気がついた少女
家に戻って、レベッカは祖父から大目玉をくらった。祖父は、なかなか帰ってこない孫が心配になって外に出てみると、そこに荷物だけが落ちているのを発見し、人攫いにでも合ったかと村中探し回ったそうだ。心配させてしまったと反省し、静かにご飯を食べ湯を浴びていたレベッカは、しかし重大なことに気が付いてしまった。
(どうして、ヴィラはあの人たちから隠れたんだろう)
あの時、ヴィラがレベッカを隠した。レベッカはヴィラに危険を伝えていなかったのに。それは、あの人たちが自分を探していると気付いていたからではないだろうか。
(……記憶が、戻ったの?)
それは、喜ぶべきことだ。しかし、レベッカの心は喜ぶどころか急速に冷めていく。温かい湯に浸かっているというのに、冷たい汗が背中を伝う。
(どうしよう……どうしよう……)
ヴィラが、帰ると言ったらどうしよう。
ヴィラが、遠くに逃げると言ったらどうしよう。
ヴィラが、突然いなくなったらどうしよう。
どうしよう、と、そればかりがレベッカの頭をぐるぐると廻る。もし、そのどれかをヴィラが選んだとして、その時自分はどうすればいいのかレベッカには見当もつかない。
レベッカに分かっているのは、ヴィラと離れたくないということだ。ヴィラと一緒にいたいということだ。
(でも、ヴィラはあの時嬉しそうにしなかった)
レベッカが「守る」と言った時、ヴィラは何の反応もしなかった。ただレベッカのことを見つめていた。それは、彼が記憶を取り戻していて、既にここから出て行くことを決めてしまったからではないだろうか――。
ぎゅっと、何かに心臓が握り締められるような痛みが走った。思わずレベッカは自分の膨らみ始めたばかりの小さな胸を押さえる。けれど、痛みは引かない。心に渦巻く不安も拭えない。
レベッカは苦しさから逃れるように湯を出て、碌に髪も乾かさずに服を身につけるとヴィラの元へと走っていった。
ヴィラは祖父の仕事場で寝泊まりしていた。レベッカと二人なら一緒にベッドで寝れると主張したのだが、ヴィラと祖父の両方から却下されてしまった。結局仕事場でいいと言い張るヴィラの主張が通り、レベッカがノックもせずに空けたドアの先に、ちゃんと彼はいた。それだけのことで、レベッカの視界は歪む。
飛び込んできたレベッカが突然泣き出しそうになっているため、ヴィラは驚いたようだ。少しだけ目を見開くと、早足でレベッカの元へと来てくれる。揺れる白髪が蝋燭の火を受けてキラキラと光り、痛みを覚えるほど大きかった不安を忘れてレベッカはそれに見惚れていた。呆けるレベッカを引き戻したのは、心配そうに覗きこむ空色の瞳だった。
「あ、あのね、ヴィラ。そ、その、聞きたいことが、あって……」
尻すぼみになる言葉。自分でも情けないその声を、しかしヴィラは呆れる様子もなく聞いてくれた。それが、レベッカに勇気をくれる。
「どうして、隠れたの?ほら、今日、森で」
ヴィラは少しだけ思案した後、作業台の上に置かれていたノートとペンを取ると、筆談を開始した。
[あの人たちをここ数日何度も見た。怪しい]
「怪しい?」
[うん。猟師の格好をしているけど、狩りをしているとこ、見たことない]
「そう……」
どうやら記憶が戻ったわけではないようだ、とレベッカは一人安堵する。そして、そんな自分が凄く汚らしい人のように思えて、自己嫌悪に陥った。
(記憶が戻りますように、って祈ってあげるべきなのに……)
このまま記憶が戻らないことを願っている自分は、酷い人間だとレベッカは思った。
「ねぇ、ヴィラ…………ヴィラは、記憶が戻ったら嬉しい?戻って欲しい?」
不思議そうに、首を傾げるヴィラ。それが「当たり前だろう」と言っているように感じたレベッカは、思わず俯いてしまう。
(……そうだよね。戻ったら嬉しいよね。戻って欲しいよね)
記憶を取り戻したら、きっとヴィラは離れて行ってしまうだろう。それにヴィラの本当の名前も分かるだろうから、もう〝ヴィラ〟とは呼べなくなるのだと思うと、レベッカの小さな胸は張り裂けそうだった。
涙が零れそうになるのを、レベッカは拳を握りしめることで必死に耐えた。泣いてはいけない、と自身に言い聞かせる。泣けば、優しいヴィラは残ってくれるかもしれない。でもそれはヴィラの為にはならないだろう。
一人で耐えるレベッカの肩が、優しく叩かれた。
反射的に顔を上げたレベッカの目に飛び込んできたのは、同じ人間だとは思えないほど美しい少年の、優しい微笑みだった。少年は見惚れるレベッカの前に、ノートを掲げる。そこには綺麗な文字で、こう書かれていた。
[君が言ったんだ。これはチャンスだと]
「…………」
「…………」
「…………」
呆けるレベッカに不安を覚えたのか、ヴィラは補足説明を加える。
[目が覚めて記憶喪失だとわかった時、そう言って慰めてくれたでしょう?]
それでようやくレベッカも思い至る。確かに、そんなことをレベッカは言っていた。
思わずポンと手を叩くと、ヴィラの顔に苦笑が広がる。
[忘れるなんて、ヒドイ]
「だ、だって、あの時は必死だったんだもの」
[僕を救ってくれた言葉なのに]
「今はちゃんと思い出したわ」
[僕が言わなきゃ、絶対思い出すことなかった]
「そ、それは……そう、かも……ごめんなさい……」
項垂れるレベッカの頭を、ヴィラが笑いながら撫でてくれる。その手が優しくて温かくて、レベッカの頬は自然と緩んだ。
[僕は過去に囚われない。だから、心配しないで]
その言葉は嘘ではないと、レベッカは思った。自分の為につかれた嘘ではないと、そう思った。
「うん。こんな時間にごめんね。ありがとう。お休みなさい」
手を振るヴィラに見送られ、レベッカは自分の部屋に向かう。レベッカの胸にはもう不安は渦巻いておらず、いっそ晴れ晴れとした気持ちだった。
(聞いてよかった。あぁ、でも、明日からも、あの人、たち、から……隠れる、ように、言わ、な、い、…………)
ベッドに入って数秒――レベッカの意識は眠りの中へと落ちていった。
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