ならば、叶えてあげましょう
(ああ、僕はなんて不幸なんだ)
ウィリアムは自室で一人、頭を抱えていた。彼の悩みというのはもっぱら妻であるゼルレディアとの関係だ。
モンテグロ家の三男として生まれたウィリアムは、十四才のときにフィルハート侯爵家の一人娘であるゼルレディアとの婚約が決まった。家格や派閥争い、なにより『跡取りのいないフィルハート家』と『三男で爵位を継ぐことのできないウィリアム』という利害の一致による、いわゆる政略結婚である。
四年前にゼルレディアの両親が亡くなったため、ウィリアムは結婚と同時にフィルハート家の当主となった。そして、領民や使用人たちの支持を受けながら平穏無事な日常を送っている――というのが、客観的に見たウィリアムの状況だ。
しかし、ウィリアムは妻であるゼルレディアと寝室を共にしたことがない。結婚初日から拒否をされ、そのまま四年が経過してしまった。
(いったい僕のなにが不満なんだ)
一族の当主としての仕事を真面目にこなしているし、子孫を残すという責務を果たそうとしている。容姿端麗で、誰もが羨む好条件の婿だ。だというのに、ゼルレディアは頑なにウィリアムを拒み続けた。
『わたくしたちの仲は良好ですし、白い結婚でいいではありませんか?』
そう言って微笑むゼルレディアはウィリアムにとって悪魔のように意地が悪く、けれど咲き誇る大輪のバラのように美しく見えた。
(僕はお飾りの夫になるつもりはない)
なんとしてもゼルレディアと本物の夫婦になりたい。いや、ならなければいけないのだ。
二人は公の場では仲のいい夫婦に見えたし、事業や領地の状況も至って良好。しかしながら、ゼルレディアの頑なさにより、大切ななにかが欠けてしまっていた。
(このままではダメだ)
これではいつまで経ってもウィリアムの本当の願いは叶わない。
「――レグルス、例のものは準備できたのか?」
「はい、ウィリアム様」
ウィリアムは自身の補佐官であるレグルスを近くに呼び寄せた。
レグルスは一年前からウィリアムの補佐官として働いている。現在十九歳、前髪が左右できっちりと分けられた金色の髪に、丸メガネをかけた真面目で優秀かつ従順な男で、ウィリアムは彼をことのほか信頼していた。
「ご指示いただいたとおりのものを入手しました」
レグルスは言いながら小さな小瓶を二つ、ウィリアムへと手渡す。
「よくやった、レグルス。これがあれば、頑ななゼルレディアでも僕のことを受け入れるだろう」
ウィリアムはそう言ってニヤリと笑った。
「レグルス、決行は今夜だ。これをゼルレディアの食事に混ぜるように」
「二つの小瓶、全てをですか?」
「いや一つだ」
ウィリアムは小瓶を一つずつ手に取りながら、光にかざして目を細める。
「今はまだ、赤色の小瓶の中身だけでいい」
「承知しました。水色についてはいかがなさいますか?」
赤色の小瓶を受け取りつつレグルスが尋ねると、ウィリアムはフッと息をついた。
「水色についてはゼルレディアが子を産んだ後で使用する。それまではおまえが保管しておいてくれ」
「かしこまりました」
レグルスは返事をしながら、水色の小瓶を懐へとしまう。ウィリアムはその様子を満足そうに見届けると、レグルスの肩をポンと叩いた。
「それにしても、さすがはレグルスだな。あっという間に薬を入手してくれて助かったよ。この薬を作っている魔女はかなり偏屈で、表には出回っていないと聞くし、かなり苦労したんじゃないか?」
「とんでもないことでございます。私は御主人様の忠実な下僕ですから」
レグルスが恭しく頭を下げる。ウィリアムはニヤリと笑いつつ「そうだな」と返事をした。
(いよいよだ。もうじき僕の願いが叶う)
ウィリアムは窓の外を眺めながら静かに目を細める。「落ち着け」と自分に必死に言い聞かせるものの、口角はついつい上がってしまう。絶対に成功させるという強い決意を胸に、ウィリアムはグッと拳を握った。
***
そうして迎えた夕食の席のこと。ウィリアムはゼルレディアと向かい合って食事をしていた。
「あの……」
「どうしたゼルレディア?」
ゼルレディアから声をかけられ、ウィリアムはさりげない感じを装って返事をする。見れば、ゼルレディアの頬は真っ赤に染まっていた。こころなしか目も潤んでいるし息が浅い。
「申し訳ございません。あまり体調がよくないので、今夜はこれで失礼してもよろしいでしょうか?」
「それは大変だ。僕が部屋まで送ろう」
ウィリアムはそう言ってゼルレディアの元へ向かうと、彼女を強引に抱え上げた。
「ウィリアム様! わたくし自分で部屋に戻れますわ」
「遠慮をせずに。僕たちは夫婦だろう? さあ、僕にしっかりと掴まって」
ウィリアムは側に控えていたレグルスにそっと目配せをしてから食堂を出ると、まっすぐにゼルレディアの部屋へと向かう。それから、ゼルレディアのベッドに彼女を横たえ、嬉しそうに口角を上げた。
「ようやく僕を寝室に入れてくれたね」
苦しげに喘ぐゼルレディアのブラウスのボタンを緩めてやりながら、ウィリアムが言う。ゼルレディアは小さく首を横に振った。
「ウィリアム様、わたくしは……」
「なにも言わないで、全部わかっているから。苦しいだろう? 今、僕が助けてあげるからね」
ゼルレディアの黒髪をそっと撫で、ウィリアムが優しく囁く。
「僕が助けてあげるですって?」
とそのとき、ゼルレディアが顔を歪めながら小さく笑った。
「えっ? ゼルレディア? いったいどうし……」
「ふふ……ふふふっ! よくもまあ、そんなことが言えますわね」
ゼルレディアは一瞬だけ両手で顔を覆ったが、ややして堪えきれずに大きな声で笑いはじめる。まったく予想外の反応に、ウィリアムは呆然とゼルレディアを見つめた。
「ゼルレディア? あの……」
「本当に気持ちが悪い。助けるもなにも、わたくしに媚薬を盛ったのはあなた自身でしょう? いったいなにをどうしたら、助けるなんて発想になるのかしら? 本当に、あなたの脳内ってどこまでもお花畑で笑ってしまいますわ」
「なっ……!」
その瞬間、ウィリアムの顔が真っ赤に染まる。彼は悔しさと恥ずかしさのあまり、ゼルレディアからパッと顔を背けた。
(いったいどういうことだ?)
なぜ、どうしてゼルレディアはウィリアムが媚薬を盛ったことを知っているのだろう? というより、先程までとは打って変わり、今のゼルレディアは顔色も落ち着いているし、呼吸も正常。とても薬が効いているようには見えない。
ゼルレディアはベッドから降りてゆっくりと立ち上がると、ため息をつきながらポキポキと肩を鳴らす。それからゴミクズでも見るかのような瞳でウィリアムを見下ろした。
「どうしてわたくしがあなたの企みを知っているか、考えているのでしょう? かわいそうに。貧相なあなたの頭では、いくら考えてもわからないでしょうね?」
「なっ……黙れ! 大体、僕たちは夫婦だ! 男女の関係を持とうとして、なにが悪い!」
「普通の夫婦ならば、そうかもしれませんわね。けれど、女遊びが激しくどんな病気を持っているかわからないバカ男と一緒に寝ようと思う女性が、この世にどれぐらいいると思います? 少なくともわたくしはお断りですわ」
アハハ、と笑いながらゼルレディアはウィリアムをジロリと睨む。ウィリアムはウッと息を呑んだ。
「まあ、結婚後は誰彼構わず寝ることはなくなったみたいだけれど……愛人がいることには変わりがないもの。両親さえ健在であれば、わたくしはあなたとの婚約を破棄していました。あなたと結婚したのは爵位を返上せず、然るべきときまで保つためにほかなりません」
「なんだと……!? 自分勝手が過ぎるだろう!」
「それはお互い様でしょう? あなただって、今夜わたくしと関係を持とうとしたのは爵位のためじゃありませんか」
ゼルレディアがそう言ってウィリアムの顎を人差し指で掬う。「なっ!」と声を上げつつ、ウィリアムは大きく目を見開いた。
「あなたは『わたくしの血を引く息子』が欲しかったのよね? だって、息子がいなければわたくしが死んだあとにハートフィールド侯爵家を乗っ取ることができませんもの。だから、結婚から四年間、わたくしと寝ることにこだわってきた……でしょう?」
ゼルレディアの赤い瞳がウィリアムを射抜く。ウィリアムの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(どういうことだ?)
なんで、どうして自分の考えがすべてバレているのだろう?
(落ち着け)
ウィリアムは必死で自分に言い聞かせる。
ゼルレディアはきっと、当てずっぽうを言っているだけに違いない。なぜなら自分は、ずっと善良な夫を演じてきた。ただただ夫婦円満を望む人畜無害で有能な夫を。
これまで一度だって、ゼルレディアはウィリアムの本性に気づいた様子なんてなかった。だから、これ以上ボロを出してはいけない――ウィリアムは頭を必死に回転させ、ゴクリと大きくつばを飲む。
「ひどいよ、ゼルレディア! 僕はただ君のことを愛しているから、本当の夫婦になりたかっただけだ!」
「『愛している』? 心にもないことを」
「本当だよ! 本当に君を愛しているんだ!」
ボロボロと涙を流しつつ、ウィリアムがゼルレディアの足に縋り付く。ゼルレディアは鬱陶しそうに顔をしかめつつ、フンと鼻を鳴らした。
「そのためならば、わたくしの意に反して媚薬を使うことも厭わないと?」
「それについては申し訳ないと思っている。だが、そうでもしないと、君との関係がいつまで経っても変わらないと思ったんだ! 本当だよ! だからどうか……どうか僕の願いを叶えてくれないか!?」
ウィリアムが叫ぶ。それからしばらくの間、ゼルレディアはなにも言わなかった。息が詰まるような沈黙が横たわり、ウィリアムの胸がドキドキと高鳴る。
(どうだ? やったのか?)
ウィリアムがおそるおそる顔を上げる。と、ゼルレディアが満面の笑みを浮かべた。
「ならば、叶えてあげましょう」
その瞬間、ウィリアムは瞳を輝かせ、ゼルレディアの真っ赤なハイヒールに口付けた。
「ああ、ゼルレディア! 君ならわかってくれると思っていたよ」
ウィリアムは涙を流しながら喜んでみせた。けれど、心のなかでは何度もガッツポーズを浮かべてほくそ笑む。
(本当に女って生き物は愚かだ)
偽りの愛を囁けばコロッと騙されるのだから。これまでそうやって何人もの女性と関係を結んできた。ウィリアムからすれば、愛なんて言葉は息と同じレベルで吐き出せる意味のないもの。良心など一ミリも痛まない。
「ああ、ウィリアム」
ゼルレディアは微笑みながらウィリアムの側に屈んだ。彼女はウィリアムの肩をポンと叩き、それからゆっくりと頬に唇を寄せる。ウィリアムはウットリと目をつぶって、キスを受け入れる仕草をした。だが、待てど暮らせど一向に柔らかな感触が落ちてこない。怪訝に思いながら目を開けたそのとき、彼はゼルレディアではない誰かに両腕を拘束され、背中を思い切り踏みつけられた。
「ぐっ!」
顔を思い切り床に叩きつけられ、ウィリアムがうめき声を上げる。と同時に愉悦に満ちたゼルレディアの笑い声が聞こえてきて、ウィリアムの腸は怒りで煮えくり返った。
「ゼルレディア! いったいなんのつもりだ!?」
「なんのつもり? わたくしはあなたの願いを叶えてあげているのよ?」
クスクス、とゼルレディアが笑う。ウィリアムが噛み締められた歯の隙間からフーと息を吐き出した。
「僕はこんなことを望んでいない! 僕の願いは君と本当の夫婦になることだ」
「あらあら。この期に及んでそんなことを言うの? 違うでしょう? あなたの本当の願いは、わたくしの産んだ男児を礎に侯爵家を乗っ取り、愛人であるジョルジャと一緒になることでしょう? そのために毒薬まで用意しているのに、よくもそんな嘘がつけるものね」
「なっ!」
ウィリアムの心臓が早鐘を打つ。彼は先程までとは比べ物にならないほど動揺していた。
(どうしてジョルジャのことを――毒薬のことを知っているんだ!?)
これまでウィリアムは善良な人間を演じてきた。それはゼルレディアに対してだけでなく、領民や使用人たちにも同様だ。決してバレないよう、見せないようにしてきた。唯一絶対的に信頼をおいていた補佐官――レグルス以外には。
「レグルス! レグルスはどこだ!」
「ここにおりますが、なにか?」
ウィリアムが叫ぶと、すぐに背後から返事が返ってきた。先程から自分を無慈悲に踏みつけている人間が、ウィリアムの忠実な下僕――いや、忠実な下僕だと信じてきた男だと知り、ウィリアムは鈍器で頭を殴られたような気分を味わう。
(嘘だろう?)
レグルスは従順だった。ウィリアムの言うことはすべて肯定してくれたし、行動で応えてくれていた。だからこそ、心の底から信頼してすべてを任せてきたというのに……。
「おまっ……おまえは! 自分が誰に、なにをしているかわかっているのか!?」
「もちろん。私は『御主人様』の忠実な下僕ですから」
「なっ! おまえの主人は僕だろう!?」
「あなたが? ……御主人様のおっしゃるとおり、本当に脳内がお花畑でいらっしゃいますね」
レグルスはそう言って恍惚の表情でゼルレディアを見つめる。ウィリアムは開いた口が塞がらなかった。
「ウィリアム様の悪事はすべて、私が把握しております。指示された日時も、内容も、今後の計画も、すべてを魔法石で記録してきました。こちらを然るべき機関へ提出すれば、ウィリアム様がどれだけ拒否されても、ゼルレディア様との離婚が成立します」
「そっ……!」
「あら素敵! よかったわね、ウィリアム。離婚が成立すれば大手を振ってジョルジャと一緒になれるじゃない?」
困惑を隠せないウィリアムに、ゼルレディアがニコニコと微笑みかける。
「そんな……! そんなバカな話があるかっ! 大体、こんな形で願いがかなったところで僕は……!」
「そのことなのですが、実は先程、とある男爵家で殺傷事件が起こったそうで」
レグルスが言う。ウィリアムは「殺傷事件?」と首をひねった。
「それがなんだと……」
「妻に不倫相手がいると知った男爵が、怒りのあまり彼女を刺し殺してしまったらしいのです。妻の名前は『ジョルジャ』というそうで――」
「えっ……」
ウィリアムの顔から一気に血の気が引く。彼は背中を押さえつけられたまま、ワナワナとその場に崩れ落ちた。
「ウィリアム様から逢引の手引をするよう命じられた御婦人の名前と同じでございますね」
レグルスが返事を促すも、ウィリアムは返す言葉が見つからない。彼はややして狂ったように笑い声を上げ、それから大粒の涙を流した。
***
それから数カ月の時が経った。
ウィリアムはすぐに王都へ送還され、罰を受けることが決まった。愛人を失ったためか、はたまた言い逃れをしたところで意味をなさないことを悟ったのか、すべてを認めて大人しくしているらしい。
(まあ、あの人のことなんてどうでもいいわ)
無事に離婚が成立して、目の前から消えてくれただけで十分だとゼルレディアは思う。もっとも、ジョルジャの夫が彼女を刺し殺してしまったのは想定外だったし気の毒に思うが、遅かれ早かれという話だったのだろう。もしもゼルレディアがウィリアムに殺されていたら、ウィリアムはジョルジャを妻に迎える気でいたのだから……。
「ゼルレディア様」
と、向かいの席から声がかかる。ゼルレディアが顔を上げると、レグルスが自分をまっすぐに見つめていた。
トレードマークだった魔法石で作られた丸メガネを外し、きっちり分けられていた金髪から解放されたレグルスは、色男として有名だったウィリアムよりも数段美しく、洗練された雰囲気をまとっている。
ウィリアムがいなくなってからも、侯爵領はなんら問題なく回っていた。というのも、ウィリアムが浮気に勤しんでいる間、レグルスが彼の仕事の大半を片付けていたからだ。元々、ゼルレディアが領主の仕事のほとんどをウィリアムから取り上げていたこともあり、彼がいなくなったあとの方がスムーズにことが運ぶようになったほどである。
「なにかしら、レグルス?」
「そろそろ、私の願いを叶えていただけませんか?」
レグルスはそう言って、真剣な表情でゼルレディアを見つめた。
彼は元々フィルハート侯爵家の分家筋にあたる子爵家の跡取り息子で、本家との関係を深めるため――そして、彼自身の願いを叶えるために補佐官として働きはじめた。幼い頃からゼルレディアに心酔していたレグルスはウィリアムに取り入って信頼を勝ち取ると、二人の離婚を実現するために暗躍。見事、円満離婚のために一役買ってくれたのである。
「あら、願いごとがあるの? どんな願いごとかしら?」
ゼルレディアは「ちっともわからないわ」と目を細める。すると、レグルスは拗ねたように唇を尖らせつつ、ゼルレディアの頬に手を伸ばした。
「――意地悪ですね。ゼルレディア様はとても、とても意地悪です」
「そうかしら? でも、そうね……わたくしもそろそろ再婚をしないと、猶予期間が終わって爵位を返上するよう求められてしまうし、レグルスが夫になってくれるとちょうどいいのだけど」
ニコリ、とゼルレディアが微笑む。レグルスは一瞬だけ目を見開き、やがて困ったように笑いながらゼルレディアの手を握る。それから、手のひらに熱っぽく口付けた。
「ゼルレディア様の夫の座は当然私がいただきます。けれど、私の願いはそんなことではありません」
「あら。それじゃあ、あなたはなにを望むの?」
「私はなにより、あなたの愛が欲しいのです」
レグルスが言う。それはあの日ウィリアムが吐いた偽りの愛とはまるで違い、確かな熱を孕んでいて――。
「ならば、叶えてあげましょう」




