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酒池肉林

作者: 絲瀬
掲載日:2026/08/12

雨の降る、午前二時。


玲奈は窓を伝う雨粒を指先でなぞりながら、ぼんやりと外を見つめていた。


高層マンションの最上階。

男物のシャツを一枚だけ羽織り、手には赤ワインの入ったグラス。


「はぁ……」


小さくため息をつき、視線を動かす。


その先にいるのは、この部屋の持ち主――林田蓮。


酒に酔い潰れ、ベッドで眠っている彼を見ながら、玲奈は三年前のことを思い返した。


蓮と出会ったのは合コンだった。


その場を盛り上げる役で、その日いた誰よりも騒がしかった。

顔はそんなにイケメンでもない。よくて中の上。


自己紹介では、


「好きな言葉は酒池肉林です!! バツイチです!!」


と叫び、周囲をしらけさせていた。


それなのに、なぜか目に留まった。

そして気づけば、関係が始まっていた。


玲奈は気づいていた。


蓮の左手薬指に、指輪の跡が残っていること。


お盆や年末年始には必ず連絡が取れなくなること。


会っているとき、スマホの画面をいつも伏せていること。


――この人は、バツイチなんかじゃない。


きっと、既婚者だ。


そう思いながらも、玲奈は関係を切れずにいた。


本人の口から聞くまでは。


そんな形のない何かに、ずっと縋っていた。


――少なくとも、今夜までは。


玄関から電子音が鳴った。


ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


ガチャ。


突然の音に、玲奈の身体が固まる。


自分の鼓動が、やけにはっきり聞こえた。


その鼓動に重なるように、玄関から足音が近づいてくる。


「蓮〜連絡取れないからきちゃったぁ」


入ってきたのは、二十代半ばほどの女だった。


――やっぱり。


蓮は既婚者だったのか。


玲奈は女を凝視した。


雨に濡れた髪。

ブランド物のバッグ。

そして手には、この家のタオル。


女が髪を拭きながらかき上げ――玲奈と目が合った。


「……誰?」


先に口を開いたのは女だった。


怪訝そうに玲奈を見ている。


玲奈はグラスに残っていたワインを飲み干した。


「それ、こっちの台詞」


長い沈黙。


やがて女が口火を切った。


「もしかしてぇ……蓮の奥さん?」


玲奈の思考が止まった。


無理もない。


既婚者ではないかと疑っていた男の部屋に突然女が現れ、その女から自分が妻なのかと尋ねられたのだから。


何か言わなきゃ――。


その瞬間、寝室から蓮が出てきた。


「玲奈どしたの? 寝てごめんねー。続きしよ……って……」


蓮はそこに立つ女に気づき、顔面から血の気を失った。


「……美月」


玲奈は笑った。


「へぇ。名前で呼ぶんだ」


美月も笑った。


「玲奈っていうんだ」


蓮だけが笑っていなかった。


「待って。説明するから」


「じゃあ説明して」


玲奈と美月の声が、綺麗に重なった。


蓮は黙った。


玲奈が先に口を開く。


「私は蓮の彼女。三年付き合ってる。あなたは?」


美月はバッグを床に置いた。


「二年半」


「半年かぶってんじゃん」


「いや、ほぼ全部かぶってるでしょ」


「確かに」


二人は顔を見合わせた。


妙な連帯感が生まれかけた――そのときだった。


また玄関が鳴った。


ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


ガチャ。


三人が固まる。


玲奈がゆっくり蓮を見る。


「……まだいるの?」


「いや、違――」


ドアが開いた。


今度こそ、妻だった。


「ただいま」


出張帰りらしい大きな荷物を抱えた妻――沙耶は、三人を順番に見た。


明らかに寝起きで、顔色の悪い夫。


男物のシャツ一枚の玲奈。


ずぶ濡れの美月。


沙耶は静かに荷物を置いた。


「……多くない?」


玲奈が吹き出した。


美月も耐えきれず笑った。


「笑うところじゃないだろ!」


蓮が叫ぶ。


三人の女が同時に蓮を見た。


「お前が言うな」


また綺麗に重なった。


その夜、蓮の人生で最も長い事情聴取が始まった。


妻、結婚七年目。


愛人・玲奈、三年目。


愛人・美月、二年半。


さらに蓮のスマホから、他に二人の女がいることまで発覚した。


「順番に聞くから」


沙耶はそう言うと、出張帰りの荷物を片づけ始めた。


玲奈はいたたまれなくなり、ワインを開ける。


美月も蓮の高級ウイスキーを勝手に取り出した。


そんな二人を見た沙耶は、冷蔵庫からチーズを持ってきた。


「なんのお構いもできませんけど」


そう言って差し出す。


玲奈と美月は思わず会釈をし、チーズを口に入れた。


時計は午前四時を回っていた。


沙耶が尋ねる。


「まず、シャツを着てるあなた。既婚者だって知ってたの?」


「バツイチって……聞いてました」


「あー、そう。いつ離婚届出したのかしらね。ね、玲奈さん」


玲奈の手が止まった。


自分はまだ、沙耶に名乗っていない。


それなのに名前を呼ばれた。


動揺を隠せない玲奈をよそに、沙耶は美月へ顔を向ける。


「あなたが美月さんね。美月さんは、なんて聞いてたの?」


「こんなに好きになった女は初めてで……もう妻とは離婚協議をしてるって……」


「へぇーーーー、そう。離婚協議ね」


沙耶がフフッと笑った。


「これからなのだけど」


美月が黙る。


「まぁいいわ。話も長くなりますから、とりあえず乾杯しましょう」


沙耶がグラスを掲げた。


玲奈と美月も、おそるおそるグラスを上げる。


「乾杯」


三人が無言で酒を飲む。


たまらなくなった蓮が声をかけた。


「ちょ、沙耶……今日は帰ってこないんじゃ……」


「黙って」


「はい」


午前五時。


いつの間にか空は明るくなり、雨も止んでいた。


蓮はソファの端で小さくなっている。


三人の女は、沙耶を中心に話を続けていた。


盛り上がるわけでもない。


声を荒らげるわけでもない。


ただ、淡々と。


その静けさに耐えられなくなったのか、蓮が突然立ち上がった。


そして沙耶の前で土下座する。


「沙耶ごめん!! 本当にすみません!」


沙耶は一瞬だけ蓮に目をやると、手荷物から茶封筒を取り出した。


中から数枚の紙を抜き、それぞれの前へ置いていく。


玲奈と美月の前には、調査報告書。


そして床に這いつくばっている蓮の前には――離婚届。


「私、実は半年前から知ってたの」


蓮が顔を上げる。


「……え?」


「興信所も入れてた。玲奈さんも美月さんも知ってたよ。あとの二人のこともね」


空気が変わった。


沙耶は微笑んだ。


「海外出張だから、誰か連れ込むのも分かってた。だから一日早く帰ってきたの。揃ったら話が早いでしょ?」


玲奈も美月も、そして当然、蓮も何も言えなかった。


静まり返った部屋に、時折沙耶の「フフッ」という笑い声だけが響く。


そのとき。


インターホンが鳴った。


玲奈と美月の頭に、同じ疑問が浮かんだ。


――今度はどんな女?


沙耶は急ぎ足で玄関へ向かった。


しばらくして戻ってきた沙耶の手には、大量のピザと酒。


そしてその後ろには、俯いた二人の女がいた。


「紹介するわね」


沙耶がにこやかに言う。


「蓮の愛人の百合さんと、加奈さんよ」


蓮は、もう顔を上げられなかった。


気まずそうに立つ四人の愛人と蓮をよそに、沙耶だけが話し続ける。


「腹が減っては戦はできないからね。この時間まで開いてるピザ屋さんがあってよかったわ〜。百合さんと加奈さんはお仕事終わりだから、お腹空いてるでしょう? みんなで食べましょう」


本来なら、この状況で食べ物など喉を通るはずもない。


それでも全員がピザや酒に手を伸ばした。


ただ一人。


蓮を除いて。


最初は無言で黙々と食べていた五人も、やがて他愛もない話を始めた。


二時間ほど経つ頃には、愛人四人も少しずつ緊張が解けていた。


ずっとにこやかな沙耶が何を考えているのかは、誰にも分からない。


それでも、この妙に和やかな空気に安堵し始めていた。


ピザの空箱と酒瓶が散らかり始めた頃。


沙耶がふと立ち上がり、蓮の正面へ行った。


「ねぇ蓮。あなた、昔から酒池肉林が好きって言うわよね」


「う……うん……」


「意味、分かって言ってる?」


「女の子……が……いっぱい……」


沙耶は呆れた顔をして、それから笑った。


「やっぱり」


そして、テーブルを見渡した。


空になった酒瓶。


食べ散らかされたピザ。


そして四人の女。


「違うわ。酒池肉林って、ごちそうやお酒がふんだんにある豪華な宴のことよ」


沙耶は続ける。


「ねぇ、蓮」


にっこりと笑った。


「あなたが勘違いしてた『女の子がいっぱい』と、本当の意味での酒池肉林。今ここに、どっちも揃ったわけだけど」


蓮は俯いたまま動かない。


「あなたはもう、どちらも手に入れられないわね」


沙耶だけが笑った。


やがて沙耶は立ち上がった。


「じゃあ、私は行くわ」


愛人たちが一斉に沙耶を見る。


「ちなみに、既婚と知らなかった人を責めるつもりはないから安心して。騙されてたのは私も同じだもの。証言が本当なら、ね」


そして、床に座り込んだ蓮を見る。


「責任を取らせる相手は、決まってるから」


蓮の顔がさらに青ざめた。

美月も体を強張らせた。


「あとのことは弁護士さんに全部お任せしてあります。じゃあね、皆さん」


沙耶は颯爽と部屋を出ていった。


残された愛人たちも、少し遅れて帰り支度を始める。


「あのっ」


蓮が声を発した。


四人が一斉に振り返る。


そこにあったのは、今まで蓮に向けていたものとはまるで違う、冷たい表情だった。


最初に口を開いたのは玲奈だった。


「私、気づいてた。でも信じたかった」


涙が出そうになるのを悟られまいと、玲奈は唇を噛む。


「もう会わないから」


それだけ言うと、急いでマンションを後にした。


そう間を置かず、残りの三人も動き出す。


「ふざけんなよ、バレてんじゃん」


美月。


「既婚者って知ってたら……付き合わなかったよ」


百合。


「そもそも百合とも関係あったことに驚いてる。今度は同じ店の子に手出しちゃダメだよ」


加奈。


それぞれ一言だけ残し、次々と部屋を出ていった。


誰もいなくなった部屋。


散乱した酒瓶。


ピザの空箱。


そして、離婚届。


その真ん中で、蓮だけが一人取り残されていた。


「酒池肉林……か……」


蓮は力なく笑った。


「何やってんだろうな、俺」


返事をする者は、もう誰もいなかった。

読んでいただきありがとうございます!


なろう、初投稿の作品になります。


蓮の勘違いがひっくり返る瞬間、いかがだったでしょうか。



個人的には沙耶の不敵さが大好きです。



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