八
「ああ、部長。遅かったですね」
彼女と同時に、木村が紙コップを両手に持って準備室から顔を出した。やけに遅いと思ったらコーヒーを入れていたのだ。コーヒー独特の香ばしい匂いが、木村の周りを漂っていた。
「こいつが例のクラスメイトですよ」
木村は右手のコーヒーを部長に渡し、左手のを机に置いた。
「ああ、入部希望者ね」
「まずは見学って事でお願いします」
このままなし崩しに入部してしまう事を避けるため、見学である事を強調した。部長を見た時点で、入部は確定だったけど。一応話を聞いておこうと考えた。
「で、名前は」
「遅刻マン」
「伊勢純也だって」
「ああ、そうだった。こいつ三小の出身なんで、友達居ないんですよ」
木村は名前だけではなく、入学式に遅刻した事も、面白おかしく話してきかせた。
「ちょっと待ってね。伊勢純也って行ったわよね」
木村の話をさえぎって、部長は考え込むように腕組みをした。
「はい。そうですけど」
「あのさ、前に会った事が無いかな」
見たことある顔だとは思ったけど、会った記憶は全然無い。年上の知り合いはほとんど居ないし、美人でかわいい女性となると皆無だった。
「人違いですよ。良くある名前だし。なあ木村」
「いや、俺に聞くなよ」
「ところで、部長さんは何て名前さ」
名前を聞けるような雰囲気ではなかったから、木村に尋ねた。
「深田静香よ」
何故かこっちの話を聞いていた。
そして、その名前には覚えがあった。
「静香だって?」
「なに? おまえ部長と知り合いなのか」
知り合いという言葉には間違いない。小さい頃に何度か遊んだ事がある。だけど再会したくない相手だった。
「いや別に、全然。きっと人違いだよ」
とっさに否定したけれど、すでに手遅れのようだった。
「伊勢純也ね。思い出した」
静香は腕を組んだままにやりと笑った。
「いや、人違いでしょう。僕は全然知りませんから」
「なによ、ジュンってば。私たち結婚を誓い合った仲じゃない?」
小さい頃にそんな話をした気もするけど、それは子供だったからなわけであって、今さらそんなこと言われても困ってしまう。美人でかわいいく成長してはいたけれど、彼女の性格が直っているとは思えなかった。
「おい、ちょっと」
木村に腕をつかまれて、部屋の隅へと連れて行かれた。
「本当のところ、どうなんだ」
木村が耳元でささやいた。
「なにが」
「お前と部長の関係だよ」
説明するのも面倒くさいと思ったけど、誤解は解いておくべきだろう。静香との関係は単なる知り合いレベルである事を強調して説明した。
「本当か」
「本当だって」
「これはな、とても大事な事なんだよ」
木村の顔が赤くなった。木村が静香を好きだというのは分かっている。この部に入ったのも、おおかたそれが理由だろう。
「なるほどね」
「で、どうなんだよ」
両肩に乗せた手を、木村は力任せに揺らしはじめた。だけど、木村が心配するような事は何も無いのだ。
「分かったって、本当の事を教えるよ。僕たちは従姉妹なんだ」
「従姉妹?」
「そう、うちの父親と彼女の母親が兄妹ななんだよ。小さい時に何回か一緒に遊んだだけだってば」
「本当か」
「しつこいな、本当だって。それに、会うのは八年ぶりだよ。彼女は四歳の時にトヨハラに引っ越して行ったからさ」
静香が母親とともに首都であるトヨハラに引っ越してから一度も彼女と会って無い。始めのうちは何度かメールのやり取りをしたけれど、あまり乗り気でなかったし、面倒だった。メールは次第に少なくなり、そのうち返事もこなくなった。
当時は鼻垂れで、こんなに美人になるとは思っても見なかった。でも、考えてみれば彼女の母親は人並みはずれて美しく、子供ながらに憧れていた友人も多かった。よくよく見れば静香は母親そっくりだ。だから見たことがある気がしたのだろう。
「二人で何を話しているのかな。お姉さんも仲間に入れてよ」
静香が二人の間に飛び込んできた。
ふわりと漂うシャンプーの匂いにどきりとした。木村の顔はさっきより真っ赤だった。
「ぶ、部活始めましょうか、部長」
緊張した木村の声をきっかけに、静香はそうだねと離れていった。そしてホワイトボード一杯に大きな文字を書きだした。