酒池肉林
雨の降る、午前二時。
玲奈は窓を伝う雨粒を指先でなぞりながら、ぼんやりと外を見つめていた。
高層マンションの最上階。
男物のシャツを一枚だけ羽織り、手には赤ワインの入ったグラス。
「はぁ……」
小さくため息をつき、視線を動かす。
その先にいるのは、この部屋の持ち主――林田蓮。
酒に酔い潰れ、ベッドで眠っている彼を見ながら、玲奈は三年前のことを思い返した。
蓮と出会ったのは合コンだった。
その場を盛り上げる役で、その日いた誰よりも騒がしかった。
顔はそんなにイケメンでもない。よくて中の上。
自己紹介では、
「好きな言葉は酒池肉林です!! バツイチです!!」
と叫び、周囲をしらけさせていた。
それなのに、なぜか目に留まった。
そして気づけば、関係が始まっていた。
玲奈は気づいていた。
蓮の左手薬指に、指輪の跡が残っていること。
お盆や年末年始には必ず連絡が取れなくなること。
会っているとき、スマホの画面をいつも伏せていること。
――この人は、バツイチなんかじゃない。
きっと、既婚者だ。
そう思いながらも、玲奈は関係を切れずにいた。
本人の口から聞くまでは。
そんな形のない何かに、ずっと縋っていた。
――少なくとも、今夜までは。
玄関から電子音が鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
ガチャ。
突然の音に、玲奈の身体が固まる。
自分の鼓動が、やけにはっきり聞こえた。
その鼓動に重なるように、玄関から足音が近づいてくる。
「蓮〜連絡取れないからきちゃったぁ」
入ってきたのは、二十代半ばほどの女だった。
――やっぱり。
蓮は既婚者だったのか。
玲奈は女を凝視した。
雨に濡れた髪。
ブランド物のバッグ。
そして手には、この家のタオル。
女が髪を拭きながらかき上げ――玲奈と目が合った。
「……誰?」
先に口を開いたのは女だった。
怪訝そうに玲奈を見ている。
玲奈はグラスに残っていたワインを飲み干した。
「それ、こっちの台詞」
長い沈黙。
やがて女が口火を切った。
「もしかしてぇ……蓮の奥さん?」
玲奈の思考が止まった。
無理もない。
既婚者ではないかと疑っていた男の部屋に突然女が現れ、その女から自分が妻なのかと尋ねられたのだから。
何か言わなきゃ――。
その瞬間、寝室から蓮が出てきた。
「玲奈どしたの? 寝てごめんねー。続きしよ……って……」
蓮はそこに立つ女に気づき、顔面から血の気を失った。
「……美月」
玲奈は笑った。
「へぇ。名前で呼ぶんだ」
美月も笑った。
「玲奈っていうんだ」
蓮だけが笑っていなかった。
「待って。説明するから」
「じゃあ説明して」
玲奈と美月の声が、綺麗に重なった。
蓮は黙った。
玲奈が先に口を開く。
「私は蓮の彼女。三年付き合ってる。あなたは?」
美月はバッグを床に置いた。
「二年半」
「半年かぶってんじゃん」
「いや、ほぼ全部かぶってるでしょ」
「確かに」
二人は顔を見合わせた。
妙な連帯感が生まれかけた――そのときだった。
また玄関が鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
ガチャ。
三人が固まる。
玲奈がゆっくり蓮を見る。
「……まだいるの?」
「いや、違――」
ドアが開いた。
今度こそ、妻だった。
「ただいま」
出張帰りらしい大きな荷物を抱えた妻――沙耶は、三人を順番に見た。
明らかに寝起きで、顔色の悪い夫。
男物のシャツ一枚の玲奈。
ずぶ濡れの美月。
沙耶は静かに荷物を置いた。
「……多くない?」
玲奈が吹き出した。
美月も耐えきれず笑った。
「笑うところじゃないだろ!」
蓮が叫ぶ。
三人の女が同時に蓮を見た。
「お前が言うな」
また綺麗に重なった。
その夜、蓮の人生で最も長い事情聴取が始まった。
妻、結婚七年目。
愛人・玲奈、三年目。
愛人・美月、二年半。
さらに蓮のスマホから、他に二人の女がいることまで発覚した。
「順番に聞くから」
沙耶はそう言うと、出張帰りの荷物を片づけ始めた。
玲奈はいたたまれなくなり、ワインを開ける。
美月も蓮の高級ウイスキーを勝手に取り出した。
そんな二人を見た沙耶は、冷蔵庫からチーズを持ってきた。
「なんのお構いもできませんけど」
そう言って差し出す。
玲奈と美月は思わず会釈をし、チーズを口に入れた。
時計は午前四時を回っていた。
沙耶が尋ねる。
「まず、シャツを着てるあなた。既婚者だって知ってたの?」
「バツイチって……聞いてました」
「あー、そう。いつ離婚届出したのかしらね。ね、玲奈さん」
玲奈の手が止まった。
自分はまだ、沙耶に名乗っていない。
それなのに名前を呼ばれた。
動揺を隠せない玲奈をよそに、沙耶は美月へ顔を向ける。
「あなたが美月さんね。美月さんは、なんて聞いてたの?」
「こんなに好きになった女は初めてで……もう妻とは離婚協議をしてるって……」
「へぇーーーー、そう。離婚協議ね」
沙耶がフフッと笑った。
「これからなのだけど」
美月が黙る。
「まぁいいわ。話も長くなりますから、とりあえず乾杯しましょう」
沙耶がグラスを掲げた。
玲奈と美月も、おそるおそるグラスを上げる。
「乾杯」
三人が無言で酒を飲む。
たまらなくなった蓮が声をかけた。
「ちょ、沙耶……今日は帰ってこないんじゃ……」
「黙って」
「はい」
午前五時。
いつの間にか空は明るくなり、雨も止んでいた。
蓮はソファの端で小さくなっている。
三人の女は、沙耶を中心に話を続けていた。
盛り上がるわけでもない。
声を荒らげるわけでもない。
ただ、淡々と。
その静けさに耐えられなくなったのか、蓮が突然立ち上がった。
そして沙耶の前で土下座する。
「沙耶ごめん!! 本当にすみません!」
沙耶は一瞬だけ蓮に目をやると、手荷物から茶封筒を取り出した。
中から数枚の紙を抜き、それぞれの前へ置いていく。
玲奈と美月の前には、調査報告書。
そして床に這いつくばっている蓮の前には――離婚届。
「私、実は半年前から知ってたの」
蓮が顔を上げる。
「……え?」
「興信所も入れてた。玲奈さんも美月さんも知ってたよ。あとの二人のこともね」
空気が変わった。
沙耶は微笑んだ。
「海外出張だから、誰か連れ込むのも分かってた。だから一日早く帰ってきたの。揃ったら話が早いでしょ?」
玲奈も美月も、そして当然、蓮も何も言えなかった。
静まり返った部屋に、時折沙耶の「フフッ」という笑い声だけが響く。
そのとき。
インターホンが鳴った。
玲奈と美月の頭に、同じ疑問が浮かんだ。
――今度はどんな女?
沙耶は急ぎ足で玄関へ向かった。
しばらくして戻ってきた沙耶の手には、大量のピザと酒。
そしてその後ろには、俯いた二人の女がいた。
「紹介するわね」
沙耶がにこやかに言う。
「蓮の愛人の百合さんと、加奈さんよ」
蓮は、もう顔を上げられなかった。
気まずそうに立つ四人の愛人と蓮をよそに、沙耶だけが話し続ける。
「腹が減っては戦はできないからね。この時間まで開いてるピザ屋さんがあってよかったわ〜。百合さんと加奈さんはお仕事終わりだから、お腹空いてるでしょう? みんなで食べましょう」
本来なら、この状況で食べ物など喉を通るはずもない。
それでも全員がピザや酒に手を伸ばした。
ただ一人。
蓮を除いて。
最初は無言で黙々と食べていた五人も、やがて他愛もない話を始めた。
二時間ほど経つ頃には、愛人四人も少しずつ緊張が解けていた。
ずっとにこやかな沙耶が何を考えているのかは、誰にも分からない。
それでも、この妙に和やかな空気に安堵し始めていた。
ピザの空箱と酒瓶が散らかり始めた頃。
沙耶がふと立ち上がり、蓮の正面へ行った。
「ねぇ蓮。あなた、昔から酒池肉林が好きって言うわよね」
「う……うん……」
「意味、分かって言ってる?」
「女の子……が……いっぱい……」
沙耶は呆れた顔をして、それから笑った。
「やっぱり」
そして、テーブルを見渡した。
空になった酒瓶。
食べ散らかされたピザ。
そして四人の女。
「違うわ。酒池肉林って、ごちそうやお酒がふんだんにある豪華な宴のことよ」
沙耶は続ける。
「ねぇ、蓮」
にっこりと笑った。
「あなたが勘違いしてた『女の子がいっぱい』と、本当の意味での酒池肉林。今ここに、どっちも揃ったわけだけど」
蓮は俯いたまま動かない。
「あなたはもう、どちらも手に入れられないわね」
沙耶だけが笑った。
やがて沙耶は立ち上がった。
「じゃあ、私は行くわ」
愛人たちが一斉に沙耶を見る。
「ちなみに、既婚と知らなかった人を責めるつもりはないから安心して。騙されてたのは私も同じだもの。証言が本当なら、ね」
そして、床に座り込んだ蓮を見る。
「責任を取らせる相手は、決まってるから」
蓮の顔がさらに青ざめた。
美月も体を強張らせた。
「あとのことは弁護士さんに全部お任せしてあります。じゃあね、皆さん」
沙耶は颯爽と部屋を出ていった。
残された愛人たちも、少し遅れて帰り支度を始める。
「あのっ」
蓮が声を発した。
四人が一斉に振り返る。
そこにあったのは、今まで蓮に向けていたものとはまるで違う、冷たい表情だった。
最初に口を開いたのは玲奈だった。
「私、気づいてた。でも信じたかった」
涙が出そうになるのを悟られまいと、玲奈は唇を噛む。
「もう会わないから」
それだけ言うと、急いでマンションを後にした。
そう間を置かず、残りの三人も動き出す。
「ふざけんなよ、バレてんじゃん」
美月。
「既婚者って知ってたら……付き合わなかったよ」
百合。
「そもそも百合とも関係あったことに驚いてる。今度は同じ店の子に手出しちゃダメだよ」
加奈。
それぞれ一言だけ残し、次々と部屋を出ていった。
誰もいなくなった部屋。
散乱した酒瓶。
ピザの空箱。
そして、離婚届。
その真ん中で、蓮だけが一人取り残されていた。
「酒池肉林……か……」
蓮は力なく笑った。
「何やってんだろうな、俺」
返事をする者は、もう誰もいなかった。
読んでいただきありがとうございます!
なろう、初投稿の作品になります。
蓮の勘違いがひっくり返る瞬間、いかがだったでしょうか。
個人的には沙耶の不敵さが大好きです。




