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005 エボケーション・伍

 隔離独房。加賀瀬は、部屋の隅にあった古びた雑巾で、床に散乱したシチューを拭き取っていた。


「……たく、なんだってんだ」


 舌打ちしながら床を拭う。だが、その指先がホワイトソースに触れた瞬間、加賀瀬の背筋にゾクリとした悪寒が走った。鼻を突く甘い香りの中に混じる、微かな刺激臭――否、そんなものはない。だが確かに、そこには純粋な料理の中に含まれるに値しない何かが、仕込まれているように思えた。そして何より、肌が粟立つような生理的な拒絶反応。


(……なんだ、これ)


 加賀瀬善嗣の――喧嘩に明け暮れた日々の中で培った「()()()()」が、警鐘を鳴らしている。或いは、いつの間にか備わっていた研ぎ澄まされた危険察知か。この料理は、ただの飯じゃない。食べてはいけない「何か」が入っている。加賀瀬が手を止め、鋭い目で扉の方を睨んだ時だった。


「失礼いたします」


 半開きの扉が押し開けられ、新たな来訪者が現れた。


 先ほどの騒がしい女とは違う。冷ややかな美貌を持つ、パンツスーツの女――絢風(あやかぜ)だ。彼女の手には、新しい料理が載ったトレイが握られている。


「先ほどの職員が無礼を働いたようで、申し訳ありません。代わりの食事をお持ちしました」


 その所作は完璧で、声色も丁寧だ。だが、加賀瀬の警戒レベルは下がるどころか跳ね上がった。この女からは、先ほどの女以上の「危険な匂い」がする。隠そうともしていない、怜悧な殺意。


「……随分と手際がいいな。さっきのがこぼれたの、見てたのか?」


「ええ、まあ。管理も仕事のうちですので」


 絢風は表情一つ変えず、トレイを机に置いた。

 湯気を立てるスープ。見た目は美味そうだ。だが、加賀瀬は椅子に座ろうともせず、立ったまま彼女を睨みつけた。


「なあ、アンタ」


「はい?」


「その料理、アンタが毒味してみてくれないか」


 加賀瀬の言葉に、絢風の眉がわずかに動く。


「……転移者の方の料理に手を付けるわけには参りません」


「こんなこと言うのは失礼だって重々承知だけどよ――」


「規則ですので」


 取りつく島もない拒絶。その頑なさと、芝居がかった言動。加賀瀬の中で確信が固まった。


「……結構当たるんだよな、俺の勘というか、本能というか」


 加賀瀬の眼光が鋭さを増す。

ネオ(ここ)に来てからずっとそうだ。妙なきな臭さというか、そういうものをずっと肌で感じてんだ」


 その視線を受けた絢風は、ふん、と鼻で笑った。もはや、営業用の笑みを浮かべる必要もないと判断したのだろう。その顔には、獲物を侮蔑する捕食者の冷笑が浮かんでいた。


「だからなんだ? 勘がいいだけで、そのあとはどうする?」


 彼女は右手をすっと持ち上げ、指先を拳銃のような形にした。


 パチ、パチチッ……その指先に、黒い火花が迸る。


「なッ……!?」


「クソガキ」


 絢風の指先から、漆黒の電撃が弾丸のように放たれた。それは彼女の能力『黒雷(クロイカヅチ)』によるものだ。殺意の塊が、加賀瀬の眉間へと直進する。


「ッらぁ!」


 加賀瀬は反射的に首を捻った。黒い閃光が頬を掠め、背後の壁を焦がす。


「ほう、避けたか」


 絢風が感心したように、だが余裕たっぷりに次弾を装填するように、指先に黒い電気をまとい始めた。

 加賀瀬に迷う時間はなかった。彼は瞬時に机の上のトレイを掴むと、熱々のスープごと絢風に向かって全力で投げ飛ばした。


「小賢しい!」


 絢風は飛来する食器を黒雷で薙ぎ払い、粉砕する。だが、その一瞬の視界の遮断が狙いだった。加賀瀬はさらに、自分が座っていたパイプ椅子を蹴り上げた。宙を舞う椅子が、絢風の身体に突っ込む。


「チッ!」


 絢風が舌打ちして椅子を腕でガードした隙に、加賀瀬は床を蹴った。

 目指すは、先ほどの女が開けっ放しにしていってから――何故かそのままでいてくれた出口。


「クソガキがっ!」


 背後で雷鳴が轟く。だが、加賀瀬は振り返らず、獣のように廊下へと飛び出した。


 非常警報は鳴らない。アルカディアの「処理」は、いつだって静粛に行われる。加賀瀬は無人の回廊を疾走していた。呼吸音だけが、不気味なほど静かな通路に響く。


 シュウゥゥ……カチッ。


 前方で、防火隔壁が音もなくスライドし、道を閉ざしていく。派手な音はしない。だが、その滑らかな動作こそが、逃げ道を確実に削り取っていく機械的な殺意を感じさせた。まるで、巨大な胃袋が異物を消化しようと蠢いているようだ。


「……クソッ、囲い込んでやがるのか」


 加賀瀬は舌打ちし、閉まりかけの隙間を身体を捻って潜り抜ける。背後からは、ヒールの音が正確なリズムで近づいてくる。焦燥感が背中を焼く中、長い直線廊下に出た時だった。


 行く手を遮るように、一人の少女が立っていた。


 相藤愛だ。この異常事態の中、彼女だけがまるで午後の教室にいるかのような、場違いな平穏さを纏っていた。


(なんで、あいつが……!)


 加賀瀬は足を止めず、彼女の横を駆け抜けようとする。だが、愛は逃げ惑う加賀瀬を見ても、驚く素振りすらない。彼女は、突進してくる加賀瀬の真正面に、ふわりと身を乗り出した。


「――ねえ」


 逃げ場を塞ぐ位置取り。加賀瀬は急ブレーキをかけ、怒声と共に彼女を睨んだ。


「どいてく――」


 言葉は、最後まで続かなかった。至近距離。愛の瞳が、加賀瀬の視線を絡め取った瞬間だった。


 世界が、ぐにゃりと歪んだ。


(……あ?)


 鼻孔をくすぐる芳醇な香り。鼓膜ではなく、脳髄を直接撫で回されるような、甘く、蕩けるような声の響き。


 背後から死神が迫っているというのに、加賀瀬の思考は一瞬にしてホワイトアウトした。


 目の前の少女が、この世の何よりも尊く、逆らうことなど許されない「絶対的な捕食者」に見える。本能が警鐘を鳴らしている。


 ――これはヤバい。見つめるな。聞くな。魂ごと食われる。


 だが、身体は鉛のように重く、その甘美な重力に抗えない。


()()()()()


 愛が、艶やかな唇をゆっくりと動かす。もしその言葉が紡がれれば、加賀瀬の自我は永遠に彼女のものになっていただろう。


だが――支配が完了するコンマ一秒前。


「――そこを退け」


 氷のように冷徹な声が、甘い呪縛を切り裂いた。絢風だ。角を曲がった彼女が、加賀瀬の背後に迫っていた。その鋭い殺気が、加賀瀬の生存本能を無理やり叩き起こす。


「ッ……!」


 加賀瀬は弾かれたように正気に戻った。目の前の「甘い毒」と、背後の「鋭利な刃」。究極の二択。加賀瀬は、恐怖で竦む身体を叱咤し、愛の肩を乱暴に突き飛ばした。


「すまんッ!」


 愛は抵抗されるとは思っていなかったのか、よろめいて壁に背を預ける。加賀瀬はその隙に、転がるように彼女の横をすり抜けた。


「……あら」


 愛は壁にもたれたまま、興味深そうに目を細めた。自分の魅力を振り切った稀有なサンプル。彼女は去り行く加賀瀬の背中に向かって、クスクスと楽しげに――そしてどこか冷ややかに笑いかけた。


「あらら。なんだか大変そうね」


 他人事のように呟く愛の横を、鋭い風が通り抜けた。遅れて追いついてきた絢風だ。彼女は逃げる加賀瀬を鋭く睨み据えていたが、ふと足を止め、視界の端に映った少女へ冷ややかな視線を向けた。


「……お前は確か、SSSランクを出した相藤愛だったな?」


 絢風の目は、逃走者を追うハンターの色をしていたが、それでも今この場に相応しくない「異物」には興味を示したようだ。愛は絢風の殺気を受けても怯えるどころか、パァッと花が咲くような笑顔を向けた。


「こんにちは! もしかして貴女も、楼門さんと同じアルカディアの職員さんですか? すっごく強そう!」


 愛の瞳は、純粋な好奇心に満ちている。だが、その奥底には、目の前の処刑人の実力を値踏みするような、無機質な観察眼が光っていた。絢風はそれを一瞥で見抜き、鼻で笑って切り捨てた。


「部屋に戻りなさい。出しゃばるには早すぎる」


「はーい、わかりましたぁ」


 愛は素直に頷くと、背中で手を組み、スキップでもしそうな軽やかさで反対方向へと歩き出した。一度も振り返らないその背中は、加賀瀬の運命になど微塵も興味がないことを雄弁に物語っていた。


 「……フン、食えないガキだ」


 絢風は吐き捨てると、瞬時に意識を獲物へと切り替えた。あの少女との会話で数秒のロスが生じたが、些細な誤差だ。結果は変わらない。彼女は疾走しながら耳元のインカムを叩き、氷のような声で指令を飛ばした。


「管理課。C4エリア、隔壁閉鎖。……ええ、そのまま袋小路へ誘導して」


 迷路の主導権を握っているのは彼女だ。オペレーターを通じ、要塞内の障壁を自在に操れる絢風にとって、地理不案内な転移者を追い詰める作業など、牧羊犬が羊を追い込むよりも容易い。彼女が再び獲物の背中を捉えるのに、一分とかからなかった。


 目の前で重厚な隔壁が下り、加賀瀬の足が止まる。完全なる行き止まり。


その絶望的な背中に向けて、絢風は無慈悲な死刑宣告を突きつけた。


「鬼ごっこは終わりだ、クソガキ」


 絢風が、無表情で右手を向けている。その指先には、バチバチと音を立てる漆黒の雷光が収束していた。距離は五メートル。今の加賀瀬に、それを避ける術はない。


「……くそッ」


「死ね」


 雷鳴が轟いた。視認すら許さない神速の一撃。先ほど殺し損ねたミスを絶対に許さないという気概が籠っていた。明らかにスピードが違う。絢風の能力『黒雷(クロイカヅチ)』が放った高密度のエネルギーは、正確無比に加賀瀬の左胸――心臓を捉えた。


 ドォンッ!!


 衝撃が身体を突き抜ける。加賀瀬の背後の壁が黒く焦げ付き、彼の胸にはぽっかりと風穴が空いた。焼ける肉の臭い。どろりと垂れる黒い血。加賀瀬の膝から力が抜け、ドサリと床に崩れ落ちた。


 ピクリとも動かない。即死だ。


 絢風は興味を失ったように指を下ろし、耳元のインカムに手を添えた。


「こちら絢風。目標を処分」


『ご苦労様です、絢風さん。手こずらせてしまいましたね』


 インカムの向こうから、楼門の労う声が聞こえる。絢風は足元の死体――ただの肉塊と化した加賀瀬を一瞥し、冷ややかに吐き捨てた。


「最初の一撃を躱されたのは不覚でした。が、やはりNULLはNULLです。何の歯応えもない、退屈な仕事でした」


『ははは、手厳しい。では、死体の回収を――』


 楼門の指示を聞き流しながら、絢風は踵を返そうとした。その時だった。


 ゾクリ。


 背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。殺気ではない。もっと根源的な、生物としての「畏れ」。背後から、圧倒的な熱量が膨れ上がっている。


「……な?」


 絢風がゆっくりと振り返る。その瞳が、信じられないものを見て限界まで見開かれた。


 ゆらり、と。


 胸に風穴を空けたままの少年が、糸の切れた操り人形が無理やり立ち上がるような不気味な動きで、起き上がりつつあったのだ。


『……絢風さん? どうしました?』


 インカムから楼門の声がするが、絢風の耳には届かない。思考が停止する。心臓がない。即死のはずだ。なぜ動く?なぜ立っている?


「…………」


 加賀瀬が顔を上げる。その瞳孔は開かれ、焦点は合っていない。だが、獣のような獰猛な光だけが、明確に絢風を捉えていた。


「馬鹿な、あり得な――」


 その一瞬の驚愕が、致命的な隙となった。プロにあるまじき硬直。


 死の淵から蘇った獣は、それを決して見逃さない。


「――ッッ!!」


 加賀瀬が踏み込んだ。拳が、絢風の視界を埋め尽くす。


「しまっ――」


 防御も、回避も間に合わない。加賀瀬の全体重と、得体のしれない恐怖が合わさった一撃は、絢風の美しい顔面に深々と突き刺さった。


 ゴシャアッ!!


 鼻梁が砕け、軟骨がひしゃげる生々しい音が、静寂の回廊に響き渡った。無防備な顔面に一撃を食らった絢風が、悲鳴すら上げられずに吹き飛ぶ。彼女の身体はまるで壊れた人形のように宙を舞い、数メートル先の壁に激突して動かなくなった。


 加賀瀬は、追撃しなかった。否、できなかった。拳を振り抜いた反動で、胸の傷口からどっと熱いものが溢れ出す。


「――――ぐ、ぅうッ!」


 喉の奥からせり上がる鮮血を、歯を食いしばって飲み込む。心臓は動いていない。代わりに、身体の奥底から湧き上がる正体不明の熱量が、焼き切れる寸前のモーターのように肉体を無理やり駆動させている。限界など、とっくに超えていた。


(出口……あそこしか、ねえ……!)


 霞む視界が捉えたのは、廊下の突き当たり。頭上にある明り取りの天窓だ。加賀瀬は床を蹴った。ベクリ、と鋼鉄の床材が悲鳴を上げる。常識ではあり得ない跳躍力。死の淵で外れたリミッターと、暴走するエネルギーが、彼を一瞬で天井付近へと運ぶ弾丸に変えた。


 強化ガラスが粉砕される音が、脱出のファンファーレのように響く。加賀瀬の身体は、ダイヤモンドダストのように煌めく破片と共に、アルカディアの外へと飛び出した。


「ハッ……くそったれが!」


 脱出した。遮るもののない外の空気が、焼けるような肺に流れ込む。これで逃げられる。地面に着地して、どこかの路地裏にでも身を隠せば――。


 だが、その安堵は、瞬きする間に「理解不能な絶望」へと塗り替えられた。


 視界に映ったのは、()()()()()()()()


 どこまでも続く、抜けるような青い空。そして――遥か、遥か眼下に広がる、見渡す限りの白い雲海。


「……なッ!?」


 思考が停止する。足場がない。重力が内臓を鷲掴みにし、身体が下へと引っ張られる。浮遊感の中で振り返れば、遠ざかっていく「アルカディア」の全貌が見えた。


 それは建物ではない。巨大な重力制御装置によって空中に鎮座する、難攻不落の浮遊要塞だったのだ。


「おいおいおいおいおいおい、嘘だろッ!?」


 絶叫は、轟音のような風にかき消された。加賀瀬善嗣の身体は、物理法則に従い、数千メートル下のネオの大地へと、石ころのように真っ逆さまに落下していく。


 強烈な風圧が意識を削り取っていく。遠ざかる空の要塞。迫り来る雲の大地。意識がブラックアウトする寸前、最後に彼が見たのは、雲の切れ間から覗く広大な未知の世界だった。


 異世界転移。能力覚醒。英雄譚。そんな甘い夢は、高度数千メートルの空で砕け散った。


 こうして、世界から捨てられたNULLの本当の冒険が、最悪の形で幕を開けた。

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