桜の花と狼少年
ホテルに着くと、桐利にエスコートされる桜花の左手薬指の指輪に目を留めた支配人が、喜色を隠そうともせずロイヤルスイートへと案内した。
「必要なものは全部用意したから、クローゼットを確認してごらん」
桐利に言われて桜花はウォークインクローゼットの扉を開ける。
部屋着、パジャマ、外出着、必要な小物に下着まで。本当に全部揃っていた。勿論、サイズは間違い無くピッタリ。
一体いつ用意したのだろう。
暫し無言になる桜花だが、キモいとか怖いとは思っていない。「まぁ、桐君だし」という感想が過ぎるだけだ。
「浴室やパウダールームにも桜ちゃん用に揃えたものがあるよ」
部屋付きの執事がお茶を淹れている間に、浴室とパウダールームも見て回ると、桜花が普段使っている、姉のエステサロンのケア用品と化粧品が、きちんと並んでいる。
抜かり無い。
リビングに戻り、桜花は尋ねた。
「桐君、いつから用意していたの?」
「桜ちゃんをお嫁さんにする用意なら、桜ちゃんが生まれた時から」
「桐君その時まだ2歳だよね」
「そうだよ。これは誰にも言ったことが無いけど、俺は胎児の頃からの記憶があるんだ。知能も隠しておかないとマズイくらい高くて。生まれた頃には大人と変わらない考え方をしてたよ。だから、2歳の頃には俺にとって特別な女の子を手に入れる用意を始めることができた」
桐利なら有り得ることだなぁ、と、のんびり桜花は考える。
「桜花という名前は、俺が付けたんだよ。一生、俺が一番呼ぶ名前だから。他の人に名付けは譲れなかった」
あぁ、本当に生まれた時から外堀は埋め始められていたんだな。桜花は可笑しくなってきた。
「名前を付けて、すぐに桜ちゃんの家族と俺の家族に、桜ちゃんと結婚するって宣言して、色々行動し始めた。だから、皆、俺達が結婚するのを待ってたよ」
「私だけ知らなかったのか。私は桐君はお姉ちゃんのどっちかと結婚するんだと思ってた」
「ごめん」
くすくすと笑う桐利に桜花は抱き寄せられる。
「桜ちゃんが大人になる前に俺のしていることに気づいたら、怖がって逃げるかもって思ったんだ。もし桜ちゃんが俺から逃げたら、非道いコトする自信があったから、時期が来るまで桜ちゃんの誤解を解かなかった」
監禁ヤンデレ。そんな単語が桜花の脳裏に浮かんだ。やる。桐利なら絶対やる。逃げるのだけは止めておこう。桜花は決意した。
「ドレスは出来上がってるし、式場と招待客のスケジュールも押さえてあるよ。婚姻届は桜ちゃんが名前を書いたらすぐに出せるから。はい、書いて」
執事が色々記入済みの婚姻届を桜花の前に置いて、ペンを差し出す。
ここに姉のサロンの化粧品があったり、思春期以降でも桐利と外泊しても家族が全く心配も反対もして来なかったり。桜花が知らなかっただけで、皆そろそろかと見守っていたのだろう。
そう結論づけて、桜花はペンを取り、婚姻届に桐利が付けた自分の名前を記入した。
満足そうに書類ケースにそれを仕舞い、桐利は執事に手渡す。すぐに提出するように指示を出した。
「桜ちゃん、幸せになろうね」
「桐君が私を幸せに出来ないとは思ってない」
「じゃあ二人とも幸せになれるね。俺は桜ちゃんと一緒なら、ずっと幸せだから」
言葉の通り、蕩けるような幸福さを滲ませて桐利が笑う。
「生まれた時から桜ちゃんを逃がさないように愛でて来たけれど。もう、これからは、本気で力の限り遠慮なく愛していいんだね」
少し背中がひんやりする桜花だが、もう逃げない決意もしたことだし、このまま嘘つきなこの男に囚われることにした。