三十八
何か一つでも思い出そうと、一晩中考えていて眠れなかった。それで次の日は思いっきり遅刻をした。その上授業中にも眠ってしまった。とりあえず一眠りしない事には午後の授業も散々だと思ったから、昼休みにすこし仮眠を取ろうとした。ふらつきながらコンピューター教室にたどり着いて、まっすぐ静香のマシンに向かっていた。どうしてその場所を選んだのかはわからない。何かに呼ばれたかのように、マシンの前で眠り始めた。
目を覚まして最初に見たのはキタヤマ三号(改)に向かっている少女だった。
目が合うと、その子は笑った。
その笑顔が懐かしかった。
「柏崎さん?」
いまだに携帯の待ち受け画面に使っている写真の中の少女だった。
柏崎五月と言う名前も知識として知っている。
「はじめまして、では無いですね」
今残っている記憶では、五月に会うのは初めてだ。
「僕はあなたの事覚えてないんですよ。だからはじめましてで良いんだと思いますよ」
「私もたいして覚えていないんですよ。ですが、あなたの事はよく知っています」
「あの~」
「とても良いマシンですね、これ」
五月がキタヤマ三号(改)を軽く叩いた。
「中味は、違うんですけどね」
「いいマシンですよ。でも……」
五月はそこでいったん言葉を止めた。
「柏崎さん?」
「すいませんけど、私と一緒に来てもらえませんか」
彼女の表情は変わらなかった。
「僕はあなたと一緒には行けません」
「どうしてですか」
「分かりません。でも、そう感じるんです」
自分の答えに自信があった訳じゃない。だけど、そのときはそう思った。
五月は分かりましたとだけ言い残して教室を出て行った。
キタヤマ三号(改)の前に置いてあった紙袋に気づいたのは、五月が居なくなってからだった。中味は如月女学院中等部の制服と葉書大のメモだった。そのメモは母親宛てのメッセージで、制服を貸してもらった事へのお礼だった。差出人は五月だった。それも忘れた記憶の中での出来事だろう。女子の制服を持ち歩くのには抵抗があったけれど、これは母親宛だから、持っていかないわけにも行かなかった。
カエデ仲通の商店街で立ち止まった。そこには沢山の酔っ払いが歩いていた。
公園には誰も居なかった。小学生が遊ぶ時間は過ぎていたし、酔っ払いやカップルが立ち寄るには早い時間だ。ベンチに座って空を見上げると、珍しく月が見えた。
「何が見えるの」
「月」
誰もいないはずなのに声が聞こえた。視線をおろすと、小学生が立っていた。
「ガキの時間は終わりだよ。早く帰りな」
彼女は笑いながらベンチに座った。
「思い出した?」
「何のことだよ」
「人の記憶は機械のそれと違って完全には削除できないんだ。いつかまた、思い出すかも知れないのよ。そのことは覚えておいた方が良いとおもうよ」
「記憶を消したのは、お前かよ」
「まあね」
「どうせ消すなら、周りの人の記憶も消してくれればよかったのに」
「それは無理よ。記憶を読み込んで、該当部分を消去して、それから上書きしないといけないんだから、とても全員にできる作業じゃないし、とっても疲れるのよ。第一面倒くさいじゃない」
まるで機械を相手にしてきるような言い方だった。
「どうして記憶を消したんだ」
「知りたい?」
「いや、いい」
「もし、あなたにとって本当に必要な存在だったなら、いつか必ず思いだすよ。だから、心配しなくても大丈夫」
「別に心配なんかしていないよ。それに、僕はもうあの人の誘いを断った」
「それは賢明だったね、うん」
そう言って彼女はベンチから飛び降りた。
「もう会う事も無いと思うけど、まあ、元気でね」
「君、名前は」
「吉野瑞希。永遠の十二歳よ」
瑞希は大きく手を振って、暗闇に溶けていった。
「本当に必要な存在ならば。か」
瑞希の言葉を思い出して思わず笑った。
「多分それは無いだろう」
その日、玄関の鍵が珍しく開いていた。
「遅いぞ、ジュン」
父親と会うのは何ヶ月ぶりだろう。一応毎日家には帰ってきているけれど、時間がずれていたから、ここしばらく顔を合わせることが無かったのだ。
「夕飯が出来ているから、一緒に食べるぞ。たまには四人でな」
「四人?」
食堂には確かに四人分の皿が並んでいた。
「お帰りジュン」
母親が台所から顔を出した。
「お客さん?」
「何言ってるんだよ。久しぶりにって言っただろう。早く着替えて来い」
意味がわからず部屋に戻った。私服に着替えて食堂に戻ると、すでに準備は終わっていた。正面に座っているのは、いつもの見慣れた顔だった。
「久しぶりの再会に。乾杯!」
大人は二人でビールを開けた。
佐友里と向かい合って座るのも随分と久しぶりだった。何となく照れている自分がおかしかった。
「私たちも乾杯しましょう。オレンジジュースで」
「何の乾杯だよ」
「そうね」
コップを上に持ち上げたまま、佐友里はしばらく考え込んだ。
「じゃあ、私たちの未来に」
「何だよそれ」
「いいから乾杯」
久しぶりに楽しかった。
これで良いんだと納得した。
五月の事も静香の事も忘れてしまおう。
そうすれば……。
いや。
「これで、良いんだ」