二十九
初めて入るその路地は、西条の店に向かう道よりもかなり狭く、その先は曲がり角になっていた。五月の姿は見え無いから、先に進んでその角を曲がった。
彼女がいた。
後姿しか見えないけれど、五月である自信はあった。
「柏崎さん!」
思わずそう叫んでいた。うれしくて、仕方が無かった。
それなのに五月は、背を向けたまま振り向いてはくれなかった。
その理由は明白だった。
誰かが五月の前にいるのだ。
五月の行く手を阻んでいたのは、サングラスをした黒いスーツの大男だった。彼は聞きなれない言語で叫びながら、斧のような巨大なナイフを五月の頭上に振り下ろした。
五月は向かってくるナイフを簡単にすり抜けて、男の懐に飛び込んだ。
男の動きがぴたりと止まり、顔が苦痛でゆがんでいく。
真下から振り上げられた五月の手には、緑色に光る刀があった。
男の体から赤い液体が吹き上がり、やがて雨のように降り注いだ。
男が倒れると、光の刀は姿を消した。
「柏崎さん?」
五月はゆっくりと振り向いた。
真っ白いワイシャツも、彼女の白い肌も、すべてが赤く染まっていた。
彼女はとても美しく、笑顔はとてもかわいかった。
「ああ伊勢さん。いらしてたんですか。みっともないところをお見せしました。もう済みましたから、戻りましょうか」
彼女はいつもと変わらぬ笑顔だった。
「どうかしました」
「血……」
五月はやっと自分の体が血まみれだと気付いたに違いない。
「あっ、臭いますよね。血の匂いは苦手ですか?」
「いや、別に嫌いって訳じゃないけど、こんなに沢山の血を見るのは初めてで・・・・・・」
彼女は安心したようにうなづくと、すぐ脇を抜けていった。
そこには沢山の死体が転がっていた。
夢ではなかった。
「柏崎さん、これは……」
「いいんですよ。あとで処理班が来てくれますから」
五月を追いかけ路地を出た。仲通にいた怪しい男たちはすでに姿を消していた。何軒かが開店の準備を始めていた。店員たちは五月を見ると、笑いかけて手を振った。全身血だらけでも、誰一人怯えたりしなかった。どうやら初めての事ではないらしい。
西条が珍しくカウンターに座っていた。
「終わったのか」
西条は血だらけの五月をみても眉一つ動かさなかった。
「はい。シャワーを貸して頂きますね。思ったより血をかぶってしまいましたから」
西条の返事を待たずに五月は部屋の奥に消えていった。
「何だお前もいたのか。五月と何処で会ったんだ」
西条は五月のことを呼び捨てにした。以前は知らないと答えていたが、やっぱりあれは嘘だったのだ。
「一つ向こうの角を入った路地ですよ。ちょうど熊みたいな男を切り殺した所でした」
何の感情も持たずにそんな話をしている自分が可笑しかった。
西条は何故だか悲しそうな目をしていた。
「それで、どう感じた」
「とても美しかったです」
五月は確かに美しかった。その答えは、西条が聞きたかったのとは違う気がした。
でも、それ以外には感じなかった。
「どうやらかなりの重症だな。これ以上五月にかかわるな。と言っても無駄か」
「大丈夫ですよ」
自然にそんな言葉が出ていた。
「大丈夫です。僕は――」
そこへ五月が戻ってきた。バスタオルを体に巻き、ぬれた髪を拭いていた。
「おい、何か着て来い」
「制服が血だらけなんですよ。下着にまで染み付いていたんですから」
まだわずかに水気の残る彼女の肌はあまりにも刺激的だった。
「ジャージ貸そうか」
かばんの中には体育で使ったジャージがあった。今日はバレーボールだったけど、立っているだけで激しい動きはしなかった。全く汗もかかなかった。そのまま着せるのは気が引けたけど、バスタオルよりいいだろう。
彼女は喜んで御礼を言い、ジャージを抱えて奥の部屋へと戻っていった。
「柏崎さんって、何時もあんな感じなんですかね」
「根がお嬢様なんだろうさ。柏崎家は、西条家と同じ旧華族だからな」
「西条さんの奥さんも、そうですか」
「まあな。似たようなものさ」
沢山の召使と大きな屋敷。それが旧華族に対するイメージだった。
「西条さんは、どうしてこんな所に居るんですか? お屋敷はシスカにあるんでしょう」
西条家のお屋敷はお城のような造りをしていてとても大きい。それは何時だったかテレビの特集で見たことがあった。広い庭と沢山の使用人。旧華族に対する偏見はその番組が原因だろう。
「仕事なんだよ」
「仕事なんですか」
何の仕事なのか聞きたかったけどやめておいた。多分普通の仕事ではないのだろう。西条の改まった表情からは、それくらいは読み取れた。
「人を探しているって聞きましたけど」
「瑞希から聞いたのか」
「はい。あなたの後を継ぐエンジニアが必要なんですよね。何故なんです」
「北山知佳の作ったシステムをメンテナンス出来る人間が必要だからだよ」
北山知佳のシステムとは、国の基幹システムの事だった。そしてそれを守るのが、サードフレームだと瑞希は言った。
「サードフレームですね」
「瑞希の奴、珍しくおしゃべりだな」