二十一
カエデ仲通に足を踏み入れるのは、今日で三度目だった。今回は覚悟を決めて一人で来た。以前ほど怖いと感じなかったけれど、やっぱり生きた心地はしなかった。人目を避けながら、足早に西条の店に向かった。
古びた看板は先週と少しも変わってなかった。迷わずたどり着いた事でまずは安心して一息ついた。少し離れた所には、先週と同じくスーツ姿の男が立っている。この前とは違う男だったけど、彼らの持つ独特な雰囲気は同じだった。
建て付けの悪いくすんだ木製の引き戸に手を伸ばした時、扉が勝手に開き始めた。自動ドアで無い事は、先週すでに確信済みだ。
半分ほど開いた扉から顔を出したのは小学生の女の子だった。五月ほどではなかったけれど、とても美しい顔立ちをしていた。ゴシック調の黒いワンピースと長い髪がとても印象的だった。
「あれ、ここは中坊の来るようなところじゃないんだけどな」
かなり緊張していたから、彼女の偉そうな態度に腹が立った。
「僕もそう思うよ。でもさ、ガキの来る場所でもないじゃないか」
そう言ってから、少し言い過ぎたと反省した。小学生を相手に大人気ない。だけど彼女は、その言葉を気にもとめず静かに笑った。
その表情はとてもかわいらしかったけど、何故だか少し怖いと感じた。
「そうだね。たしかに子供の来る場所じゃないと思うよ。ところであなたは、何の用?」
「頼んでおいたものを取りに来たんだけど、西条さんは?」
彼女は何かを思い出そうと顔をしかめた。
「ああ、あなた伊勢くんね。西条くんならすぐに帰ってくるはずだから。中で待っていなさいよ」
君付けで呼ばれるとは思わなかった。さっきの事を根に持っているのだろうか。
でも、すぐに帰ってくると言うので、言われた通り店の中で待たせてもらった。彼女はそのままレジに座わり、何やらパソコンで作業をしている。
「あの、君は」
「私は店番。西条くんが出かけている間、この店の留守番をしているの」
彼女はパソコンの画面から、一度も目を離さなかった。
「何で私がこんなことしなくちゃならないと思う?」
「さあ」
彼女は作業する手を休めることなく、どうでもいい話を思い付いたように振ってきたけれど、興味の無い事ばかりな上に、知識として持っていない分野が多かったから、相槌を打つ事しか出来なかった。それでも彼女は飽きもせずに話をつづけだ。まるで久しぶりに誰かと会話をしたようで、とても楽しそうだった。
それでもやっぱり、彼女の高飛車な物言いは気に入らなかったし、話も全然わからないから、店の中を見てまわりながら、西条が帰ってくるまでの時間をつぶした。
店の中をちょうど三周した時、レジの後ろに飾ってある写真を見つけた。前回来たとき棚の上から落ちてきた写真だった。もう一回見ようとレジの前まで歩いていった。少女はその時やっと、作業の手を止めた。
「何か面白いものでもあるの」
写真の人物に強烈な既視感を覚え視線を逸らした。カウンターで不思議そうにこっちを見ている少女と目が合い、その理由がはっきりした。
「吉野桜子?」
彼女はむっとして振り返った。
「随分と懐かしい写真じゃない」
「もしかして君は吉野さん?」
「そうよ。私の名前は吉野瑞希。桜子にそっくりでしょう。よく言われるのよね」
瑞希はすぐ作業に戻った。
もしかしたら、五月の事を知っているのじゃないかと思った。
「いらっしゃいませ」
間の悪い事に客が来た。客はレジの方を一瞥してからスチール棚の間に消えた。五月の事を聞きだすチャンスを逃してしまった。苛々しながら、客と反対側の棚に移動して、見たくも無いパーツを引き出しては、見ている振りをして間をつないだ。それから二、三人の客がやってきたが、誰一人、何も買わずに帰っていった。
「この店、相変わらず売れてないのね」
「そうみたいだね」
こんな調子で、店が成り立っている事が驚きだった。
「大体、あの人なんでこんな店をやっていると思う?」
養子とはいえ西条家の人間である。お金も地位もあるのだから、確かにおかしい。かといって趣味でやっている風でもなかった。
何か別の目的があるのだろうか。
「自分の跡を継いでくれるエンジニアを探しているんだって」
ジャンク屋を経営する真の目的は、意外にも人探だった。
「たぶんね」
「たぶん?」
「だって教えてくれないんだん」
「あの人、何者なんだい」
瑞希は少し考え込んでから、普通のおやじだと言い放った。
「本当は、北山知佳の弟子なのよ」
またも北山知佳だった。彼女の天才ぶりは万人の知るところだが、その弟子である西条もかなりすごいエンジニアに違いない。
「ところで伊勢くん。ちょっとお茶でも入れてくれないかな」
「はい?」
「お茶。早く」
断れる雰囲気じゃなかったから、仕方なく従った。世の中はそうやって生きていくのが一番賢い方法なのだと知っていた。
奥の台所でお湯を沸かす。食器棚には、この店には似合わないウェッジウッドのティーカップと、有名なメーカーの紅茶が並んでいた。
「どの紅茶が良いんだい?」
紅茶なんてテーバックでしか飲んだことが無かったから、銘柄からして分からない。ダージリンとオレンジペコは一体何が違うのだろう。基礎知識が無いのだから悩むだけ無駄だった。考える前に瑞希に聞いた。
「上から二段目、左から三個目のえんじ色の缶を使って」
瑞希はまるで見ているかのように指示をした。念のためケースごと瑞希に見せ、確認を取ってから、缶の裏に書いてあったおいしい入れ方に従って作業を進めた。ティーポットを温め、茶葉の分量を量り、新鮮な沸騰したお湯を使い、茶葉を十分に蒸らす。するとおいしそうな香りがしてきた。
缶にはアッサムティーとかいてある。やはり高い紅茶はティーバックとは違うのだ。茶こしを通してカップに注ぎ、二人分を店まで運んだ。
「何よこれ」
瑞希は口を付けたとたん噴出した。
「何って紅茶だけど」
自分もカップに口をつけた。
それはとてつもなく苦かった。