十一
「ところで遅刻マン。これって誰?」
木村にそう言われるまで、大事な事を忘れていた。
三十二インチのモニター一杯に映し出されている壁紙は、入学式の日に携帯のカメラで撮った五月の格闘シーンだった。あまりにもかっこよく撮れていたから、壁紙に加工して使っていた。もちろんそれは携帯電話の待ち受け画面になってもいるし、プリントアウトして生徒手帳にも挟んである。
他人に見せるものではなかったし、そのつもりも全く無かった。自宅のパソコンを自分以外の誰かが見るなんて、考えても居なかった。そもそも佐友里以外の人間が、この部屋に入る事もありえなかった。
「いや、その、つまり……」
アイドルとかモデルとかなら言い訳も立つだろう。しかし画面上の少女が着ている制服は、静香と同じデザインだった。
「これってうちの制服だろ。なんだか隠し撮りっぽいな。お前、もしかしてストーカー入ってる?」
「違うよ」
「じゃあ誰なんだ、この一年生は」
木村も五月のリボンに気づいていた。ごまかせそうもなかったから、事の成り行きを話そうと思ったとき、静香が二人の間に割り込んできた。
「ちょっと、どいて」
静香はモニターに顔を近づけた。
「おまえ、目、悪かったっけ?」
「最近、ちょっとね」
静香は画面上の五月をじっと見ていた。
「どうして、この子の写真があるのよ……」
そして、独り言のように呟いた。
「説明してよ」
明らかに怒っていた。何について怒っているのか、まったく分からなかったけれど、問い詰められているのは事実だった。どっちにしたって静香には関係ないし、言う必要も無かったけれど、話すまで帰ろうとしないだろうから、入学式当日の事を二人に話した。
「じゃあ、その女の子に助けられのか。情けないな、お前」
木村は大声で笑いだした。
「あの場に居たらそんな事は言えないって」
「そりゃそうだけどさ」
木村は自分の事を棚に上げて、さらに笑った。静香は難しい顔をしたままだった。木村が声を掛けても、返事が無かった。
「こんな綺麗な子、一年にいたか?」
「それがさ、探しているんだけどまだ見つからないんだよ」
「で、お前はこの子に恋をしたわけだ」
木村の説明は簡単で的を得ていたけれど、素直に肯定する気にはなれなかった。恋愛と言う感情をよく理解していないのだ。
「そう言うわけでもないんだけどな」
「絶対に一目惚れだ。俺には分かる。これは恋に違いない」
自信たっぷりと木村はそう言いきった。その辺の事に関しては、木村のほうが経験豊かなのは確かだろう。
「恋なんかじゃない」
黙っていた静香が突然叫んだ。
「悪い事は言わないから、この女に近づかないで」
「どうしたんですか、先輩」
「さもないとジュン、あんた不幸になるんだよ」
静香の言葉の意味が分からなかった。彼女に御礼を言うだけで、不幸になるなんて話はない。
ただ会う事さえ出来ればいいのだ。
それ以上は考えなかった。
それ以上は望まなかった。
「それってどう言う意味なんです。確かに遅刻マン……じゃなくて伊勢じゃ、とてもこの娘と釣り合いが取れるとは思えません、ですけど、別に片思いだからって不幸になるとは限りませんよ」
必死になって抗議したのは木村だった。
「私は近づくなといったはずよ」
「全然意味が分かりません」
「分かんなくてもいいの。私の言うとおりにしていれば間違いないんだから」
「でも……」
「分かったの、ジュン」
「あ、ああ」
口答えは無駄だと知っていたから、曖昧に肯定っぽい返事をした。
「わたし、帰る」
オレンジジュースを飲み干してから、静香は挨拶もしないで出て行った。
「悪い、俺も帰る」
当然のように木村も静香の後を追った。
二人が慌しく立ち去ってから、モニターに写っている五月を眺めた。それだけで胸がどきどきする。彼女に出会ってから、一日毎に彼女への思いが強くなっていくのを実感していた。
彼女に会いたい。
ただそれだけのことなのに。
それだけなのに苦しかった。
静香の言葉も頭から離れなかった。
彼女を好きになるなでもなく、関係を持つなでもなく、ただ、近づくなとだけ静香は言った。
静香は自分の事しか考えない、自己中心的でとても嫌な女だけれど、真剣な顔で言われると、無視する事も出来なかった。
けれど静香の忠告に、五月への想いを止めるほどの力はなかった。
目をつぶると、いつでも五月の姿が浮かんでくる。夕食の時間も忘れて、それからずっと彼女との再会を想像して楽しんだ。それは学校の玄関だったり、図書室だったりしたけれど、今日からはパソコン倶楽部に新入部員として入ってくると言う一番ありえない可能性が加わった。
その日の夢には五月が出てきた。
彼女はやっぱり戦っていた。