鬼が笑い、契約を交わす
富士先第一高校の靖道のクラスに、四月から一つだけ空いている席があった。誰の席なのか分かったのはそれから一月後だ。突然、朝のホームルームの時間に担任が女子生徒を引き連れて来たのである。
蒼潤の髪に白い肌。伏し目がちな瞳はどこまでも黒く澄んでおり、華奢な身体が、か弱さを思いおこさせる。彼女のルックスを要約すると、かなりの美少女だということだった。
ざわめく教室の中で、事故で入学式に来れなかったクラスメイトだと先生は説明した。
そしてこう付けたした。
「事故のせいでちょっと喉が悪くなってな……声出すのが難しいんだ。そこんとこ配慮してやってくれ」
みんなよろしくなー、と最後に先生は言った。よろしくも何も丸投げじゃないかと思ったが口には出さなかった。
女子生徒は無言で頭を下げるとあの空白の席についた。
それが木武紗夜香だった。
一月遅れの登校のせいか、やはり声が出ないという障害なのか、はたまたその綺麗すぎる顔立ちが出す独特な雰囲気のせいか。彼女に話しかける人は誰もいなかった。また、彼女の方からも進んでコミュニケーションを取ろうとはしなかった。大人しく、静かに教室で座っている生徒だった。
そんな彼女が鬼だなんて言って誰が信じるだろうか。
「信じるわけねーよなぁー……」
昨夜のことを思い出しながら靖道は購買で買ったパンにかぶりついた。
あの後、彼女と言葉を交わすことなく、靖道はすぐに全速力でその場から逃げた。犬もどきとの鬼ごっこの時よりも速く走っただろう。理由は単純。怖かったから。
目の前に血まみれの薙刀を手にした和服の人物を見たら誰だって危ないと思うだろう。
それが美人であっても、クラスメイトだとしても。いろんな意味で危険だ。
家に帰ると靖道の日常があった。
母親が「おかえり」と迎えてくれた。
夕食を食べて風呂に入った。
布団でぐっすりと寝た。
朝日を浴びて普通ということへの幸せを噛みしめた。
清々しい光を部屋の窓ガラス越しに感じながら、靖道は昨夜のことを忘れることにした。確かにこの目で謎の怪物を見たし、改造和服のクラスメイトにも会ったけれど、今更騒いだところで無意味だ。
悪い夢だったんだと一旦結論づけると、もうそうだとしか思えなくなった。
よかった、よかった。
むしろちょっとした非日常の感覚を味合わせてくれたことに感謝しようではないか。
そう考えさせてくれるほどに綺麗な朝空を見て、もう二度は味わいたくは無いけど、と靖道は付け足した。
――――何もないことに。
――――何も見なかったことに。
――――そして何も信じないことに。
そう決意したのに、木武の顔をみると昨晩のことがどうしても思い出してしまう。
ちぇっ、とパンをもう一口齧ったとき「佐藤――」と先生が靖道の名前を呼んだ。
「ふぁい。ふぁんふぇすか?」
「ものを食いながら話すんじゃない。ちょっと頼みたい仕事があるんだが」
「……えー……」
露骨に不満を顔に出したが、それに構うことなく、
「一階の空き教室に持っていってもらいたいテキストがあるから運んどいてくれ。段ボール一箱だからすぐに終わるし、どうせ暇だろ?」
あっけらかんと先生は笑って靖道の肩を叩いた。
仕方なく「分かりました」と靖道は立ち上がり、残ったパンを胃の中に全て飲み込んだ。