三十七
放課後ひさしぶりに図書室で本を読んでいると、何時の間にか目の前に佐友里がいた。
「あ、それ」
読んでいた文庫本を指差して、もう何年も続きが出ていないのだと愚痴り始めた。十一巻で完結だと信じていたから、少しばかりショックだった。
「ねえ、これから何か予定ある」
「いや別に」
「じゃあさ、付き合ってよ、お買い物」
断る理由は無かったから、二つ返事で了解した。玄関で、かばんを取りに司書室に戻った佐友里を待っていた。部活の終わる時間だから、楽しそうに話しながら何人も目の前を通り過ぎていく。
「あ、遅刻マンくん、もうお帰り」
同じクラスの女子が、そういい残して廊下の先に消えていった。みんなに遅刻マンと呼ばれていたけれど、どうしてそう呼ばれる事になったのか、どうもはっきりと思い出せない。まるで記憶の一部が抜けてしまっているようだった。
彼女たちのすぐ後からやってきたのは木村だった。彼とは最近話さえしていない。木村も何故か避けていた。しばらく部活に出なかったのが原因だろう。でも部活には名前だけという約束だから、その事で怒られる筋合いはないと思う。
木村はやっぱり無視して通り過ぎた。なんだかいい気がしなかったから、木村止めた。
「おい。何で無視するんだよ」
木村はその場で止まったけれど、振り向いたりはしなかった。
「おまえ平気なのかよ」
「何がだよ」
「保坂先輩入院してるって言ったよな」
「なんだよそれ、聞いてないよ」
木村が血相を変えてわめき散らしていた事は覚えている。自分の記憶さえあやふやで、あの時の木村の言葉はまったく覚えていなかった。
「まじかよ」
「で、静香かどうしたって?」
「意識が戻らないんだよ!」
木村は勢い良く振り向くと、ネクタイを掴んで引き寄せた。
「先輩はな、あんなふうになる前におまえに会いに行くと言っていたんだ。お前を助けなきゃって言ってたんだよ。一体何があったんだ。俺にも説明してくれよ」
答える言葉は見つからなかった。
何があったのか思い出せない。確かに静香がいたような気もするけれど、それも夢のような気がしてならないのだ。
「僕は先輩に会ったのかな」
「何言ってんだよ」
「ごめん、本当に覚えてないんだ」
「とにかく先輩のお見舞いに行って来い。国立病院だからな。必ずだぞ」
ネクタイから手を離すと、木村は走り去っていった。その後姿を追いながら静香の事を考えた。静香に何があったのか。それが分かれば、自分の記憶も取り戻せる。そんな気がした。
「お待たせ。どうかした?」
「いや、別に」
佐友里と二人で駅に向かった。駅ビルは規模の小さいデパートになっていて、大抵のものはそこでそろえる事が出来る。
「買い物って何だよ」
店に入る前に目的の品物を聞いてみた。男と一緒だから、下着売り場とかは行かないと思うけど、改まって買い物に誘われたのは初めてだから、妙に落ち着かない気分だった。
「お見舞いだよ。深田先輩が入院してるって聞いたからね」
幼い頃は佐友里も一緒に静香と遊んだ。さすがに覚えていないだろうと、部室まで尋ねてくる事は無かったけど、佐友里も静香の事を気にしていたに違いない。
「深田先輩はパソコン倶楽部の部長なんでしょう。やっぱ行かないとね。お見舞い」
「ああ、そうだね」
一階にある花屋でお見舞い用の切花を買って、駅前から国立病院行きのバスに乗った。
五階建の国立病院は、バスで十分ぼどの郊外にある。二階までが外来用で、三階からが入院施設になっていた。数年前に建て替えられた最新設備の病院だった。
「あの、深田静香さんのお見舞いに来たんですけど」
受付で静香の病室を尋ねると、案内係のアンドロイドが部屋番号を教えてくれた。中央のエレベーターに乗り五階で降りると、消毒液の臭いが鼻についた。
静香は一番奥の個室で眠っていた。彼女のつきそいは、母親ではなく、小学生の女の子だった。どこかで見た気がしたけど、それも思い出せなかった。
「こんにちは。お見舞いに来たんだけど。深田先輩はまだ眠っているの」
遠慮がちに尋ねる佐友里に対して少女は頷いただけだった。ベッドに近づいて静香の顔を覗き込んだ。顔色は悪くない。ただ眠っているだけのような落ち着いた表情だった。
「どうしちゃったんだ」
「夢を見ているのよ」
「夢?」
「そう。覚めない夢」
少女はすべてを知っているかのように呟いた。静香は時々クスリと笑った。楽しい夢でも見ているのだろう。
「花瓶かりますね」
佐友里は花を活けるために、花瓶を持って病室を出て行った。
「別にあなたが原因だとは言わないけどね。どっちにしろ静香が自分で選んだ事から。それに、きみも覚えてないんだろうし。すべてを忘れて、まっとうな人生を送ってほしい、静香はならそう思っているかもね」
「静香はどうなるんだ」
「大丈夫だよ、夢を見つづけるだけだから。体が朽ち果てるまで永遠にね」
幸せそうな静香の顔を見ていると、このまま夢を見ていたほうが良いのではないかとさえ思えてくる。でも、それは果たして幸せなことと言えるのだろうか。
「静香を助ける方法は」
「わたしには力が無いし、きみには資格がないんだよ」
「な、何だよそれ」
「もういいんだ。もう、大丈夫だから」
「どうしちゃったんだろうね」
心配しているような事は言ったけど、佐友里も真剣にそう思っているわけではない。そもそも佐友里は静香の事を嫌っていた。全く知らないわけじゃないから、少しは同情しただろうけど、それは花束程度のものだった。
同じ事を考えながらも、ただ一つだけ気にかかった。彼女がこうなった原因が少しでも自分にあるのだとしたら、見て見ぬ振りをするわけには行かないだろう。
受付の前で、同じ中学の制服を来た女の子とすれ違った。
「今の柏崎さんだよね」
「誰それ」
「何言ってるのよ。ジュンの好きな人でしょう」
「いや、覚えてない」
見たことあるような気もしたけど、あんな美しい女の子を好きになるなんて信じられないことだった。おとなしくてとっつきにくそうな女の子は趣味じゃない。
「思い出せないんだね」
佐友里は何か知っている。
でもそれ以上、教えてはくれなかった。
駅ビルにあるファミリーレストランで夕食を食べることにした。家に帰っても一人だから、今日は外で食べようと思っていた。佐友里にそう話をしたら、一緒に付き合ってくれたのだ。
「何か知っているんだろう」
料理を注文し終わってから、さっきの続きの話を始めた。佐友里は話しにくそうに目をそらして、二度ほど小さく時払いをした
「あの日、ジュンは柏崎さんと一緒に家を出たのよ。帰ってきたときには、柏崎さんのことは何も覚えていなかった。私が知っているのはそれだけよ」
つまり柏崎さんと何処かに出かけ、静香と会い、その後に記憶を失った。でも何故、すべての記憶でなく、柏崎さんに関するものだけなのだろう。誰かによって意図的に消されたとしか思えなかった。
家に戻って久しぶりにコンピューターを立ち上げた。画面一杯に映し出された柏崎さんの顔をみても、何一つ感じなかった。このままずっと彼女の事を思い出せなかったとしても、生きていく上で何の支障もないはずだ。
記憶を失った原因を確かめる事が正しい事だとは思わない。何故なら、その理由が、彼女を忘れる事にあったと思えるからだ。
でも何故だろう。
それは決して忘れてはいけない事のような気がしていた。
思い出さなきゃいけない事のような気がしていた。