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勝負            :約4000文字 :ホラー

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/03/16

 昼下がりの道を、一人の男が歩いていた。

 足取りはどこか頼りなく、額には玉のような汗が滲んでいる。苦虫を噛み潰したような表情で、落ち着きなく目をきょろきょろと動かしては、何度目かわからないため息をついた。

 中学時代の恩師から久しぶりに連絡があり、自宅に招かれたのだが道に迷ってしまったのだ。

 地元とはいえ、ここで暮らしていたのは数十年も前の話。実家は隣町へ引っ越したため、この町に足を運ぶ機会はなかった。駅前はすっかり再開発され、見知った店の面影はほとんどない。見慣れない店やマンションが建ち並び、町並みはどこかよそよそしく感じられた。

 それにそもそも、この辺りは当時からあまり来ることのなかった区域だった。

 男は立ち止まり、スマホの画面を睨みつけた。地図アプリには確かに道が表示されている。だがその線と、目の前の現実の道がどうも噛み合わない。曲がるべき角を通り過ぎたのか。それともこの先なのか。あっちでもない、こっちでもないと男は首を捻りながら歩き続けた。

 空を見上げ、懐かしさに突き動かされて軽い気持ちで訪れたことを悔やんだ――そのときだった。

 不意に前方から、小さな影が勢いよく飛び出してきた。

 男は思わず「うおっ」と声を上げ、半歩ほど仰け反った。

 曲がり角の向こうから現れたのは、少年だった。少年は男の目の前で、びたっと急停止した。小さなつむじが見えている。


 危ないなあ……だが、ちょうどいい。道を聞いてみるか。

 男はそう思い、できるだけ穏やかな笑みを作った。


「あの、ぼく。ちょっと道を聞きたいんだけど――」


「勝負しようよ、勝負!」


 少年はぱっと顔を上げるなり、体を前後にぴょんぴょん揺らしながら弾む声で言った。目が爛々と輝いている。


「え、勝負?」


「うん、じゃんけんね! 最初はグー、じゃんけん――」


「いや、道を――」


「ポン!」


「あっ……おー」


 反射的に男はグーを出していた。少年はチョキ。掛け声につられただけで勝負する気などまったくなかったが、勝ったことはそれはそれでうれしい。胸の奥がほんの少しだけくすぐったくなった。

 もちろん勝ち負けなどどうでもいい。だが、道を聞くきっかけにはちょうどいい。勝ったことだし、素直に力になってくれるだろう。

 男はそう思い、頬を緩めた。


「ちえっ! 負けかー!」


「ああ、それで道を――あっ! ちょっと」


 スマホの地図を見せようとしたその瞬間。少年は弾かれたように駆け出し、男の横を通り過ぎた。男は振り返り手を伸ばしたものの、あっという間に小さな背中は遠ざかり、曲がり角の向こうへと消えた。


 なんなんだ、まったく……。まあ、おれもあれくらいの年の頃は勝負事が好きだったから、気持ちはわからなくもないが……。

 男は小さくため息をつき、とりあえず歩き出した。


「ねえ、勝負しようよ、勝負!」


「うおっ、また君か……」


 二つ角を曲がったときだった。少年が頭をぐっと前へ突き出すようにして現れた。


「向こうの角まで競争ね! 位置について、よーい……」


「いや、ちょっと――」


「ドン!」


 号令と同時に少年は弾丸のように走り出した。男も思わず反射で足を踏み出す。

 一瞬、膝と腰がきしりと嫌な音を立てたが、相手は所詮子供。すぐにその小さな背中に追いついた。だが――


「あっ!」


 足がもつれた。男は前のめりに転びかけ、咄嗟に手を伸ばした。そして、その手が少年の肩をがしっと掴んでしまった。

 次の瞬間、少年の体がぐらりと揺れ、そのまま地面へ崩れ落ちた。

 男は慌てて少年の前へ回り込んだ。


「いってー……」


 少年は呟きながら起き上がった。膝には青あざが浮かび、擦り剥いた皮膚からじゅくりと血が滲んでいる。顔も打ったらしく、細い鼻血がつうっと垂れていた。


「い、いや、君が急に走り出すから……その、大丈夫かい?」


 男は腰を屈め、できるだけ優しい声で言った。


「負けかー……」


「え? ああ……」


 言われて振り返ると、男の体はゴールの曲がり角を越えていた。

 少年はひょこひょこと数歩歩いたかと思うと、再び駆け出していった。


 また出くわすとは驚いたな……。先回りしてきたのだろうが、とんでもない負けず嫌いだ。土地勘はあるようだが、もう道を聞くどころじゃない、怪我をさせてしまった。これは早いところ先生の自宅を見つけないと、親でも連れて来られたら厄介だ。

 男はそう考え、足早に歩き出した。


「ねえ、勝負しようよ、勝負!」


「うあ!」


「相撲ね! はっきょーい、のこった!」


 二つ角を曲がった途端、また少年が現れた。有無を言わせる間もなく腰を落とし、男の腹へ勢いよくぶつかってきた。


「や、やめなさい! あっ――」


 男は慌てて少年の両腕を掴み、引き剥がそうとした。だがその瞬間、男の顔がぎくりと引きつった。

 柔らかく、それでいて骨ばった二の腕の感触――その腕が、手の中でぐにゃりと不自然に波打ったように感じられたのだ。

 男は思わず手を離した。だが、その反動で少年は後ろへ弾かれ、仰向けに倒れ込んだ。

 ゴンッと鈍い音がした。

 後頭部を地面にぶつけたように見え、男は慌てて駆け寄った。


「だ、大丈夫――」


「負けかあ!」


 少年は仰向けのまま空に向かって叫んだ。男はびくりとして身を引いた。

 少年はむくりと起き上がると、体についた砂利を払うこともせず、無言のままくるりと背を向けた。そして何事もなかったかのように、また駆け出していった。

 その背中を呆然と見送りながら、男は背筋にぞわりと怖気を感じていた。


 なんなんだ、あの子……。さっき、確かに骨が……。


 男は自分の手をじっと見つめた。指先に残る奇妙な感触。その気味の悪さを振り払うように近くの家の塀に手を擦りつけると、男は深く息を吐き、再び歩き出した。しかし――


「勝負しよ! チャンバラね!」


 二つ角を曲がった先で、また少年が現れた。両手にくしゃりと潰れた新聞紙を握り、そのうちの一つを男に突き出してきた。 


「あのね、君。悪いけど――」 


 男は受け取ろうとせず、諭すように言葉を続けようとした。そのときだった。

 足元でガシャ、と硬い音が鳴った。

 視線を落とすと、地面に落ちた新聞紙の隙間から鈍く光る何かが覗いていた。


「それじゃあ、はじめ!」


 男が顔を上げたその瞬間だった。手のひらに、鋭く焼けるような痛みが走った。


「――っ!」


 男は反射的に手を引っ込めた。裂けた皮膚からとろりと血が滲み出し、手首を伝ってぽたっと地面に落ちた。


 ――包丁だ。


 少年はトウモロコシの皮を剥くように新聞紙を放り捨て、握りしめた包丁――その切っ先を男に向けていた。目は異様に大きく見開かれ、口角は不自然なほど吊り上がっている。


「いくよ! えい! それ!」


「や、やめなさい! やめろ!」


 男は少年の手首を掴み、押さえ込もうとした。だがその腕は、まるで暴れるホースのようにグニャグニャとしなり、刃先が予測不能な軌道を描く。刃が鼻先を掠め、男は慌てて顔を背けた。


「それ! やあ!」


「やめろ! あっ――」


 揉み合ううちに包丁の切っ先は宙を滑った。そして――そのまま少年の喉元へ向かった。

 ずぐっ。鈍い感触が少年の腕を通して伝わった。


「ち、違うんだ……! だって君が――」


「負けかあああああああ!」


 少年は喉に包丁を突き立てたまま叫んだ。喉の奥でごぼごぼと濁った音が鳴り、細かな血飛沫が空中に散る。赤い粒が男の頬まで飛んできた。少年の歯は赤く、ぎらぎらときらめいていた。

 男が後ずさると、少年はにかっと笑い、そのまま踵を返して駆け出していった。

 男は少しの間呆然と立ち尽くし、はっとしたように身体を震わせると、踵を返して反対方向へ走り出した。

 い、いかれてる……! なんだ、なんなんだ。早く先生の家を、いや、もうどうでもいい、駅へ――


「ねえ、勝負しよう! ――ね」


「ああああ!」


 背後から声がかかった。男は振り返らず、ただ必死に走り続けた。

 体は古びた人形のようにギシギシと軋み、胸は締めつけられ、喉は焼けつくように痛む。それでも足を止めなかった。背後から軽快な足音が迫ってきていた。ケタケタケタと笑うような弾んだ足音が。

 そして曲がり角に差しかかった、そのときだった。

 背中をドン、と強く押された。


 次の瞬間、鈍い衝撃と重い音が全身を貫いた。

 視界がぐらりと傾き、世界そのものがひっくり返る。空と地面が入れ替わり、視界の端に灰色の道路が流れていった。

 地面に倒れた男は、ぼんやりとした意識の中で車のバンパーを見上げていた。

 耳鳴りがひどく、音がこもっている。運転手だろうか、狼狽した声が聞こえた。

 そこへ軽い足音が近づいてきた。


「すごいや、おじさん! 車とぶつかるなんて! ギリギリレース、おじさんの勝ちだね!」


 ――ギリギリレース……? ああ……どれだけ車の手前で止まれるかってやつか……。昔やってたな……あれ……そういえば……こいつ……。


「でも、やっぱりおじさんの負けだね」


 少年の顔が視界に入り込んできた。

 影のせいか、その肌は青黒く、ところどころに痣のようなものが浮かんでいるように見える。ただ、口元が大きく歪んでいるのは確かだった。


「だって死んだら負けなんでしょ? そう言ってたもんね。僕の勝ちー! あはは、あははははははははは!」


 甲高い笑い声が耳の奥で響き続ける中、男の意識は遠い子供時代の記憶へと溶け込み、そのまま静かな闇の底へ沈んでいった。

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