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嘆きの子守歌

作者: 戸枝葉

目を開けると、僕は教室にいた。教室の真ん中の席に座っている。先ほどまで無音だった世界が騒めき始める。黒板に落書きをする男子や、窓際で固まって騒いでいる女子が見える。机に伏せて居眠りをしている人もいる。黒板の上の時計を見ると、午前八時半を指していた。

(たける)、元気か―。」

前の席の中村(なかむら)彰人(あきと)が椅子を倒して話しかけてきた。

「ああ、元気だよ。」

寝起きのような声が出て、自分でも驚いた。

「ホントかー?お前いつもこの時間、ボケッとしてるよな。」

彰人がケラケラ笑いながら言った。彰人は人懐っこい。加えてサッカー部で副キャプテンを務めており、顔も結構かっこいいので、女子にとてもモテる。

「そんなボケっとしてる?」

「ああ。いつも学校に来て席に着くとすぐ寝て、そんで八時半になったらバッと起きるんだよ。ちゃんとホームルームが始まる前に起きるあたりが健らしいよな。」

「そう、なんだ。」

僕は苦笑いをした。

「どうせ昨日、また夜更かししてゲームでもしてたんだろ?」

「う、うん。あ、そういえばさ」

彰人が口を開く前に、別の話題を振った。

「今日って体育、何するんだっけ。」

「あー、確かバスケだった気がする。」

僕が話を逸らしたのには理由がある。しかしその理由は誰も信じてはくれないだろう。そう思って今までずっと隠している。


体育の時間は四時限目。僕は彰人と同じチームになった。あまり運動が得意ではない僕は、もちろんバスケも上手くないので、ボールが来たら彰人のような上手い人にパスするようにしていた。うちのクラスは運動神経の良い人が割と多いので、足をひっぱらないように気をつけて動いた。そんな努力もあって、一試合目は大きく差をつけて勝利した。

「お疲れ。」

コート脇で胡坐をかいて休んでいた僕の横に、彰人が座る。

「相変わらず彰人は上手いね。」

「まあ俺運動しか取柄ないからな。」

彰人がへへッと笑う。コートでは次の試合が始まっている。「パスパス」、「いけ!」といったかけ声が飛び交う。

「そういえばさ、今日放課後暇か?」

彰人がこっちに顔を向ける。まだ汗が引いていないのか、額から汗が流れている。

「空いているけど…」

そう言った途端、頭に痛みが走った。僕は頭を右手で押さえた。

「おい、大丈夫か?」

彰人が僕の肩に手をかける。またこの痛みだ。

「大丈夫…。」

「全然大丈夫そうじゃねえぞ。顔も青白いし。」

彰人はそういうと立ち上がり、先生の所へかけていった。そして何かを伝え、こっちに戻ってきた。

「健、肩かせ。」

彰人が僕の身体を支え、立ち上がらせる。

「ど、どうしたの突然。」

「保健室行くぞ。先生には言っといた。」

「ええ?!大丈夫だよ。そんなひどくないし、休んでたら良くなるから。」

彰人は僕の言葉を無視して、僕の身体を支えて体育館の入り口へ向かっていく。

「無理は禁物。それに休んでよくなるんだったら保健室でいいだろ。」

結局彰人のされるがままに、保健室へ連れて行かれた。


保健室の先生から許可をもらい、僕は窓側のベッドに横になった。先生は「お昼ご飯を買ってくる」と言って出て行った。何か欲しいものがあるかと聞いてくれたので、お茶とおにぎりを頼んだ。

「まぁよくなるまで安静にしとくことだな。」

彰人がベッドの横でそう言った。

「ありがとう。そうするよ。」

窓は少し開いているようで、心地いい風が僕の身体を撫でた。五月中旬だというのに気温が高い日が続いているので、窓を開けているくらいがちょうどいい。なんとなく窓から空を見上げる。浮かんでいる雲が龍のように見えた。すべてを飲み込んでしまうような、そんな雲。するとまた頭に痛みが走った。

「いッ」

僕は再び頭を抱えた。その瞬間、頭の中にある風景が飛び込んできた。

それは、青空。今見ている空と違って、雲一つない、痛いくらいの青空だ。

「健!」

彰人が僕に近づく。

「大丈夫。すぐよくなるから。」

それから一分ほどで、頭の痛みは引いた。僕は溜息を吐く。

「ほんとに大丈夫かよ。なんか最近多くないか?それ。」

彰人が心配の眼差しを向けてくる。この頭痛がいつから始まったのかは思い出せないが、最近は特に多いと思う。

「そうなんだよね…。」

僕が俯いていると、彰人がベッド横の椅子に座って言った。

「なぁ、何かあったか?」

「え?」

僕は顔を上げた。

「あまり聞かれたくなさそうだったからあえて聞かなかったんだけど、最近のお前、様子が変だからさ。」

彰人は首に巻いていたタオルを手に取り、額の汗を拭う。

「毎朝生気のない顔で登校してるし、席ついた途端寝るし。でも起きたら今までのが嘘だったように元気になるし。あとなんか家のこと聞かれたくなさそうだし、それにその頭痛。」

今度は彰人がため息を吐く。

「そりゃあ心配になるよ。」

彰人は前々から気づいていた。僕の異変に。僕自身も自覚するのに時間がかかった、この異変に。

さっきまで冷たかった手先が、暖かくなってきた。彰人になら言ってもいいのかもしれない。それに誰かに話したかった。一人で抱えるのが怖かったから。

「彰人。」

僕はベッドのシーツを右手で強く握った。

「彰人に話したいことがあるんだ。」

彰人は黙って僕の目を真っすぐ見つめていた。

「変だって、頭おかしいって思うかもしれない。でも、驚かずに聞いてほしいんだ。」

そういった途端、彰人はふっと笑った。

「聞くよ。俺たち友達だろ。」

その言葉に後押しされた気がした。

保健室には僕と彰人だけ。静かだ。なんとなく、この静けさはこの時のために作られたものなのではないかと思った。

舌を濡らし、息を吸う。

そして彰人を見て言った。

「僕は、この学校から外に出られなくなってしまったんだ。」

彰人は首を傾げた。

「ん?どういうことだ?」

「言葉の通りだよ。僕はこの学校から出られないんだ。」

彰人は腕を組んで、うーんと唸る。そして窓の外を指差した。

「ってことは、あの校門を抜けられないってことか?」

僕は強く頷いた。彰人は至って真面目な表情で聞いてくれた。それがたまらなく嬉しかった。

「じゃああれか?校門を抜けようとすると、見えない壁に弾き飛ばされるみたいなことが起こるのか?」

「ううん。意識がなくなるんだ。」

放課後になり、皆がぞろぞろと教室を出ていく。僕も鞄を持って立ち上がり、その後に続く。そして階段を下りて、下駄箱から靴を取り出すところまでは覚えている。でも、校庭に出て校門の前に行った後の記憶が、ない。必ずここでなくなる。だんだん周りが暗くなっていって、音も声も聞こえなくなっていく。身体から力が抜けていき、そのまま目を閉じてしまう。

毎日自分に起こるそんな現象を、彰人に話した。

「そこから先は覚えてないのか。」

「うん。」

僕は弱々しく頷いた。

「でも帰る時、いつも一人なわけじゃないだろ?一緒に帰る友達は何か知らないのか?お前が校門を抜けたときの様子とか。」

「それは僕も思った。だから友達に聞いてみたんだよ。でもみんな覚えてないんだ。」

中には「一緒に帰ってない」と言い出す友達もいた。自分も覚えていない分、その発言を否定することもできなかった。

「あれ?でも俺もお前と一緒に帰る時あるよな。」

彰人は基本部活があるから、いつもは帰りの時間が僕より遅い。しかし日曜が試合だったりすると、次の月曜の部活が休みになり、そういう時は一緒に帰っていた。

「ほら、先週もそうだ。確か火曜だったかな。先々週が遠征だったから月曜から水曜まで部活休みでさ。一緒に帰ったよな。」

確かに帰った。あの日はあまり天気が良くなくて、校庭に出たときには小雨が降っていた。

「覚えているよ。でも」

彰人が「折り畳み傘持ってきた」と自慢げに言ってきたのを覚えている。

「でも、校門を抜けた記憶がないよ。彰人は何か覚えてない?僕はどうしてた?」

彰人が再び腕を組む。

「校庭に出て、普通に話して校門に行って…」

彰人の首が大きく右に傾く。

「あれ、なんでだ?その後のことが思い出せない。」

他の皆と一緒だ。僕は少し怖くなった。

「じゃあ、じゃあその後のことは?僕と帰って、その後の記憶はある?」

そう尋ねると、彰人はすぐに答えた。

「その後は、家で飯を食った。母さんが『遠征お疲れ様』って言って俺の大好物のハンバーグを作ってくれたんだよ。久しぶりに父さんも早く帰ってきてくれた日だから、よく覚えてる。それでその後は宿題やってゲームして、寝た。」

そこで彰人が目をしかめる。

「それはしっかり覚えてるのに、なんでだ?健と学校を出て家に着くまでの記憶が…ない。」

「やっぱりそうなんだ。」

僕は膝を抱えた。

「健はどうなんだ?俺と帰った後のことは覚えてないのか?」

僕は膝を強く抱き寄せた。

「…覚えてないんだ。全く。家に帰った記憶もない。次に目を覚ました時にはもう朝で、教室にいるんだ。」

彰人が息を飲んだように見えた。

「家族は何か言っていないのか?家に帰ってきた時のお前の様子とか、何か知ってるだろ。」

彰人が早口になる。必死に打開策を探しているようだった。

「しばらく、家族と会って話した記憶がないんだ。家に帰った記憶がないから。それに学校にいても連絡がつかない。メールを送ってもエラーになるし、電話もつながらない。」

僕は俯いた。言葉に出した途端、寂しさが込み上げてきた。泣いてしまいそうになって、それを止めようと歯を食いしばる。

「それ、いつからだ?」

彰人が小さく尋ねる。

「あまり覚えていない。でもだいぶ前からのような気がする。」

時計の音が無機質に響く。その音がいつもより遅く聞こえた。

しばらくして、彰人が口を開いた。

「健。体調はどうだ?」

「え、今はだいぶ落ち着いたけど…。」

「今から校門に行こう。」

彰人が立ち上がる。一方で僕はたじろいだ。

「ど、どうしたの?急に。」

「学校を出るんだよ。試してみよう。」

「ええ、今から?」

「今からだ。」

即答した彰人の真っすぐな目には、決意の強さが感じられた。すると彰人は何かに気が付いたようで「あッ」と声を漏らした。

「ごめん、強引だったな。健の意見も聞かないで。」

彰人が目を伏せる。僕はこういう彰人の優しさに、いつも助けられてきた。正直不安だった。どこで記憶がなくなるかわからない。そこには恐怖心もあった。でも、僕の話を笑わずに聞いてくれた彰人が協力しようとしてくれている。その気持ちは大切にしたかった。それに、こんな奇妙な日々に終止符を打ちたかった。僕はベッドから降り、靴を履いた。

「ううん。行こう、学校の外に。」

彰人は目を見開き、そして満足そうに頷いた。

「先生には、後で謝っておこう。」

僕は保健室の先生に買い物を頼んでいたことを思い出し、思わず笑った。



僕らは体育館でバスケをしているみんなにバレないよう、体育館とは正反対にある裏門へ向かった。本校舎の裏にあるので、校舎の中から見られることもない。

「裏門は久しぶりに来たな。」

「僕たちはほとんど使わないからね。」

裏門は駐車場に近いので、主に車で通勤する先生たちが使用している。

「いつも正門から帰るだろ?そこで記憶がなくなるってことは、裏門から通ったらうまくいくかもしれない。」

彰人はそう言って、裏門を通り抜けた。

「健が学校を出られるか、ここから見てるよ。それなら確実だろ。」

彰人が門の横に立った。こんな距離でまじまじと監視されるのなら、僕の記憶がなくなっても、彰人がその時のことを覚えていてくれるだろう。

僕は門と向かい合った。

「じゃあ、行くよ。」

そしてゆっくりと歩き出す。門を抜けるまで、十数歩くらいの距離だ。一歩一歩、ゆっくり踏み出す。日差しが少し熱いからか、額からは汗が流れてきた。僕はそれを拭わず、ゆっくり進む。彰人はじっと僕を見ている。門を抜けるまで、残り四歩のところまで来た。まだおかしなことは起こらない。

残り三歩。まだ大丈夫。

残り二歩。まだまだ大丈夫。

そして、残り一歩。

行けるかもしれない。そう思い、最後の一歩を大きく踏み込んだ。ダンッという地面を踏みしめる音が響いた。

「抜けた!」

僕の身体は門を抜けていた。

「やったじゃねえか!」

彰人がガッツポーズをとる。後ろを振り向き、校舎を見る。学校の外に出られたのが、何だか何十年ぶりのように感じた。嬉しさのあまり、両手を高く上げた。しかしその時だ。視界がぐにゃっと歪んだ。

「あ、れ?」

視界が歪み、異世界に取り込まれていくような感覚に陥った。そしてまた頭に激痛が走った。今日で一番強い痛みだ。僕は頭を抱えて膝をついてしまった。

「健!おい!大丈夫か?!」

傍にいた彰人が僕の方へ寄ってくる。しかし彰人の姿もどんどん歪んでいく。視界の歪みはひどくなる一方だ。

「彰人!逃げて!」

僕は出せる限りの声で彰人に呼びかけた。

「おい!どうしたんだよ!おい、健!」

彰人の姿が見えなくなっていく。視界は歪むだけでなく、黒く染まっていった。すると急に眠くなってきた。寝たらだめだと本能でわかったが、瞼はどんどん重くなる。耐えきれない眠気に屈し、僕は瞼を閉じた。意識が遠のいていく。すべての音が消えた状態で、小さな歌が聞こえた。


ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやはよい子だ ねんねしな


これは、子供の頃に母さんが歌ってくれた子守歌だ。なんで今、この歌が聞こえるんだろう。考える時間もなく、子守歌が急に聞こえなくなり、僕の意識はそこで消えた。




どれくらい暗闇の中にいただろう。重たい瞼をわずかに開ける。すると母さんの後ろ姿が見えた。僕は布団にでも横になっているのだろうか。母さんの身体が大きく見える。顔をゆっくり右に傾けると、大きな窓が見えた。窓の外には、透き通る青空があった。ここはどこだろう。少なくとも家ではない。母さんがこっちを振り返ろうとしていた。僕は起き上がろうとした。しかし身体には力が入らず、逆にどんどん重くなっていく。久しぶりに母さんに会えたのに。抗おうとしても、意識は遠のいていくばかりだ。そして僕は再び、瞼を閉じた。



「母さん!」

僕は勢いよく身体を起こした。

「うお!びっくりした!どうしたんだ?」

目を開けると、僕は教室にいて、席から立ち上がっていた。時計を見ると午前八時半を指していた。目の前に座っていた彰人が僕を見上げた。

「なんだー?寝言かー?」

「母さんが恋しくなったか?」

周りの席の友達が茶化してくる。僕は苦笑いし、席に着いた。

「いつも寝てるけど、寝言を言ったのは初めてだな。」

彰人が椅子を僕の机に倒す。僕は彰人の顔をジッと見つめた。

「彰人、無事だったんだね。よかった…。」

「ん?何がだ?」

彰人は安堵の声を漏らす僕を、不思議そうな顔で見ていた。すると担任が教室に入ってきた。ホームルームの時間だ。

「彰人、昼休みにちょっと話せないかな。」

僕は彰人に昨日のことを伝えることにした。



「つまり、俺は昨日健と帰れなかったってことだよな?」

昼休み、僕たちは旧校舎の裏に来た。普段使われていない閑散としたところなので、落ち着いて話をするには最適な場所だった。そこで昨日のことを彰人に伝えた。彰人が昨日のことを覚えているかどうか、確かめるために。

「健と一緒に帰ったのは覚えている。健の話も覚えているよ。」

でも、と彰人が続ける。

「でも、学校を出た後の記憶がないんだ。」

「僕が学校を出たところは見た?」

「ああ。『おっしゃー!出られたー!』ってなって、その後、どうしたんだっけな…。一緒に帰った気がするんだけど…。」

やっぱりだめだ。僕が何回校舎を出ても、それを覚えている人はいない。僕自身すらも。

「悪い、健。力になれなくて…。」

彰人が頭を下げる。

「なんで彰人が謝るだよ。むしろ昨日助けてくれてありがとう。僕のほうこそ、巻き込んでごめん。」

彰人に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「俺も、何か調べてみるよ。何を調べればいいのか、まだわからないけど、きっと解決策があるはずだ。今日放課後、また一緒に帰ろうぜ。とにかく原因を探そう。」

彰人は前のめりになって励ましてくれた。

「ありがとう、彰人。」

僕は笑顔で答えた。その優しさ嬉しく、心苦しかった。そしてこれ以上巻き込んではいけないと思った。昨日のように、またあの渦の中に真紀子焦るわけにはいかない。これは一人で解決させないといけないと、そう決意した。


午後の四時限目の授業を、僕は体調不良と偽って教室を抜け出した。彰人が心配そうな顔をしていたので、大丈夫と伝えた。僕は保健室に行かず、そのまま図書館へ行った。三階の科学コーナーへ行き、本をいくつか検索し、手に取った。そして一番端の席へ持っていき机の上に並べた。

『パラレルワールドとは』

『タイムリープは本当に起こるのか。』

『記憶障害の恐怖』

原因がわからない今、あらゆる可能性を考える必要があった。結局五時限目が終わるまでずっと図書館で調べものをしていた。しかし、解決につながりそうなものは一つもなかった。

僕は机に顔を伏せ、目をつぶった。六時限目が終わったら、帰りのホームルームの時間になる。そうすると、下校しなければならない。また、記憶がなくなるのかと思うと、またあの現象が起こるのではないかと思うと、怖くなった。解決の糸口が見つからなかった焦燥感を抱きながら、教室へ戻った。

帰りのホームルームが終わると、僕はすぐに教室を出た。彰人は友達に声をかけられていたので、彰人にバレないようにこっそりと出た。下駄箱で靴に履き替え、校門とは違う方向に足を向けた。その時、背中をポンッと叩かれた。

「健。」

振り向くと、彰人が立っていた。今日も部活は休みなので、制服姿だ。

「体調、大丈夫か?」

「う、うん。もう平気だよ。」

仮病を使ったとはいえず、罪悪感を感じた。

「それならいいけどさ。これから帰るだろ?」

彰人の目は、今日も手伝う気満々と訴えかけているようだった。

「うん、でも。」

「あ、先に言っとくけど、お前が何言っても手伝うからな。一度手伝っておいて途中で投げ出すのが気持ち悪いし。」

断ろうとした僕の先回りをされた。「決して同情してやっているんじゃない。だから気を遣わずに頼れ」と言われたような気がした。

「ありがとう、帰ろう。」

僕は彰人の言葉に甘え、一緒に帰ることにした。

僕たちは、昨日と同じ裏門に来ていた。人がいないほうがいいので、正門にいくわけにはいかなかった。

「さて、来たのはいいが、どうするか。」

彰人は裏門の前で腕を組む。特に変わったところもない門であるにも関わらず、僕はそこに近づくのが怖かった。僕が彰人の後ろで佇んでいると、彰人が組んでいた手を解き、僕に体を向けた。

「なぁ、一緒に門を抜けようぜ。」

「え、一緒に?」

「ああ。二人で抜けたら、何か変わるかもしれないだろ。」

思い返してみると、昨日も自分一人で門を抜けたし、その前の時も、友達の後に続いて抜けていた。「二人で抜ける」というのは、一つの手かもしれない。

「やってみる価値はあると思うけど…」

門を潜り抜けた後のことを考えると、昨日のことが思い返されて怖かった。あの現象が、また起こるんじゃないかって。

そんな僕の不安な気持ちが伝わったのか、彰人はまた一つ提案してきた。

「もし昨日みたいな現象が起こったら、全速力で逃げようぜ。」

「逃げられるかな。」

「やってみないとわからないだろ?」

彰人は妙に自信あり気だった。そんな彰人を見ていると、少しずつ勇気が湧いてきた。意を決して門に近づいたその時、ある小さな音が聞こえた。

ポタ。ポタ。

それは小雨にもならない、ほんのわずかな雨音のような音。僕は周りを見渡した。

「どうした?」

彰人が声をかける。

「いや、雨降ってきたかなって。」

「こんな晴れてるのに雨降るか?」

「そうだよね。」

勘違いだと思い、歩き出す。しかしまた水が滴る音が聞こえた。

ポタ。ポタ。

やっぱり聞こえる。疲れているのだろうか。僕は頭を振った。すると、次は声が聞こえた。

―――健。

温かい声。囁きに近い、小さな声だが、僕には誰の声かすぐにわかった。母さんの声だ。その声を聞いた途端、急に母さんに会いたくなった。

―――健。聞こえる?

僕はハッと後ろを振り返った。しかしそこには誰もいない。

ポタ。ポタ。

今度はっきり聞こえた。そして気づいた。この水音も母さんの声も、僕の頭の中から聞こえてきている。

「健、どうしたんだよ?」

「なんか頭の中から…」

後ろにいる彰人の方を振り向くと、そこに彰人はいなかった。

「彰人?」

そこには裏門しかなかった。すると、急に視界が歪み始めた。昨日と同じ、あの現象だ。同時に頭に激痛が走る。僕は頭を手で押さえた。視界は強く歪む一方で、まともに目を開けられない状況だ。

「彰人!どこにいるんだよ!」

目をつぶったまま、大声で呼びかけた。

「痛ッ!」

痛みも増していき、ガンガンと響く。痛みに耐えていると、また母さん声が聞こえた。

―――健。お願い、返事をして。

さっきよりもはっきり聞こえた。

「母さん!聞こえているよ!」

―――お願い…。声を聞かせて…。

頭の中で響く母さんの声は涙声だった。

「聞こえてるよ!僕の声が聞こえないの?母さん!僕だよ!どこにいるの?」

思い切り叫んだ。しかし、そこで急に声が出なくなる。息ができなくなっていた。急に苦しくなり、僕はもがいた。しかしその力も少しずつなくなっていく。もうだめだ。このまま、また朝に戻ってしまうのだろうか。また、母さんの声は聞こえるのだろうか。僕は学校から外に出られるだろうか。あと何回こんなことを繰り返せばいいのだろう。僕は絶望していた。すると、僕の顔に光が当たった。弱った力を振り絞って目を細めて開けてみると、光は歪みの中から差し込んでいた。その光は温かく、僕の頬を撫でるように照らしていた。


―――ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやはよい子だ ねんねしな


子守歌。母さんの子守歌だ。以前は意識がなくなる前にこの子守歌を思い出しただけだったが、今は子守歌が母さんの声で聞こえる。

「(母さん。僕はここにいるよ。会いたいよ…。)」

心の中で強く願った。僕はゆっくりと光の方に手を伸ばした。そうすれば、母さんに会える気がした。この無限ループからも抜け出せる気がした。

母さんに会ったのが、ひどく昔のように思える。どんな話をしたのか、家でどんな生活を送っていたのかも思い出せない。それでも母さんの温もりは覚えている。

意識が遠くなっていく。伸ばした手も、もう力が入らない。瞼が重い。視界が暗くなっていく。そしてわずかな温かい光の感触も、消えてしまった。


ポタ。ポタ。

またあの音だ。

ポタ。ポタ。

消えゆく意識の中で、水音だけが最後まで虚しく響いていた。





ポタ。ポタ。

「ねんねんころりよ おころりよ

ぼうやはよい子だ ねんねしな」

私は何百回、何千回、この子守歌を歌ったのだろう。

ポタ。ポタ。

静かな病室内で、点滴の音が目立って聞こえる。愛するわが子の腕に刺さる点滴の数々は、最初は痛々しくて見ていられなかった。しかし、今はこうするしかないのである。私はベッドに横たわる健の腕に触れた。

健がこんな状態になったのは、今から六年も前のこと。健が高校二年生の時だ。下校中の健に、信号無視した車が飛び込んできたのだ。健の身体は高く飛びあがり、頭から地面に落ちたと、その場にいた人は言っていたそうだ。身体の怪我は腕と足、肋骨の骨折で、治療すれば治るものだった。しかし、頭を強くぶつけたことにより、脳に傷ができてしまった。そして健はこの六年間、一度も目を覚ましていない。

「失礼します。」

病室のドアが開き、一人の青年が入ってきた。彰人くんだ。右手には鞄、左手には花を持っている。

「いらっしゃい、彰人くん。」

私がそう言うと、彰人くんは礼儀正しく頭を下げた。彰人くんは健の小学校からの同級生。高校も同じで、一番仲良くしてくれていた子だ。社会人になったばかりの彰人くんのスーツ姿は初々しかった。彰人くんは小学校の頃からずっとサッカーをしていて、社会人となった今でもサークルに入って活動を続けているらしい。なので、彼の肌はまだ温かい春の季節でもこんがり焼けている。

「いつもありがとうね。お見舞いに来てくれて。」

「そんな、俺が来たいから来てるだけですよ。」

私は彰人くんが差し出してくれた花を受け取った。

「健、また来たぞ。」

彰人くんはこの六年間、ずっとお見舞いに来てくれていて、毎回健に声をかけてくれるのだ。

―――「病院の先生から聞いたんです。昔目を覚まさなくなってしまった人に毎日話しかけたら、意識を取り戻した例があるって。だからお見舞いの時はなんか話そうと思って。」―――

初めてお見舞いに来た彰人くんが、私にそういってくれた。高校二年生の青年が言ってくれた言葉に、私は涙を流したのを覚えている。

「新卒一年目は大変だけど、結構楽しくやれてるよ。サッカーの社会人サークルにも入ったから、休みの日も楽しめてる。」

健も、本来ならば彰人くんと同じで社会人になっているはずだ。だが健の身体は小さく細い。点滴でしか栄養を取れていないので、身体も大きくならないのだ。

「おばさん、また来ます。」

健に話を聞かせ終わった彰人くんが、満足そうな顔で言った。

「ありがとう。お花、替えとくわね。」

彰人くんはまた礼儀正しく頭を下げ、病室を出て行った。

ポタ。ポタ。

また静寂な病室に戻る。私も彰人くんに倣い、六年間健に毎日話かけた。それでも、やっぱり目は覚まさない。でも四年前、あることに気づいた。それは子守歌を歌った時だ。健がやんちゃで元気だった幼い頃、まだ寝たくないと夜に駄々をこねたときがあった。しかし子守歌を歌うとすぐに寝てしまうのであった。そんなほほえましい思い出に浸り、何気なく子守歌を歌ったその時、健の手が少し動いたように見えたのだ。さらに少しだけ、ほんの少しだけ目が開いたようにも見えた。私は慌てて健の手を取った。しかし手は動いていなくて、目も閉じたままだった。見間違いだったかもしれない。でもなんだか、まだあきらめなくていいと自信を持つことができたのだ。それから、私は一日に何十回も、健に子守歌を歌っている。

私は健の頬を撫でた。

「健、聞こえてる?」

目は開かない。身体も動かない。わかっている。そんなことは、わかっている。

「健。お願い、声を聞かせて…。」

涙が止まらない。私の涙の雨は、健のベッドのシーツを濡らした。

「ねんねんころりよ おころりよ」

涙声になりながらも、歌い続けた。

「ぼうやはよい子だ ねんねしな」

私は何度でも歌う。健が目を覚ましてくれる、その時を信じて。この子守歌を、歌い続ける。


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