさらに淡い色で白のようにさえ見える。枝には若葉一つなく花だけが無数に咲いている。この桜は染井村植木屋が、葉が出る前に一気に花をつける景気の良さを気に入り売り出したと言われている。染井吉野となずけられたこの桜が上野の桜である。
私は眼前を覆う白い花々に圧倒される心持ちであったが、隣に座る雪子はそわそわと心ここにあらずというように桜餅ののった皿をくるくると回している。
「そんなに珍しいかしら?」
「ええ、とても。もう食べても?」
「どうぞ」
私が勧めると雪子はわっと桜餅を取ろうとしたが「桜の葉は食べるのでしょうか?」と訊ねた。
「私はいただくけど店によってはひどく厚い桜の葉を出してくるからそれは外すかしら」
「では、そのままいただきます」
菓子楊枝で桜餅を一刀両断にすると雪子はぱくりと半分を食べた。確かに一口で半分も食べるのなら一つは少なかろう。
「級長。関西では桜餅は桃色なんですよ」
「えっ? 桃色?」
「それに焼かないんです。道明寺粉を蒸して饅頭のように中に餡を詰めるのです」
道明寺粉というものを私は知らなかったが、もち米を使った保存食の類いらしい。粉はいっているが米粉ほど細かくなく蒸し上りは粒の残った餅のようで独特の食感があるという。桃色は梅の実から精製した紅を加えるらしいが、私にはそれが桜餅であるか理解が追い付かなかった。
「昨年は東京に来たばかりでしたので食べ損ねましたが今年は無事にいただくことができました。これも級長のおかげですね」
「私がいなくても食べたでしょう」
「それはそうかもしれませんが、これほど楽しくはいただけなかったはずです」
「なら良いけど、級長と呼ぶのはそろそろやめにしなさい」
新しい学年になってからずっと気になっていたのである。確かに私は昨年までは級長であったが、今年は違うはずである。まだ、新学期になってすぐでこまごましたことは決まってはいないが二年連続というのは遠慮したいものである。
「良いですが、私は結局、房さんを級長と呼ぶことになると思うのです」
「どうして?」
雪子は残った半分を口に入れるとお茶をすすった。そして、言っていいのかしらとばかりに声を潜めた。
「だってほかの方も級長のことを級長と呼んでいらしたから」
役職があだ名になってしまっている。つまりそれはあだ名が役職になるということでもある。
「ちょっと待って、それはあなたが私のことを級長と呼ぶからじゃないの?」
「……私、房さんのことを級長とお呼びしてましたか?」
こちらの視線を完全に避けるように桜のほうに視線を向けた雪子がとぼける。
「とぼけるのはやめなさい」
「桜が綺麗ですね。やはりこちらの桜餅が白いのはこの染井吉野が白いからでしょうか」
雪子は完全にこちらを見ないが墓穴である。自分からは穴を掘り拡げている。そんなこと気づかないのか、逃れられないとあきらめているのか雪子はもう一つの桜餅に手をつける。
「どうかしら? なら関西の桜餅に色がついているのは桜の花が赤いから?」
「確かに八重の桜は毬に紅を垂らしたようで若葉まで赤いものがあります。桜染めにはこういう木を選ぶと聞きますね」
よくよく見れば上野にも一重の染井吉野以外にも若葉の萌黄に薄紅の毬が乗ったような八重桜が散見できる。なかには目の覚めるような紅もあれば、小花を柳のような細い枝に下げた枝垂れもある。同じ桜というには花のつきよう、色も千差万別である。
「昔、江戸も京も植木屋は桜の美しさを競って番付まで作って、様々な品種を作ったそうです。植木屋にも好みがあってあるものは目の前を白で染めるような枝ぶりが良くたくさんの花をつけるものを吉野山。別の者は牡丹の如き朱色と大輪をつける泰山府君というように」
それは答えのない探求である。
「なら、桜餅の色や形が違うのも同じかもしれないわね」
「ええ、名が同じであればそれは違いがあっても同じ本質なのかもしれません。ですので、級長が級長であってもなくても級長であることは変わらぬということでよろしいのではないでしょうか?」
雪子は最後の桜餅を食べると如何にもうまくまとめたという上手い顔をしたが、全く上手くない。私は自棄のように桜餅を頬張ったが、無理があったらしく咽た。慌てて茶碗をつかむと茶を喉に通して一息をつくと雪子がやや心配そうな顔をしていた。
「無理をされます」
「誰かさんのせいだと思うのだけど?」
「誰でしょう。不思議なことです」
ほかに誰かいるのかと雪子は首を左右に振るがむろんそこには誰もいない。私たちの眼前にはお互いしかいないのだから。しばらくしらばっくれた顔の雪子とにらめっこしていたのだが最後にはどちらかともなく声が出て笑ってしまった。
「まぁ、よしとしましょう。行きましょうか」
私は先に席を立つと雪子に手を差し出す。雪子は少し驚いたようだったが私の手を取った。それは少しだけひんやりとした柔らかい手であった。六角茶屋をでて公園を不忍池に沿って歩いていくと眼前からふらりふらりと足取りがおぼつかない女性がこちらに向かってきた。
年のころは私たちよりも五つ六つほど離れているだろうか。紫の小袖に広めの帯は淡い青。少し着くずれた姿がいかにも酔っ払いという雰囲気を見せている。女性はなにやらろれつの回らない声で「なーにが宝なもんかい」叫ぶと不忍池沿いに張られた柵に一度ぶつかり、そのまま千鳥足のまま道に倒れ込んだ。
倒れた女性は不忍池から目と鼻の先の湯島にある煉瓦屋の娘――尾原サト(おばら・さと)であった。徳川四天王が一人である榊原康政から始まる榊原氏の江戸屋敷があった土地はいくつにかに分割されて売られたらしくその一角が尾原の屋敷と尾原煉瓦の店、倉庫が並んでいた。
足取りのおぼつかないサトを雪子と二人で担いでいくと屋敷の家人が「やったな」と手を額に当てて渋い声をあげた。家人は私たちをサトの友人だとでも思ったのか、そのまま屋敷へと迎え入れられ床に横になったサトと一緒に並べて座らされた。
横になって水を与えるとようやくまっとうにしゃべれるようになったサトが「すまないねぇ」と掠れた声を出した。
「大丈夫そうで良かったです。外の風でも入れましょう」
そう言って部屋の障子戸を開けると立派な庭は、白や桃、紅の色に染まっていた。所狭しと植えられたのは桜であるのだろうが、品種が違うのか同じものは一つもなかった。知らずに感嘆が漏れていたらしく「なかなかのもんだろう」とサトが身を起こして呟いた。
白と紅に混じって石灯籠の灰がいい塩梅に色彩を整えている。
「死んだ親父が集めたのさ。あんたらには迷惑をかけたね。恰好からみれば女学校の生徒さんだろうに」
「高屋房と申します。あの様子ではほっておけませんので。そこにいるのは大上雪子です」
「お房ちゃんにお雪ちゃんだね。むしゃくしゃして切通町の一杯屋で二、三合飲んだあたりまでは覚えてるんだけど……」
「宝がどうとか言われて不忍池の柵に当たってそのまま道を枕に倒れておられました」
雪子が細かい場景を説明するとサトは膝あたりをさすって「痛いのはそれのせいかい」と苦笑いをした。そのときだった。廊下側のふすまが開け放たれて二十代後半の男性が険しい顔で入ってきた。
「サト。親父が亡くなって大変なときに何をしてるんだ! そこの二人もなぜ止めてくれないんだ!」
どうやら男はサトの兄だろう。目元と耳の形がよく似ている。ずいぶんと頭に血が上っているのだろう顔は真っ赤でこちらの言うことなど耳に入りそうな様子ではない。それでも気にしないのが雪子の良いところだろうか。
「いえ、私たちはサトさん不忍池のほとりで拾ってきたのです。お礼を言われることはあっても怒られる覚えなどありません。なんならもう一度、サトさんを池のほとりに戻して参りましょうか?」
淡々と言われて言葉を繋げなくなったのか男はぽかんと口を開けたあと「本当か?」とサトとなぜか私に尋ねた。私たちがそうだと、いうと男は「それは申し訳ないことを」と何やら腑には落ちぬがという顔をしながらも謝った。
「平次兄さん。まだ親父のお宝がとか言ってるんじゃないだろうね?」
「サト、お前も読んだだろ。あれが親父の隠し財産じゃなかったらなんだっていうんだ。高雄兄さんは財産がどこかに隠してあると店から倉庫までひっくり返してる。なにか心当たりがあるんだ」
「馬鹿々々しい。あの親父だよ。稼ぎなんて残してるもんかい。この店だって母さんの持参金でできたようなもんじゃないか。それが宝とかありえないね」
サトは平次を見たくないというように顔を背けた。その向けた庭のほうは兄妹喧嘩からほど遠い春の美しさであった。
「宝って何ですか?」
雪子が好奇心に満ち溢れた瞳で尋ねる。
「年寄りの世迷いごとよ。親父が亡くなる直前に文の整理をしたの。その中に『我が宝』から始まる書付があったのさ。親父はあたしに捨てといてくれと言ったんだけど兄さんたちが舞い上がっちまったのさ」
「それで、何が書かれていたのです」
中身が気になるとばかりに雪子が身を乗り出す。私はまた雪子の悪い癖が出たと頭を押さえた。この食いしん坊の御令嬢は、謎とか隠すとかいう言葉に弱いのである。そういう言葉に接した彼女の瞳は炯々爛々(けいけいらんらん)。闇夜の狼のようなものだ。
「いや、それは……」
平次は宝を盗まれると思ったのか言葉を濁すが、サトは「あるわけないよ」と言って近くの文机に手を伸ばすと流暢な筆さばきを披露した。
我が宝
普賢から塩山に登り嵐山
白い鵯見たさに御車帰り
暁月には泰山で水をくむ
俳句というには文字が合わず。詩というには絵が浮かばない。
そもそも地名からしてもちぐはぐである。普賢は葛飾の普賢寺かもしれないが塩山、嵐山は東京の地名ではない。京都のものだろう。白い鵯のくだりになると意味さえ分からない。最後の暁月は明け方の月だろうが泰山で清水をくむとはどういうことか。
「ほらね、訳が分からないだろ? 書付は書付で意味なんてないのさ」
サトはからからと笑うが雪子はじっと考え込んでいるようだった。
「おい、サトが戻ったんだと?」
平次をさらに老けさせて目つきを悪くした男が横柄な様子で部屋に入ってきた。名乗られなくても顔から彼が長男の高雄なのだろう。
「高雄兄さんまで、ぞろぞろとなんだい?」
気だるげにサトが答えるが高雄は「なんだいとはなんだ。お前が飲んだくれて倒れたと聞いてきたんだろうが。迷惑ばかりかけて、親父のお宝を探してるっていうのにお前という奴は」と先ほどの平次とよく似た顔を真っ赤に染めた。
「お宝なんてあるわけないだ。兄さんたちこそ正気に戻りな」
「いいや、お宝はある。俺は知ってるんだ。親父が売り上げのいくらかをちょいちょい持って行ってたことを。きっとそれをどこかに隠してやがるんだ。まったく死ぬ前にいってくれてりゃ面倒がなかったもんを」
「兄さん、それは本当かい?」
平次が興奮した様子で高雄に確認する。
「ああ、間違いねぇ。毎月だったからなかなかの金額だぞ」
二人の男が宝に胸を膨らませていると、雪子が言った。
「あの、宝がなにか分かったのですけど、どうします?」
「はっ? なんだって」
「本当かって誰だこの娘は?」
平次と高雄は驚きと困惑のにじませた。そして、この場の異物である私と雪子を「何者なのか」問いたげだった。雪子はそんなことどうでもいいというような顔で男二人を無視してサトの方だけを見た。サトはただ黙ってうなずいた。
「では、簡単に申します。宝は皆さんの目の前にあります」
目の前と言われて部屋の中を見渡すが部屋の中にはサトが寝ている布団に文机、床の間に小さな花立と新しそうな軸が一本掛けられてある。他は私と雪子。尾原三兄妹だけである。
「それは、私たち家族が親父の宝とかいう人情噺かい?」
サトが尋ねると雪子は首を左右に振ってさきほどの紙を差し出した。
「ここに来る前、上野公園に行ってまいりました。実に桜が美しかったのですが、ほとんどの桜が染井吉野で花の頃は一瞬でしょうね。ひと頃でも違えばまた別だったと思うと残念でなりません」
「それはどういう?」
「東京が江戸の頃、多くの植木屋が自らの作った桜が一番だと競い合ったと聞いています。その番付は『草木奇品家雅見』にも残されています。」
西ノ方
大関 桐ヶ谷
関脇 地主桜
小結 暁月桜
前頭 白鵯
前頭 吉野山
前頭 千弁糸桜
前頭 普賢象
東ノ方
大関 泰山府君
関脇 法輪寺
小結 白舞桜
前頭 御車還
前頭 嵐山
前頭 爪紅粉
前頭 小塩山
雪子が呼ぶ花の力士はまさしく書付に残されたものだ。
普賢から小塩山に登り嵐山は
白い鵯見たさに御車帰り
暁月には泰山で水をくむ
西ノ方前頭――普賢象から始まり東西の前頭をとおって小結、大関に到る。だとすれば答えは――。
「サトさんのお父さんはいまの同じ種類だけの桜を面白くないと思っていたのかもしれません。あるいはかつて植木屋が腕を競った桜をこのまま失うのはもったいないと思ったのか。どちらかは知りませんが庭に集めに集めた桜がこれだけあるとなれば答えは一つです。この庭の桜こそが宝なのです」
確かに立派な庭である。
御一新後、大名屋敷のほとんどがなくなりそこに植えられていた絢爛豪華な植木屋の粋と言える桜は姿を消したのだろう。それを守ろうとした人がいた。新しいだけが良いとしない。過去を愛した人。
「そ、それじゃ、親父が毎月持って出ていた金は」
「きっと植木屋に払われたでしょうね」
雪子が愉快そうに答えると平次と高雄はへなへなと腰砕けになったあと「馬鹿らしい」とか「親父らしいよ」と吐き捨てながら部屋から出ていった。それを何とも言えない顔で見送ったのはサトだった。
「親父にそんなところがねぇ。あれかね。母さんがサクラだったから桜を集めたのかね」
「うーん、そうかもしれません。どうですサトさん庭に出ませんか?」
縁側から庭に出ると雪子は「これが普賢象でしょうか?」とか「これは一重? 八重?」と頭を抱えて最後に「ここです」と一本の桜を指さした。
牡丹のような大輪に複雑に花びらが重なった八重咲。色は紅よりも濃い。
「これは?」
「東ノ方大関――泰山府君。まさに大関の風格ですね」
「しかし、これを親父がねぇ」
酔いは醒めたのだろう。サトが幹を撫ぜる。
「サトさんはお父さんに書付を渡されて捨ててて置くように頼まれたのですよね?」
「そうだよ。でもそれがどうしたっていうのさ?」
「泰山府君は生死にまつわる神様であると同時に北斗七星とも深い関係があるされます」
北斗七星と言えば北極星から連なる七つの星を結んだ柄杓である。
「水をくむっていうのは」
「そうです。この木から北斗七星の並びに気を繋ぐと」
雪子が楽しそうに桜の木々の間を抜けてゆく。柄杓の受けはちょうど小塩山と嵐山の間にあった。火が入れられた形跡もない石灯籠だ。雪子は火袋の当たりをゴソゴソと探っていたが最後に小さな箱を取り出すとサトに手渡した。
サトは恐る恐るという様子で箱を開けると中に入っていた紙に眼をとして「こりゃ、ひどいお宝もあったもんさ」と箱に紙を戻した。その表情は怒りや困惑でなく喜びであった。
「いったい何が?」
「……恋文さ。親父と母さんの。馬鹿らしい。だから捨てろってあたしに言ったのかい」
サトは小箱をどうしたもんだろうかと悩んでいたが最後には部屋からマッチを持ってきて灯篭の火袋の中で燃やした。
「さて級長、私たちも帰りましょうか?」
雪子が歩き出したので私もそのあとに続く。
「だから、級長というのはやめなさいって」
「いいじゃないですか? 似合ってますよ」