008 秘密作戦・参
加賀瀬善嗣が意識を取り戻してから、さらに三日が経過していた。アルカディアからの落下から数えれば、既に十日が過ぎている。
カワチの東地区。かつて工場地帯だったその場所は、今や崩れかけた廃墟と不法投棄されたゴミの山が連なる、地図からも見放されたエリアだ。その荒れ果てたコンクリートの地面を、不快なノイズが削り取っていく。
ズズズ……ガリガリガリ……。
それは、重質量物が無理やり引きずられる音だった。
音の主は、身長200センチを超える巨漢だ。綺麗に編み込まれたコーンロウの頭に、はち切れんばかりの筋肉を包む白の制服。だが、その背後には、常軌を逸した「凶器」が従っていた。直径三〇センチにも及ぶ、巨大な鉄球だ。長さ一〇メートルほどの鎖で繋がれたその鉄塊を、男はまるでペットの散歩でもするかのように、片手で引きずりながら歩いていた。
「あァ……かったりィ。おい錬暖、この地区が最後だけど本当にいるんだろうな、そのカガセなんとかっつう無能の転移人はよ」
男――漠頭が、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「ここ三日、あっちこっち歩き回ってよォ。オレの足は棒になりそうだぜ?」
「静かにしろ、漠頭。文句を言う暇があるならお前も警戒しながら、周囲をしっかり見ろ」
前を歩く錬暖は、額に青筋を浮かべながら振り返らずに言った。
この三日間、彼らはカワチ中のスラムをしらみつぶしに捜索してきた。だが、加賀瀬の痕跡は煙のように見つからない。徒労と疲労、そして背後にいる猛獣への恐怖で、錬暖の神経は限界まで張り詰めていた。
「警戒だぁ? 必要ねえだろ、そんなもん」
漠頭は鼻を鳴らし、鎖をジャラリと鳴らした。
「邪魔な奴がいりゃあ、この鉄球でミンチにするだけだ。……なあ、オマエもそう思うだろ?」
漠頭が威圧的な視線を向ける。その瞳に理性的な光はない。あるのは、他者の痛みを渇望するサディスティックな欲望だけだ。
彼は元々、この世界の住人ではない。かつてのアメリカ合衆国で強盗殺人を犯し、収監されていた凶悪犯だ。刑務所ごと異世界へ転移し、その暴力性をアルカディアに買われて「飼われている」に過ぎない。
「……貴様の『殺意執着』があれば、見つけ次第逃がしはしないだろうな」
錬暖は努めて冷静な声を出し、話題を逸らした。
「だが、見つけるまでは大人しくしていてもらわないと困る。ここは特に治安が悪い」
「市民の安全を守るのが俺たちアルカディアの使命だろ?」
漠頭は不快そうに唾を吐いた。
「市民の安全を脅かす馬鹿どもと、偉そうな口垂れるアホの上司は、とりあえずぶっ殺せばいいわけよ」
その殺意は、明らかに錬暖へも向けられていた。錬暖は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、タブレット端末に視線を落とした。
楼門から送られた資料の一部が、この先の廃工場と複数の住宅を示している。数名の市民がこのあたりに住居を構えているという。
「……この先だ」
「へェ」
漠頭が足を止める。引きずられていた鉄球が、ズンッという重い音と共に停止した。
彼らは廃工場が立ち並ぶ区画にたどり着き、その手前に位置する小さくボロボロの一軒家を目にした。
漠頭は不敵な笑みを浮かべぼそっと呟いた。
「とりあえず家ごとぶっ壊してもいいかー?」
その時、路地の影から数人の男たちが現れた。このエリアを根城にするチンピラたちだ。見慣れぬ制服姿の二人に、敵意を剥き出しにして近づいてくる。
「おい、ここは俺たちのシマだぞ。何しに来やがった」
ナイフや鉄パイプを手にした男たちが、二人を取り囲む。
「……邪魔だ、下がれ」
錬暖が警告するが、男たちは聞く耳を持たない。
「金目のもん置いてとっとと消えな!」
一人の男が、威嚇のために鉄パイプを振り上げた。
瞬間――ブォンッ!! 風を切り裂く轟音が、路地裏に響き渡った。
「――ガッ!?」
悲鳴を上げる間もなかった。
チンピラの男の上半身が、弾け飛んでいた。血飛沫と肉片が、雨のように降り注ぐ。その中心で、漠頭が鎖をたぐり寄せていた。
彼が軽く振るっただけの鉄球が、男を文字通り「粉砕」したのだ。
「ひッ……!?」
残されたチンピラたちが、腰を抜かして後ずさる。その顔に、鮮血を浴びた漠頭が近づいた。彼の顔は愉悦に歪んでいる。
「オレからは絶対に逃げられないぜ?」
漠頭は血に濡れた鉄球を、愛おしそうに撫でた。
「さあ、ウォーミングアップだ。オメェら全員、この鉄の塊の餌食にしてやるよ」
「ま、待て漠頭! 今は騒ぎを起こすなと――」
「うるせえなァ、オマエも潰されたいのか?」
ギロリと睨まれ、錬暖は言葉を詰まらせた。もう止められない。スイッチが入ってしまった。
悲鳴と、骨が砕ける音が響き渡る。その惨劇を背に、錬暖は頭を抱えた。
(……最悪だ)
血の雨が止むと、路地裏には不気味な静寂が戻った。肉塊と化したチンピラたちの残骸を、錬暖は汚いものを見る目で一瞥し、深いため息をついた。
「あーあ……派手にやりましたねぇっ……!。これじゃあ『極秘』が台無しだ!」
「うるせェな。ゴミ掃除してやったんだ、感謝しろよ」
漠頭は返り血で赤く染まった顔を拭おうともせず、ニヤニヤと笑っている。
「それより、あの家どうだ? 怪しさプンプンだが?」
「まずはその血だらけの顔を拭け」
二人の目の前には、廃工場群の手前にへばりつくように建つ、今にも崩れそうな小さな平屋の一軒家があった。トタンと廃材で補修されたその家は、スラムの風景に溶け込んでいる。
錬暖は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、そのボロボロの玄関扉へと歩み寄った。
「……少し黙っていてくださいよ。仕事を明確にしますから」
彼は衣服の乱れを整え、張り付けたような営業スマイルを作ると、塗装の剥げた木製の扉をコンコンとノックした。返事はない。だが、内側で息を殺している気配がする。錬暖は構わず、建て付けの悪い扉をギィ……と押し開けた。
「どうもこんにちは。お昼にすみませんね~、私、アルカディア・カワチ支部の錬暖と申します」
薄暗い玄関の奥から、殺気立った老人の声が飛んできた。
「何の用だ、アルカディアの犬が」
現れたのは、油汚れの作業着を着た老人――ドーモスだ。その手にはしっかりと散弾銃が握られ、銃口は迷いなく錬暖の眉間に向けられている。
「おや、物騒ですねぇ。犬とは失礼な。我々は市民の安全を守る公僕ですよ」
錬暖は両手を軽く挙げて無抵抗を示しながら、部屋の奥を覗き込もうとした。だが、ドーモスが立ちはだかり、視線を遮る。
「単刀直入に伺います。ここに怪我をした男が逃げ込んでいませんか? 黒い学生服を着た、目つきの悪い子供なんですが」
「知らんな」
ドーモスは即答した。
「ここには俺と孫しかいない。見ての通りだ」
「ほう? 本当に?」
「ああ。それに、仮にいたとしても貴様らに渡すつもりはない」
ドーモスは憎々しげに吐き捨て、ポンプアクションの音を響かせた。
「俺はな、お前ら『転移人』が大嫌いなんだ。とっとと消えろ。でなければ、その薄っぺらい眼鏡ごと顔面を吹き飛ばすぞ」
明確な拒絶。これ以上踏み込めば発砲するという意志が見て取れる。
錬暖は「やれやれ」といった様子で肩をすくめた。
「そうですか。いやぁ、参ったな。頑固な年寄りは苦手なんですよ。話が通じなくて疲れる」
錬暖は愛想笑いを浮かべたまま、後ずさりした。
「わかりました、わかりましたよ。撃たれては敵いませんからね。すみませんでした」
パタン、と扉を閉める。錬暖と漠頭は、ボロボロの一軒家の前に戻った。
「オイ、いいのかよ」
漠頭が不満げに鼻を鳴らす。
「あんなジジイ、俺が銃ごと叩き潰して、それから家の中調べりゃいいだろうが」
「野蛮ですねぇ。罪のない市民を殺害しては、始末書を書くのが面倒でしょう」
錬暖はそう言いながら、眼鏡の位置を直すフリをして、扉に背を預けるように立った。 壁一枚隔てた向こう側。距離にしてわずか数メートル。
「それに……確認なら、ここからでもできますから」
錬暖の細められた瞳が、一瞬だけ怪しく黄色に発光した。
能力『全方解視』。 彼を中心とした半径5メートル圏内の物質が、ガラス細工のように透き通る。
薄いトタンの壁も、積み上げられたガラクタも、彼の視界を遮ることはできない。
視界がクリアになる。銃を構えたまま扉を警戒するドーモス。その足元で震える少女ナラン。
そして――
(……いましたね)
奥の部屋の隅――小さく丸まった熱源反応がある。心拍数は安定しているが、全身にダメージを負っている「三人目」の人間。
間違いなくターゲット、加賀瀬善嗣だ。
確証を得た錬暖は、スッと能力を解除した。そして、先ほどまでの営業スマイルを消し去り、能面のような冷徹な表情で漠頭を見上げた。
「……漠頭、ようやくこの仕事ともおさらばですよ」
「あァ? どういうことだ」
「中にいますよ。ネズミが一匹」
その言葉に、漠頭の顔が瞬時に愉悦へと歪んだ。
「ヒャハッ! マジかよ! じゃあやっていいんだな!?」
「ええ。交渉決裂です」
錬暖は吐き捨てると、あまりに事務的で、残酷な座標指定を口にした。




