006 秘密作戦・壱
意識の浮上は、泥沼の底から気泡が昇るように緩慢だった。
最初に感じたのは、鼻孔を突く強烈な消毒液の臭いと、錆びた鉄の香り。次いで、全身を万力で締め上げられたような鈍い痛みが、神経を逆撫でするように走り抜けた。
「……っ、ぐ……」
加賀瀬善嗣は、鉛のように重い瞼をこじ開けた。
視界に映ったのは、アルカディアのあの病的なまでに潔癖な純白ではない。雨漏りのシミが醜い地図を描く、煤けたコンクリートの天井だった。裸電球が一つ、頼りなく揺れている。
(……俺は、落ちたはずだ)
思考のログを巻き戻す。アンティキティラの判定。毒殺未遂。絢風の黒雷による心臓への被弾。そして、蘇生直後の反撃からの、数千メートル落下。
物理法則が正常に機能しているなら、今の自分は地面に広がる赤黒いシミでしかないはずだ。だが、現実に俺はここにいて、汚れた毛布のざらついた感触を感じている。
「――あ! おじいちゃん! お兄ちゃん、目が覚めたみたい!」
思考の海に、場違いに甲高い少女の声が飛び込んできた。
痛む首を巡らせると、ベッドの縁から小さな頭がひょっこりと覗いている。栗色の長髪。年齢は六歳前後。その瞳は――この薄汚れた部屋には似つかわしくないほど、鮮烈で不自然な「青」に発光していた。
加賀瀬の知識にはない症状だが、直感が告げている。彼女は普通ではないと。
「……ここは?」
「動くな。せっかく繋いだ血管がまた切れるぞ」
少女の背後から、錆びついた蝶番のような低い声が響いた。部屋の奥、ガラクタのような機材が積み上げられた一角から、油汚れのついた作業着姿の老人が歩み寄ってくる。
彼の名はドーモス。その眼光は、患者を見る医者のそれではない。路地裏の野良犬を見るような、明確な警戒と嫌悪を孕んでいる。
老人は加賀瀬の顔を覗き込むと、乱暴な手つきでペンライトの光を瞳孔に叩きつけた。
「意識ははっきりしているみたいだな。……チッ、あれだけの重傷で、脳挫傷ひとつねえとはな。『転移人』の体ってのはどうなってやがる」
「……アンタが、助けたのか」
「勘違いするな。俺はお前ら『転移人』が大嫌いだ。鼻につく。今すぐここから叩き出してやりたいくらいだ」
ドーモスは吐き捨てるように言い、点滴のチューブを指で弾いた。
「ナランは花が好きでな。よく一緒に外に出かけて、野生の花を摘む。カワチじゃ花が咲くところは限られてる。南東の廃墟だらけの区域まで行かなきゃならねえ」
ドーモスは、傍らにいる少女――ナランを顎でしゃくった。
「その日もいつも通り花の観察に付き合ってたわけだが、孫が見つけたのは花ではなく――血だらけでぐちゃぐちゃの死体だ」
「……俺は死んでたのか?」
「いや、生きてた。気色の悪い話だがな。全身の骨は砕かれ、血肉があちこちに飛び散っているのに、確かに呼吸はしていたし、心臓も鼓動を打っていた。常人なら、それを死体だと錯覚してもおかしくはないだろう」
ドーモスは加賀瀬の着用している黒い学ラン制服を、品定めするように見つめた。
「だがその恰好に見覚えがあった。転移人だ。お前ら別の世界から来たとかいう奇天烈な連中の中には、よくその恰好をしている子供がいたもんだ」
「他のクラスメイトを知っているのか?」
加賀瀬が尋ねるとドーモスは首を横に振った。
「クラスメイト? なんだそれは」
「……俺のほかに、この世界に来た奴が大勢いる」
「そんなことは知ったこっちゃない」
ドーモスは歩み寄ってきた孫のナランを、庇うようにゆっくりと抱き寄せた。
「なんにせよ、お前が転移人で、死んでもおかしくない状態なのに生きていることを、元医者としては見過ごすわけにはいかなかった――というのは綺麗ごとで、実際のところ俺はお前を放置しようとしたわけだ」
だが――とドーモスはナランの頭を撫でた。
「放っておけばいいものを、この子が泣いて頼み込むもんだからな。仕方なく拾ってきてやっただけだ」
「どうして……」
加賀瀬はかすれ声で問いかける。それに答えたのはナランだ。
「おじいちゃんはお医者さんだから、お兄ちゃんを絶対治すって言ってたよ!」
「ナラン、余計なことはいわんでいい」
ドーモスはナランの口を遮るように、指で彼女の唇を軽くつまんだ。
加賀瀬の頭に疑念は残る。だが、今は情報を引き出せる状況ではない。
「……そうか。命の恩人だな。ありがとう」
加賀瀬が不意に発した感謝の言葉に、ドーモスは思わず目を見開いた。期待していなかった言葉が、突如として投げかけられたことに、驚きを隠せなかったようだ。見てくれといい言葉遣いといい、およそ素直な感謝など口にする人種には見えなかったからだ。
「礼なら俺に言うな。この子に感謝するんだな」
ドーモスは興味なさげに背を向け、懐からくしゃくしゃになったタバコを取り出した。
「それにしても、よく生きてたもんだ」
「……運が良かっただけだ」
「今回の傷のことじゃない。その身体の古傷だ」
ドーモスが顎でしゃくってみせる。
加賀瀬は自分の腕や胸元に走る無数の痕跡へ目を落とした。治療の過程で嫌でも目についたのだろう。刃物による切り傷、打撲による変色、火傷の痕――それらは今回の戦闘とは無縁の、加賀瀬が過去に積み重ねてきた暴力の履歴書そのものだった。
「治療してて呆れたぞ。まるでツギハギだ。相当、荒っぽい世界で生きてきたようだな」
「……若気の至りってやつだ」
加賀瀬は自嘲気味に呟くことしかできなかった。喧嘩に明け暮れ、拳だけを信じていた日々の代償は、今も肌に焼き付いている。
そんな日々を振り返らないように、加賀瀬は話題を変えた。
「俺はどのくらい寝てたんだ?」
「ちょうど今日で七日目だ」
「七日!? も、寝てたのか……」
加賀瀬は思わず上ずった声をあげた。
「完治するまではここに置いてやる。だが、治ったら即出て行け。俺はこれ以上、お前ら厄介な連中と関わりたくないんでな」
「合理的だ。俺も長居するつもりはない」
加賀瀬のドライな返答に、ドーモスは鼻を鳴らすだけで答えなかった。
すると、ナランがベッドの柵を掴み、心配そうに顔を近づけてきた。
「お兄ちゃん、お腹空いてない? スープあるよ!」
「……ああ、頼む」
ナランがパタパタと走り去ると、加賀瀬は自身の掌を見つめた。
魔那を持たない「NULL」である自分がなぜか生き延びた。
偶然か、必然か。確かなのは、今の自分には何もないという事実だけだ。
やがて、部屋に強烈な匂いが漂ってきた。アルカディアの無臭空間では決して嗅ぐことのなかった、土と、煮込まれた根菜の匂い。
「お待たせー! おじいちゃん特製、お野菜たっぷりスープだよ!」
お盆を抱えたナランが、満面の笑みで戻ってくる。
差し出された器の中には、不格好に切られた野菜が泥色の液体に浮いていた。見た目は最悪だ。だが、立ち上る湯気には暴力的なまでの「熱量」がある。
加賀瀬は一口啜り、顔をしかめた。強烈な塩気。野菜のエグみ。舌をざらつかせる雑味。管理された完璧な食事とは対極にある、情報のノイズだらけの味。
「……どう? おいしい?」
「……ああ」
加賀瀬は器の底に残った汁を飲み干し、口元を手の甲で乱暴に拭った。
「悪くない。……生きてる味がする。
その言葉に、ナランは花が咲いたように笑った。
加賀瀬は、蜘蛛の巣の張った曇りガラスの向こうを見る。
重機が唸る音、怒号、サイレン。ここは地上のスラム――カワチ。
アルカディアという天空の要塞から堕とされた先は、混沌とした掃き溜めだった。 だが、加賀瀬善嗣にとっては、あの気色の悪い管理社会よりも、ここの泥臭い空気の方が幾分マシに思えた。
つかの間の平和とでも言うべきだろうか。
まったくの赤の他人である自分を、ここまで温かく迎え入れてくれているドーモスとナランに、感謝の思いが体中に湧き上がっているのを、加賀瀬は決して表情には表さなかった。
だが、僅かにこぼれた口元の笑みを、遠くで監視するように覗いていたドーモスは見過ごさなかった。
「ふん」
ドーモスは鼻で笑い、軋む音を立てて玄関を開けると、たばこに火をつけた。




