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007 秘密作戦・弐

 時は遡ること、三日前。


 天空の要塞アルカディアのちょうど真下に位置するのは、富裕層と貧困層が地理的にも極端に分断された都市カワチだ。その中心部に聳え立つ、白亜の尖塔。周辺のスラム街とは一線を画すその清潔な建造物は、天空の要塞アルカディアの出先機関――「アルカディア・カワチ支部」である。


 オフィス内には、緩慢な空気が漂っていた。入り口近くに設けられた窓口カウンターでは、二人の女性職員が手持ち無沙汰にモニター画面を眺めている。その奥には複数の事務机が整然と並び、さらにフロア全体を見渡せる最後方――「支部長代理」のプレートが置かれたデスクに、錬暖(れんだん)はいた。


 三十代半ば。白の制服を着崩し、細いフレームの眼鏡の奥にある瞳は、万年寝不足のような気だるげな色を帯びている。


 彼は深々と椅子に背を預け、気だるそうにタブレット端末をスワイプしていた。画面に映る資料は右から左へと流れていくだけで、内容など頭に入っていない。平和な支部だ。平和すぎて欠伸が出そうになる。


「おはようございます」


 不意に、出入り口からよく通る声が響いた。


 その瞬間、フロアの空気が凍りついたように変わる。窓口の職員、そして事務作業をしていた他の職員たちが、まるでバネ仕掛けのように一斉に起立し、直立不動で頭を下げたのだ。


(……なんだ?)


 錬暖は億劫そうに顔を上げ、視線だけを出入り口へと向けた。

 そこには、純白の制服を着こなした長身の男が立っていた。


(げっ……)


 錬暖の背筋に冷たいものが走る。眠気など瞬時に吹き飛んだ。


 そこに立っていたのは、本部の管理部長――楼門(ろうもん)だったからだ。


 錬暖は慌てて椅子を蹴るように立ち上がり、作り笑顔を張り付けながら早足で歩み寄った。


「こ、これは楼門部長! 突然のご来訪で驚きました。ようこそカワチ支部へ」


 内心の動揺をひた隠し、最大限の恭しさで頭を下げる。


 楼門は柔和な笑みを浮かべているが、その瞳の奥は笑っていないように見えた。


「急にすみませんね」


「いえ、滅相もございません! ……して、本日はどのようなご用件で?」


「支部長に会いたいんですが、今日はいらっしゃいますか?」


 楼門がフロアを見渡しながら問う。錬暖は申し訳なさそうに眉を下げた。


「あー……それが生憎、支部長は昨日からセッツの方へ出張研修に出向いておりまして」


「なるほど研修でしたか」


 楼門はわずかに顎に手をやり、思案する素振りを見せた。


「すぐに連絡を取りましょうか?」


「いえ、大丈夫です。もとより錬暖さんにお会いするつもりでしたので」


 楼門は視線を錬暖に戻すと、声をひそめるように一歩近づいた。


「錬暖さん、貴方に内密の相談があります」


「……は?」


 思いがけない言葉に、錬暖は間の抜けた声を漏らした。だが、すぐに楼門の纏う空気が「業務連絡」のそれではないことを察知する。


「……承知いたしました。では、こちらの会議室へ」


 錬暖は手のひらで奥の個室を示し、楼門を案内した。背中に突き刺さる部下たちの視線が、やけに痛く感じられた。



***



「いやしかし、数十年ぶりに聞く単語ですね――NULLヌルとは」


 錬暖は額に滲んだ冷や汗をハンカチで拭いながら、上擦った声で同意した。


 会議室の防音扉は閉ざされ、ブラインドも下ろされている。だが、錬暖は直立不動の姿勢を崩そうとはしなかった。目の前に座る男が、リラックスしていいと言わない限り、彼にとって椅子はただの飾りでしかない。


「都市伝説、あるいは過去の遺物……。我々の世代では、新人研修の歴史講義で居眠りしている間に通り過ぎるような単語です」


「だが、実在します。これで二人目ですが」


 楼門は出された茶には口をつけず、懐から取り出した小型の記録媒体をテーブルの上の端末にかざした。


 空中にホログラムウィンドウが展開される。そこに映し出されたのは、一人の少年の姿だった。黒い詰襟の学生服。ポケットに手を突っ込み、こちらを威嚇するような鋭い三白眼。


「こ、こいつが……その『NULL』ですか?」


 錬暖は眼鏡の位置を直しながら、恐る恐るモニターを覗き込む。


「見たところ、ただの素行の悪そうな子供ですが……」


「名前は加賀瀬善嗣。今回の『召喚』で招かれた転移者の一人ですよ」


 楼門は氷のように冷ややかな瞳で、空中の映像を睨み据えた。


「アンティキティラが『(ヌル)』と断じた存在です」


「さ、左様でございますか。まさかそのようなイレギュラーが紛れ込んでいようとは……」


 錬暖は何度も頷き、同意を示す。楼門の言葉は絶対だ。そこに疑念を挟む余地などない。


「問題はここからです。三日前、彼は我々の管理下から逃亡し――高度数千メートルのアルカディア本部から落下しました」


「は?」


 錬暖の口から、間の抜けた声が漏れた。慌てて口元を押さえ、居住まいを正す。


「し、失礼しました! ら、落下とは……本部から地上へ?」


「ええ。常識で考えれば即死でしょう。ですが、遺体が見つからないのです。落下予測地点であるカワチの瓦礫区画をドローンで走査しましたが、肉片一つ落ちていない」


「そ、それは……つまり……」


「生きている可能性がある。なんなら、彼を匿う協力者がいる気がしてなりません」


「……と、仰いますと?」


「血肉一つ残っていないのです。血痕や、彼のDNAさえも、何一つ。落下予測地点から半径十数キロ圏内あらゆる廃墟や住宅地を調べましたが、彼に関係する反応は一切なかった……。真っ白すぎて、逆に怪しい」


 楼門は音もなく立ち上がると、錬暖の目の前まで歩み寄った。それだけの動作で、錬暖の心臓が早鐘を打つ。威圧感が、肌を刺すように迫ってくる。


「錬暖さん。貴方の管轄であるカワチに、この『異物』が紛れ込んでいる恐れがある。もし生きていれば、我々の管理体制にとって看過できないリスクとなる」


「は、はいっ! 仰る通りです!」


「そこで、貴方に頼みたい。公式には動けません。本部としては、今回の一件、極秘作戦として計画実行することになりました。NULLの存在も、管理不届きによる脱走も、市民はおろか、その他のアルカディア職員にすら知られてはならない」


 楼門は白手袋に包まれた手を、錬暖の肩に置いた。


 錬暖の身体がビクリと跳ねる。まるで死刑執行人の手に触れられたかのように、顔色が蒼白に変わる。


「た、頼むなどと滅相もございません! 命令とあらば、この錬暖、粉骨砕身の覚悟で挑ませていただきます!」


「よかった。貴方ならそう言ってくれると思っていましたよ」


 楼門は満足げに微笑み、肩の手を離した。その笑顔の裏にある絶対的な冷徹さを、錬暖は誰よりも理解していた。逆らえばどうなるか。無能の烙印を押されればどうなるか。


「貴方の力が捜索に特化した能力であり、かつカワチの支部長代理という立場にあるのは不幸中の幸いでした。現場仕事は久しぶりですかね? その鼻が、まだ錆びついていないと信じていますよ」


「は……はいっ! 過分なお言葉、恐縮です!」


 錬暖は最敬礼の角度で頭を下げた。冷や汗が床に落ちる。


「ですが――」


 楼門の声色がやや冷たくなったのを、錬暖はいやでも感じた。


「貴方おひとりでは、いざ争いが起きた時に少々頼りないのも事実」


「……え、えぇ、まあ、私の力は戦闘向きではなく、どちらかというと後方支援向きですので……」


「そこで妙案です。漠頭(ばくとう)さんをこの極秘任務につけてください」


「なっ!?」


 錬暖は思わず顔を上げ、絶句した。耳を疑うとはこのことだ。


「なにか問題でも?」


「お、恐れながら楼門部長、漠頭は先日懲罰委員会を受けたばかりで今は謹慎中の身であります。か、彼の素行の悪さは重々承知でしょう!? 日頃の勤務態度、過度な暴力、市民からももちろんですが、我々カワチ支部の職員からも彼の扱いには困っていたのです!」


 錬暖は必死だった。あの制御不能な暴れ馬を野に放てばどうなるか。


「ええ、もちろん承知してますよ」


「でしたらご理解してほしい! 漠頭をこの任務につけるのはハイリスクです! まして、あのような男に、極秘任務を極秘に遂行できる知性はありません! 即座に他人にばらして、本部の崇高な計画もパーになってしまいますよ!」


 唾を飛ばす勢いでまくし立てる錬暖に対し、楼門は涼しい顔で頷いた。


「それも重々承知してます」


「なっ……」


 言葉を失う錬暖に、楼門は淡々と告げる。


「あくまでも、彼をこの任務に採用するのは――加賀瀬善嗣が何らかの戦闘能力を持ち合わせているか、あるいは彼に協力する何者かが魔那の使い手だった場合、対抗手段が必要だからですよ」


「ええ! ええ、仰っていることはわかってお――」


「任務が終わり次第、漠頭さんには消えてもらいますのでご安心を」


 時が止まったような静寂が、会議室を支配した。


「っ……!」


 錬暖は息を呑んだ。背筋を這い上がる悪寒は、先ほどまでの比ではなかった。


「要するに、使い捨ての駒として、彼を任務につけるんです。非常に残酷ですが、漠頭さんの度重なる勤務中の不祥事を、我々管理部も黙って見過ごすわけにはいきません。懲罰委員会を開いたのはあくまで建前です」


「建前、といいますと……?」


 震える声で問う。


「ここだけの話ですが、監察室はこういう筋書きを書いていました。懲罰委員会後、自身の度重なる不道徳な行いに今更ながら罪悪感を抱き、それに耐えきれず自害した――と」


「……自殺と見せかけた、監察室の抹消ということですね」


「その通り。ですが、今回の一件は実にタイミングが良かったんです。馬鹿と鋏は使いよう、ということです」


「…………そ、それでしたら」


 そこまでお膳立てされているのなら、錬暖に拒否権などない。いや、むしろ厄介払いができるならば好都合とさえ言える。


「ご理解いただけたみたいでよかったです」


 楼門は聖人のような笑顔を見せた。


「吉報をお待ちしています。見つけ次第、確保を。抵抗するようなら――半殺しぐらいなら構いませんから。詳しい資料は後程お送りいたしますので、よろしくお願いしますね」


 楼門は美しい所作で一礼すると、足音を立てずに会議室を後にした。


 パタン、と扉が閉まる。


 その瞬間、張り詰めていた糸が切れ、錬暖はその場に崩れ落ちるように膝をついた。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 荒い呼吸を繰り返し、震える手で眼鏡を外して汗を拭う。

 心臓が痛い。寿命が縮んだ気分だ。錬暖はおもむろに顔を上げ、ホログラムに浮かぶ加賀瀬の顔を睨みつけた。


「……勘弁してくれよ」


 先ほどまでの恭順な態度は消え失せ、そこには恐怖と焦燥に駆られた男の顔があった。失敗は許されない。あの楼門に睨まれれば、自分の首など物理的に飛びかねないのだから。


「やるしかねぇ……やるしかねぇぞ……」


 錬暖は己を鼓舞するように呟くと、震える手で端末を握りしめた。

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