002 エボケーション・弐
名を呼ばれた少女は、クラスのざわめきを意に介さず、軽やかな足取りで列から抜け出した。相藤愛。クラスでも一際目を引く美少女だが、どこか浮世離れした雰囲気を持つ彼女は、目の前の不気味な黒い巨像にも動じる様子がない。
「はーい」
彼女がアンティキティラの正面に立つと、センサーが反応し、ブォン……という低い唸り声を上げる。直後、プシューッという排気音と共に、「口」にあたるハッチが上下に開いた。中は一人分のスペースがあるカプセル状になっており、緑色の淡い照明が満ちている。
「どうぞ。中の定位置に立てば、自動的にスキャンが始まります」
「わかりましたぁ」
愛は迷うことなく、アンティキティラの「口」の中へと足を踏み入れた。彼女が奥まで進むと、背後でハッチが重々しい音を立てて閉鎖される。完全に密閉された黒い箱。内部にはモニターが一枚備わっていた。そこにはいわゆる顔文字といえる「(‘ω’)」が表示されており、「こんにちは、怖がらなくていいからね」と女性の声が優しく語り掛けてきた。
愛は思わず目を見開いた。「すご、喋るんだこれ」
一法、外では固唾を呑んで見守るクラスメイトたちの前で、外部モニター――「目」の部分が激しく発光した。
『――SCANNING... SCANNING...』
電子音が響き、高速で文字列が流れる。最初の測定者ということもあり、生徒たちはそれが何を意味するのか分からない。だが、数秒後。表示された結果を見た楼門の目が、驚愕に見開かれた。
『 測定結果:SSS 』
モニターにデカデカと表示された、三つのS。
「え、なにこれ? スリーエス?」
「これっていいの? すごいの?」
基準を知らない生徒たちが困惑する中、ハッチが開放され、愛が何事もなかったかのように出てくる。続いて、能力の詳細が言語化され、モニターを埋め尽くした。
『 能力名:愛死照留』 『 概要:対象の脳内物質を強制操作し、好意および服従心を最大値で固定する。視覚的接触、または音声による認識をトリガーとし――』
「……素晴らしい」
楼門が、震える声で呟いた。彼は興奮を抑えきれない様子で愛に歩み寄る。
「SSS。SS、S、A……と続く序列の頂点。他のランクを遥か眼下に見下ろす、最高位の称号ですよ。まさか、一人目からこれほどの逸材が出るとは!」
頂点。最高位。楼門のその言葉で、クラスメイトたちはようやく理解した。彼女が叩き出した結果が、とんでもない「大当たり」であることを。
「えへへ、褒められちゃった」
愛は無邪気に微笑む。だが、その瞳の奥には、周囲の興奮を冷めた目で見つめる別の色が混ざっていた。
楼門はその才能に魅入られたように、近くに控えていた部下を手招きした。
「よし、いきなりですが実戦形式でテストを行いましょう。砲鳴、こっちへ」
楼門が手招きすると、ホールの脇に控えていた職員の一人が駆け寄ってきた。二十代半ばの、神経質そうな整った顔立ちをした男だ。
彼は楼門の前に立つと、軍人のように踵を揃えて敬礼した。
「はい。何なりと、部長」
管理部管理課主任、砲鳴。その声音は非常に丁寧で、楼門への絶対的な忠誠が滲んでいる。だが、顔を上げた彼が相藤愛を視界に入れた瞬間、その精悍な表情がわずかに揺らいだ。根っからの面食いである彼は、SSSランクの美貌を前に、主任としての仮面の下で浮足立ったのだ。
「彼女のテスト相手になれ。相藤さん、彼に力を使ってみてくれませんか」
「はーい、わかりました」
愛は即座に意図を理解し、ためらいなく砲鳴に歩み寄る。
彼女は砲鳴の両手をそっと包み込むように握ると、上目遣いに彼をじっと見つめた。
「これからよろしくお願いしますね」
甘く、鈴を転がすような声。
その瞬間、砲鳴の瞳孔が開いた。彼の中で強固に築かれていた「忠誠」のヒエラルキーが、暴力的なまでの「愛」によって強制的に書き換えられる。
「――っ、はい! よろしくお願いいたします!」
頬を紅潮させ、裏返りそうなほど感激した声。だが、その言葉遣いは丁寧なままだった。それが余計に、彼が正常な思考を保ったまま狂ってしまったことを強調していた。
クラスメイトたちが呆気にとられる中、愛は小首をかしげ、ニッコリと微笑む。 そして、無邪気な声色で、悪魔のような命令を下した。
「じゃあ、楼門さんに銃を突き付けて」
愛の視線は、砲鳴の腰にある近未来的なデザインの白い拳銃――管理課にのみ許された武力――を既に見抜いていた。本来なら、絶対なる主君への反逆。万死に値する行為。
だが、相藤愛という新たな「神」に傅いた砲鳴に、迷いは一切なかった。
「喜んで!」
弾むような、それでいて極めて礼儀正しい快諾。砲鳴は流れるような所作で白き銃を引き抜くと、あろうことか敬愛していたはずの楼門の額へ、正確に銃口を突き付けた。
その瞳にあるのは、任務を遂行する喜びのみ。
「ひっ……!」
誰かが息を呑む音が響く。場の空気が凍り付く。冗談や遊びの雰囲気は消し飛んだ。
その瞬間、楼門の表情から感情が抜け落ちた。
信頼していた腹心の裏切り。それを前にしても、動じるどころか、砲鳴という「壊された部品」を見定めるような、底冷えする殺意が一瞬だけ走る。もし愛が止めなければ、楼門は瞬きする間に砲鳴を「処分」していただろう。
だが、その殺意は瞬時に修正された。楼門は即座に愛想の良い笑顔を貼り直すと、額に突き付けられた銃身を指先で優しく逸らす。
「愛さん、冗談はよしてくださいよー」
「えへへ、ごめんなさい!」
愛は悪びれもせず、舌を出して笑ってごまかした。
銃を下ろした砲鳴は、未だ恍惚とした表情で愛を見つめている。
SSSランクの少女と、底知れぬ男。その間に横たわる、忠誠心さえもオモチャにする残酷な余韻だけが、そこに残されていた。
楼門は、額に残った銃口の感触を拭うこともせず、クラスメイトたちに向き直った。
「……ご覧の通りです。SSSランクとは、これほどの影響力を持つ。素晴らしい才能だ」
称賛の拍手。だが、生徒たちの顔には引きつった笑みが浮かんでいた。
自分たちは、とんでもない場所に来てしまったのではないか――そんな予感が、脳裏をよぎり始めていた。
その重苦しい沈黙を破るように、楼門は「おっと」とわざとらしく手を打った。
「すみません、大事なことを言い忘れていました」
楼門は申し訳なさそうに苦笑し、アンティキティラの黒いボディを愛おしげに撫でた。
「このアンティキティラは、単に数値を測るだけの物差しではありません。貴方たちの体内で眠っている莫大な魔那を刺激し、活性化させる……いわば『覚醒装置』でもあります」
「覚醒……?」
その甘美な響きに、生徒たちの怯えがわずかに和らぐ。
「ええ。中に入りスキャンを受けることで、貴方たちは初めて『能力者』として生まれ変わるのです。そして、その能力の形は千差万別。貴方たちの資質、性格、隠された欲望……そういった個人の『核』となる要素が魔那と結びつき、世界で一つだけの力となって具現化します」
楼門は、夢を語るように両手を広げた。
「つまり、アンティキティラは貴方たちの『本当の自分』を形にしてくれるのです。どんな力が目覚めるかは、貴方たち次第。……どうです? 自分だけのオリジナルの能力、知りたくはありませんか?」
自分だけの力。本当の自分。
アイデンティティを確立したい盛りの高校生にとって、それは恐怖を上回る極上の餌だった。
だが、その甘い言葉を咀嚼した瞬間、数名の勘の鋭い生徒の顔色が変わった。
彼らの視線が、吸い寄せられるように一人の少女――相藤愛へと向く。
(待てよ……。能力が『本性』や『隠された欲望』を形にするなら……)
先ほどの光景が脳裏に蘇る。彼女の能力は『愛死照留』。
一見可愛らしい名前だが、その実態は他者の自由意志を奪い、死をも厭わぬ服従を強いる強制洗脳だ。
(あんな凶悪な力が発現したってことは、彼女の根底にある欲望は……『支配』? それとも『独占』……?)
小林健太は密かにその事実に気づき、戦慄した。
普段はクラスのアイドルとして愛想よく振る舞う彼女。
だが、その美しい皮の下には、他人を奴隷としか思っていないような、ドス黒いエゴが渦巻いているのではないか。
「ん? なぁに?」
不意に、鈴を転がすような声が小林の鼓膜を叩いた。
ビクリと肩を跳ねさせた小林の横に、いつの間にか相藤愛が立っていた。彼女は小首をかしげてニッコリと微笑む。周囲から見れば、それは天使のように愛らしい笑顔だ。
だが――至近距離で見下ろされた小林には、見えてしまった。笑っているのは口元だけ。その瞳は、絶対零度のように冷たく凪いでいた。
(ひっ……!?)
深淵を覗いてはいけない。彼女の「中身」を知ってはいけない。小林は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、引きつった笑みを返すのが精一杯だった。
愛はそんな彼の反応を楽しむように、鼻歌交じりに列の後ろへと下がっていく。
重苦しい沈黙が広がりかけた、その時。
楼門は何事もなかったかのように、次なる英雄候補の名を呼んだ。
「では、続きまして出席番号二番……浅倉翔流君」
「あ、は、はいっ」
名を呼ばれたのは、クラスの中でも小柄な男子生徒だった。
浅倉はビクリと肩を震わせ、周囲の様子を窺うようにキョロキョロと視線を彷徨わせた。
彼はいつだってそうだ。目立たず、波風を立てず、強い者に同調して生きてきた。SSSランクという異常な結果が出た直後だ。「もし自分が変な結果だったら」「笑われたらどうしよう」。そんな不安が、彼の足を重くさせる。
「大丈夫ですよ。リラックスして」
「は、はい……」
楼門に促され、浅倉は逃げ込むようにアンティキティラの「口」へと入った。 ハッチが閉ざされる。かすかな闇と静寂。だが、それは引っ込み思案な彼にとって、衆目から遮断されるわずかな安息の時間でもあった。
(頼む、普通でいい。ふつうくらいの結果で……!)
彼の願い――「人並みでありたい」という切実な同調圧力への渇望が、魔那と反応する。スキャン音が鳴り響き、ハッチが開いた。
モニターに表示されたのは、彼の願いよりも少しだけ輝かしい結果だった。
『 測定結果:A 』
「お、おおっ! Aランク! 浅倉Aだぞ!」
「相藤さんと比べれば見劣りするけど……すげえじゃん浅倉!」
クラスメイトの声に、浅倉はホッと胸を撫で下ろした。Aランク。エリート級というべきか? 可もなく不可もなくといえよう。これなら馬鹿にされることはない。みんなの輪の中にいられる。
続いて、能力の詳細が表示される。
『 能力名:昇流圏』 『 概要:虹色の光流を放出し、接触対象の身体能力を大幅に増強する。また、自身への過剰照射による限界突破機能も有するが――』
「ほう……これは美しい」
楼門が感嘆の声を上げた。モニターには、能力のイメージ図として美しい虹色の光が描かれている。
「『昇流圏』。他者の身体能力を底上げする、極めて優秀な支援能力です。集団戦闘において、君のような存在は攻撃役以上に重宝される。まさに、皆を導く虹の架け橋だ」
「し、支援……役に、立てますか?」
「ええ、もちろんですとも! 君がいれば、クラス全員の戦力が跳ね上がる。君はチームの要ですよ」
楼門の言葉に、浅倉の顔がパッと輝いた。
自分が中心になって戦うわけではない。けれど、誰かの役に立ち、必要とされるポジション。それは、「他人に流されやすい」彼にとって、最も居心地の良い「誰かのための力」だった。
「よかったぁ……俺、サポートなら頑張れるかも」
浅倉は安堵の笑みを浮かべ、列へと戻っていく。 その背中は、先ほどまでの怯えが消え、どこか誇らしげだった。
だが、彼はまだ気づいていない。
モニターの概要欄の最後――『自身への過剰照射』に関する記述が、スクロールされて見えなくなっていたことに。
その力は、彼が「誰かのため」ではなく「自分のため」に命を燃やした時、初めて真価を発揮する諸刃の剣であるということに。
浅倉の測定が終わり、安堵と称賛の空気が広がる中、楼門は名簿に目を落とし、次の名を呼んだ。




