隠密の二人
「いらっしゃーいっ! 今日はおなじみセクハラ案件よー!」
桜花が社長室に入り、桐利がドアを閉めた途端、能天気な社長の声が響き渡った。
社長は桐利の母であり桜花の叔母でもある藤香。決してただの能天気なオバサンではなく、海外からも取材が来るようなトップクラスの女性実業家だ。
ただ身内の前では気楽にしているだけなの、と本人は言う。
そんな藤香が息子の桐利の入社と共に組織したのが、「隠密システム」だ。
社長直属の秘密の部署で、藤香が嗅ぎつけた社内トラブルを解決に持って行くのが仕事。
実行メンバーは、立ち上げ当初は桐利だけ。桜花が入社してからは桐利と桜花の二人になった。
藤香は熱心な時代劇ファンである。
社長の仕事を受け継ぐ際に、年商を父親の代の倍以上にして安定させたら「元締め」になる、との条件で専業主婦をやめて死に物狂いで働いて来た。
本当は、息子二人と時代劇の聖地を巡礼するお気楽主婦ライフを送るはずだったのにと、酒が入ると力説するのもいつものことだ。
と言う訳で、今ここに居るのは、社長と社員ではなく元締めと二人の隠密である。
「ガイドラインもあるのに、中々無くなりませんね」
「性欲は本能だもの。ガイドラインを設けてから減りはしたけど、遣り口は巧妙化したわね」
セクハラは、隠密システムで一番多く扱う案件だ。
被害者が表沙汰にするのを避けて泣き寝入りするので、表立って解決するには事実が上まで届きにくいからだ。
元締めは社内の噂からトラブルを嗅ぎつけると、隠密達に裏取りと事態の収拾を任せる。
「被害者は、総務部に今年新卒で入った、宮田麻里乃。加害者は、第二企画課長の金本一成。被害者か加害者か分からないのが、第二企画課の染谷智」
元締めの話を黙って聞いていた隠密達は、ナニソレと首を傾げた。
「染谷智は、被害者の宮田麻里乃の恋人よ。金本に恋人を奪われたという噂と、自分の出世のために恋人を上司に売ったという噂があるの」
どちらの噂が真実でも、被害者が救われないのは変わらない。
これ以上被害者の傷口を広げないように、速やかに対処することが最善策だ。
「頼んだわよ。二人とも」
「はい、元締め」
二人は社長室を出ると、とりあえず総務部に向かった。
桐利と桜花が連れ立って社内の何処を歩き回っていても、誰も違和感を覚えない。
桐利は社長秘書だが、まだ若く、男性アイドルのように綺麗で可愛らしい見た目をしているために、社長が溺愛する息子を目の届く所に置くために秘書にして社内で遊ばせていると噂する者も居るからだ。その噂は社長母子が流したものだと知るのは、当人達を除けば桜花だけだ。
桜花についても、社長が見目麗しいお気に入りの姪を入社させて受付に飾り置き、息子とセットにして個人的な雑用を頼んでいると思われている。そう思われるように仕向けたのは、もちろん隠密システムの面々だ。
社長の資質を問われかねない噂だが、上がり続ける業績と絶対的なカリスマ性により、藤香の名誉が傷つけられることは無い。
なので、今も桐利と桜花が総務部内を散歩しながら、何気なく宮田麻里乃を観察していても、誰も不審に思わなかった。
「小柄、色白、ややぽちゃ、黒髪、大人しそう、ナチュラルメイク、可愛らしい顔立ち、若い」
「エロ爺の生贄になるために生まれて来たような逸材だね」
「そんな星の下に生まれたい女はいないと思う」
互いにだけ聞こえる声で意見を交わす。
桐利はフザケたことを言っているようだが、実際セクハラの対象として目を着けられやすいのは、麻里乃のようなタイプの女性が多い。
「他人の仕事を押し付けられがちだし、意見も飲み込むタイプ。筆記が優秀で面接が可のグループか。重役爺共が男性社員の嫁候補に採用した女子学生だね」
以前よりは少なくなったとは言え、女子学生は採用して育てても、結婚や出産や介護などで辞めたり仕事をセーブすることが男性社員よりもずっと多い。
ならば、男性社員には同じ会社の女子社員と結婚してもらい、労働環境に理解ある妻に支えられながら仕事に邁進してもらおう。
そう考える重役が、それなりにいるのが現実だ。その現実を望んでいる社員が男性にも女性にも一定数いるので、社長も反対はしない。
嫁候補の女子学生しか採用しないわけではなく、能力を期待して採用した女子学生が、男性社員を抜いて昇進して行くことも多い。
それに、最終面接まで到達したのだから嫁候補として重役達に見られていても、基本的な能力は高いのだ。入社後に先輩社員に揉まれている内に、鍛えられて才能が開花する場合もある。
「入社半年か。強くなる前に潰れるか、これを乗り越えて変われるか、なのかな」
桜花と桐利は、社内のカフェテリアに向かった。
総務部のフロアをブラブラしつつ拾った噂話では、麻里乃は企画課のイケメン彼氏に捨てられて、その元カレは同じ課の美人とカフェテリアでよくイチャついている、ということだった。
眺めの良いお洒落なカフェテリアは、特に若い社員に人気の場所だ。
社内恋愛中のカップルが利用することも多く、業務に支障がなければ何時利用しても咎められることは無い。これも社員同士の結婚を後押ししている。
「見事にイチャついているねー」
傍から見ると、この二人も社内恋愛中のカップルなのだが。
桐利と桜花は揃ってカフェモカを購入すると、窓際の染谷智とスラッとした女子社員がよく見える席に座った。
「正反対のタイプだね。一番おもしろおかしく噂される」
智は麻里乃の二年先輩で、総務部と企画部の合同懇親会で智から声をかけて交際が始まったらしい。
智は第二企画課の期待の新人と呼ばれ、長身で大学までサッカー部に所属していたイケメン。狙っていた女子社員も多く、だからこそ麻里乃の立場が苦しいものになり、今は噂話が大いに盛り上がっている。
智が麻里乃を選んでも、麻里乃より自分の方が女として上だと思う女子社員は納得していなかった。たとえ自分が選ばれなくても、今、智とイチャついているようなモデル体型の派手な美人なら溜飲が下がるのだ。
「自分の彼女を助けず逃げたヘタレか、自分の彼女を売ったクズっていう噂が両方デマでも、あの男がクソなのは事実みたいだねー」
ニコニコと甘いコーヒーを片手に、恋人とご機嫌デート中みたいな表情で桐利は毒を吐く。声は桜花にしか届かないので容赦がない。
「ストライクゾーンが広いのか、片方は遊びなのか、どっちかなぁ」
「答えはそれ以外かもね」
何か気づいているのに言わないようなニュアンスに、桜花は軽く桐利を睨む。
「うわー、桜ちゃん可愛いー」
いつもの真意の見えない笑顔。
桜花は唇を尖らせたままカップに口を付けた。
「被害者か加害者か分からない男が働く部署を、見学に行ってみようか」
桜花の機嫌の急降下を察知した桐利が、意識を逸らすように提案する。
からかってばかりのくせに、桜花が本気で怒る前には、いつも乗らずにはいられない提案をしてくるのが桐利だ。
空になったカップをカウンターに返却し、桜花は桐利と企画部のフロアに向かった。