許したつもりで許せていない時
許したつもりで許せていない時
他人に何か腹立たしいことをされたり嫌なことを言われたりして、気分を害することがある。そうすると、一気に怒りのボルテージが上がって、今やっていたことを忘れてしまったり、集中すべきことに集中できなくなったりすることがある。
例えば、難しい本を読んで勉強している途中に、何か嫌なことを言われたら、今まで読んでいた内容を忘れてしまう。最悪な場合は、どこを読んでいたかさえ覚えていない。また、覚えていたとしても、続きを読む集中力が無くなっていて、言われた嫌なことばかりが気にかかる。それは時間の無駄である。
また、怒りで心臓がバクバクするのも心臓に負担をかけるし、そこまでいかなくても、怒りを抑えるために甘いものに走ったり、食べ過ぎたりすれば、健康に悪いだろう。
だから、できれば怒りをすぐに手放して、いつも平常心でいられるようになりたいと思う。
そのためには、素早く相手を許す必要がある。時間を巻き戻して、相手が言った事や、やった事を無かったことには出来ないけれど、許してしまえば、平常心を取り戻すことはできる。平常心になれば、また、自分がやるべきことに集中できるし、ストレスで過食したりする必要もない。結果として、一番自分のためになるのだ。
数多の本にも許すことが大切だと書いている。許しが大切なことには同意しているが、落とし穴もある気がする。なぜなら、許そうとする時、許したつもりで許せていないケースがあるからだ。そのことについて考えてみようと思う。
まずは、相手に非があるけど、「私は寛大な精神の持ち主だから、あなたを許して上げる」という上から目線の許し。これも怒りを押し殺す形の一つであり、どっかで相手を罰している。
だから、また同じように気に障ることを言われたり、酷いことをされたりすると、心の中で「やっぱり、ダメな奴はどこまでもダメなのだ」などと、相手に対してダメ出しする。「やっぱり」と出てくるあたりで、前のことを許せていなかった証拠である。
もしくは、怒りの元凶であった人が困難を体験するのを見ると、「ほら見たことか」と思ってしまう。復讐心が心にくすぶっていたのが表に出たのだ。つまり全然許してなかったのだ。
もう一つは、怒りを感じた時に、自分を許さないこと。自分に対して不満が無いときは、他人に対しても不満がない。
例えば、今日はこの仕事をやろうと思っていたけど、結構時間がかかってしまって、終わりそうにない。心の底では、「自分は、なんてうすのろなんだ」と自分を罰していたとする。そんな時に、誰かがテーブルにコーヒーをこぼしたとする。ちょっとこぼしただけだし、仕事の書類にもかからなかった。でも、烈火のごとく怒ってしまったりする。
同じシチュエーションでも、仕事が順調に終わっていた後だったら、「大丈夫、大丈夫」と言って、自ら台ふきんを手にして拭いてしまったりする。
もし、仕事が思った通り進んでいなくても、一生懸命やっている自分を認めていたとしたら、どうだろうか。やはり怒らないでいられるのではないだろうか。
それでは、これら二つの許しを仕損じるポイントについて、どうやって対処したらいいのか考えてみよう。
まずは一つ目の表面的な許し。これは、巧妙な形での怒りの感情の抑圧と言ってもいいだろう。
それについては、一つは、許すことと正反対のようだが、しっかり怒りや悲しみ等の感情を感じる必要があると思う。怒りや悲しみの感情をしっかり感じるということは、感情をしっかり捕まえたということだ。いらない感情も片付いていない部屋のゴミと同じで、ゴミを手にして、これはゴミだと分別できれば、捨てようという意思さえあれば、捨てることができる。感情も、捉えることができていて、それを不要だから捨てようと決めれば、捨てることができるのだ。それこそが、感情の開放であろう。しかし、怒りや悲しみを感じていなければ、それは、まだ心にある。片付いていない部屋のドアを閉めたところで、部屋がきれいになったわけではないのと同じように、悲しみや怒りの感情を残したまま許すことはできない。
感情を感じるのは難しいと思うかもしれない。しかし、誰でも幼い頃は、できていたはずなのだ。幼い子供は、悲しかったり怒ったりすることが頻繁にある。でも、その都度、泣いたりして感情を開放するので、その感情が、ずっと残ることがないのだ。兄弟や友達と喧嘩した直後、仲良く遊べるのは、感情を開放し、相手を許しているからできることだ。
感情というのは、本当に開放されると、その感情を生み出す元になった出来事を思い出しても、遠いというか他人事のように思い出されるだけで、今その出来事を再体験したような強い感情は感じないものらしい。だから、昔の兄弟喧嘩や幼馴染との喧嘩を覚えていたとしても、良い思い出だったりする。しかし、年を取るごとに、感情を手放さなくなり、それに伴い兄弟や友人とわだかまりができるようになっていくのだ。
もう一つの自分を許さないで他人を許そうとすることについての対処方法は、そのままの自分を許すことである。つまり、仕事が遅くても、物覚えが悪くても、自分で決めた目標を達成できなくても、すぐ人を責めてしまっても、その他色々あっても、自分を許すことである。自分を許したくないというのは、自分が悪い人間だと思っている証拠である。ここで言う「悪い」というのは、人間性として生まれつき持っている性質が「悪い」ということだ。仕事が遅かったり、物覚えが悪いのは、「悪い」ことではなく、修正することができる点でしかない。しかし、自分を責めている人は、改善すべき点があるとは考えずに、自分は罪深い悪人だと考える。つまり自分に対して罪悪感を持っているということだ。どうして罪悪感を持ってしまうのだろうか。
多くの人は自分への基準値を非常に高く設定しがちである。そして、それをクリアできないと、自分はダメな奴だと決めつける。もちろん、人間の可能性には上限がないので、基準値を低く設定する必要があると言いたいわけではない。そうではなく、それを達成できない時には罪悪感を持つことが問題なのだ。その上、罪悪感を抱くことを美徳と考えている人も多いのだ。
自分が子供の時、何か悪いことをすると、大人は反省しろと言った。そして、自分で自分を罰する、つまり罪悪感を感じているフリをすると、満足してもらえることが多かった。それで、いつの間にか罪悪感は美徳だと勘違いしてしまったのではないだろうか。
反省は要らないと言いたいのではない、何かミスしたら、振り返って改善すべきところは改善したらいいと思う。必要なのは罪悪感ではなくて、改善していくための思考力と実行力だ。そして、罪悪感があると、自分を責めるほうにエネルギーを取られてしまって、肝心の改善のための思考力と実行力が発揮されにくくなる。すると、また物事がうまく進まず、罪悪感を持つ羽目になる。
怒りがある時は、早く怒りを手放して楽になりたいと思う。しかし、そう思って手放したつもりでも、繰り返しその出来事を思い出してしまったり、出来事を思い出した時に怒りの感情が湧くのであれば、相手に対して気持ちを集中して、手放そう手放そうと頑張るのではなく、自分の感情は解放されているのか? 許すべきなのは、相手だけでなく自分ではないのか?と自問自答してみることが必要なのではなないだろうか。