021 クラスメイトの襲撃・壱
麗香が姿を消してから、二日が過ぎた。
工場の天窓から差し込む陽光は、埃のダンスを照らし出している。その穏やかな昼下がりの静寂は、しかし、張り詰めた糸のような緊張感によって支配されていた。
「ボクとしたことが」
トウフが動きを止めた。 加賀瀬に向かって繰り出そうとしていた掌底を空中でピタリと静止させ、熊の耳をピクリと震わせる。
加賀瀬は呼吸を整えながら、怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした?」
「招かれざる客です」
トウフが低い声で唸ると同時、廃工場の入り口付近にあった瓦礫の影から、ぬらりと人影が滲み出た。
白衣のような制服を着崩し、神経質そうな眼鏡をかけた男――錬暖だ。
「熊……? いや、ベルセルクですか」
錬暖は加賀瀬を一瞥することなく、興味深そうにトウフを観察している。その視線は、珍しい動物を博物館のケース越しに見るような、無遠慮なものだった。
「君は誰です?」
トウフが問う。その声色は丁寧だが、全身の剛毛が逆立ち、臨戦態勢に入っているのが分かる。
「獣に名乗る名前などありませんよ」
錬暖は鼻で笑い、手を振ってあしらった。
「手厳しいですね。見ての通り、今ボクたちは取り込み中でして。できればお引き取り願いたいんですが……?」
トウフは錬暖を見据えつつ、その視線を油断なく周囲へと走らせていた。錬暖一人ではない。複数の、そして歪んだ敵意が、この空間を取り囲んでいる。
「と、言いたいところですが、そういうわけにもいかないようですね」
「ええ。仕事ですので」
錬暖が指を鳴らした。 それを合図に、廃工場の薄暗がりから、三つの人影が浮かび上がった。
二階のキャットウォーク。一階の資材置き場の陰。加賀瀬はその顔を見て、息を呑んだ。
「……笠井か」
見間違うはずもない。かつて教室で、加賀瀬の視界に入り込んできた連中。
笠井春馬。杉山豪。そして、辺見京介。 学校という箱庭で、加賀瀬を嘲笑い、見下していたクラスメイトたちだ。三人とも純白のアルカディアの制服を着こなしていた。
「よお加賀瀬ェ! 生きてるとは聞いてたが、友達いねぇからって熊と仲良くしてどうすんだよ?」
頭上の鉄柵に肘をつき、笠井が下卑た笑い声を降らせてくる。そして、反対側の梁の上に立っていた巨漢――杉山が、重力を無視して飛び降りた。
ズドォォォォォンッ!!
まるで鉄の塊が落下したかのような轟音。コンクリートの床が悲鳴を上げ、ひび割れ、盛大な土煙が舞い上がる。
煙の中から現れた杉山は、ニヤニヤと笑いながら首をコキコキと鳴らした。
「いろいろ馬鹿やってるみてぇだけど、それも今日で終わりな?」
「あ?」
「俺たち、これが初仕事なんだ」
笠井が言い捨てると、その姿がフッと闇に溶けるように消えた。いや、正確には物陰に身を隠したのだが、その気配の断ち切り方は素人のそれではない。
「ふむ……妙な力を蓄えたようですね、加賀瀬善嗣」
錬暖の眼鏡の奥、瞳が怪しく光った。『全方解視』。透視にも似たその解析眼が、加賀瀬の体内を循環する『天』の流れを捉えていた。
「それに貴方も……只者ではないようだ」
「穏やかじゃないですね、皆さん」
トウフが加賀瀬の前に出ようとする。だが、加賀瀬はそれを手で制した。
「何しに来た、杉山」
低い声で問う加賀瀬に対し、杉山は顔面を歪ませ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「決まってんだろ。俺たちの記念すべき最初のクエストはな――お前をぶっ倒すことだよ!」
怒号と共に、杉山が地面を蹴った。 戦車のような突進。巨体が空気を押し退け、暴風となって加賀瀬に迫る。
「加賀瀬君、ピンチはチャンスというやつです! 修行の成果を発揮してください!」
トウフが背後から激励を飛ばす。
加賀瀬は逃げなかった。腰を落とし、両手を広げ、正面から受けて立つ構えをとる。
肺いっぱいに空気を吸い込む。『歩』。 全身に巡らせる。『環』。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
ドガァッ!!
肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響いた。
杉山のタックルを加賀瀬が受け止める。凄まじい推進力に靴底が地面を削り、火花を散らしながら後退するが、加賀瀬の体幹は崩れない。
「――ッッ!」
「へへッ、耐えるじゃねえか無能がよォ!」
杉山の顔が目の前にある。彼の皮膚は、既に変質していた。 能力『剛岩筋』。
肌の色は土気色に変わり、岩石のような硬度と質量を得ている。押し込んでくる力は、人間のそれではない。重機に押し潰されるような圧迫感。 加賀瀬が歯を食いしばり、押し返そうとした、その時だった。
ゾクリ。 背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。殺気ではない。もっと鋭利な「何か」が、死角から迫っている。
シュッ――。
だが、加賀瀬の右足のふくらはぎから、鮮血が噴き出した。
「ぐっ!?」
何か鋭利なもので斬りつけられたような鋭い痛み。
支えを失った右足が崩れる。均衡が破れた。
「隙ありだァッ!!」
杉山がその隙を見逃すはずがない。
体勢を崩した加賀瀬を強引に押し倒し、馬乗りになる。岩の拳が振り上げられた。
「オラッ! オラァッ!!」
一発、二発。 重い拳が加賀瀬のガードの上から降り注ぐ。 ガードした腕の骨が軋む。一撃一撃がハンマーのような威力だ。もし直撃すれば、頭蓋骨など容易く粉砕されるだろう。
(くそッ、なんだ今の……!?)
加賀瀬は防戦一方になりながらも、思考を巡らせていた。直前まで気配すらなかった攻撃。
「オイどうした! コラ! 加賀瀬ェッ! 調子乗ってんじゃねぇぞコラッ!」
杉山が勝利を確信し、拳を振りかぶる。
その動きは大きい。岩の皮膚は防御と破壊力を高めるが、代償として関節の可動域と速度を殺す。
加賀瀬はその大振りなモーションを見逃さなかった。 天を吸い上げ、右拳の一点に凝縮する。『地』。
振り下ろされる拳を紙一重でかわし、加賀瀬は杉山の右わき腹――岩の鎧に覆われたボディへ、ねじ込むように拳を突き刺した。
表面の硬さではない。内部へ衝撃を浸透させる一撃。
「ウ、ウウゥッ――ッ!?」
杉山の動きが止まった。岩のように硬いはずの腹を押さえ、喉の奥から空気が漏れるような悲鳴を上げる。
内臓を揺さぶられた衝撃に杉山がたじろいだ隙に、加賀瀬は彼を蹴り飛ばし、バネのように跳ね起きた。
だが、息つく暇はない。 顔を上げた瞬間、視界がオレンジ色に染まった。
「――死ねや」
高らかに笑う笠井の声と共に、燃え盛る火球が眼前に迫っていた。距離が近すぎる。回避は間に合わない。
加賀瀬は瞬時に判断した。 顔面へ『天』を集中させる。防御壁を展開するイメージ。
着弾と同時に爆炎が弾けた。熱波と衝撃が加賀瀬を襲う。黒煙が視界を奪う。
「善嗣君!」
トウフの叫び声が響く中、煙が晴れると、そこには仁王立ちする加賀瀬の姿があった。
前髪はチリチリに焦げ、頬には煤がついている。だが、その瞳は爛々と輝き、火傷一つ負っていなかった。
「……熱ぃな」
とっさに顔面を『地』で硬化し、爆発の熱と衝撃を弾いたのだ。 だが、視界が悪い。爆炎の残滓と煙で、周囲が揺らいで見える。 その陽炎の向こうから、再び殺気が飛んできた。
右だ。加賀瀬が首を巡らせると、二発目の火球が正確に頭部を狙って直進してきていた。 今度は反応できた。
加賀瀬は最小限の動きで頭を振り、火球をかわす。背後の壁に着弾した炎が爆発し、廃工場をさらに揺らす。
「…………」
加賀瀬は油断なく構えながら、奇妙な違和感に襲われていた。
静かすぎる。 爆音が消えた後、周囲には杉山の呻き声も、笠井の嘲笑も聞こえない。
煙が薄れていく。 そこにいたはずの杉山豪の姿が、忽然と消えていた。トウフの姿はある。壁際で腕を組み、薄ら笑いを浮かべている錬暖もいる。だが、襲撃者たちの姿だけが、まるで幻影のように消え失せていた。
「なっ……?」
「……なるほど」
トウフが鼻をひくつかせ、焦燥を含んだ声を出す。
「道理で、気配を感じ取れないわけですね」
「どういうことだ?」
「彼らの中に、視覚や嗅覚、あるいは気配そのものを遮断する能力に長けた者がいるのかもしれません。……もしくは」
トウフの鋭い視線が、錬暖へと突き刺さる。
「あそこで高みの見物を決め込んでいる、あの男の仕業か」
錬暖はトウフの視線に気づくと、心外だと言わんばかりに大げさに肩をすくめ、首を横に振ってみせた。だが、その口元の笑みは消えていない。
その時だった――
ザシュッ。
殺気も、予備動作も、足音さえも。何の予兆もなく、加賀瀬の頬に赤い筋が走り、遅れて鋭い痛みが走った。
「……ッ!」
加賀瀬は反射的にのけ反り、周囲を睨みつける。
だが、そこには舞い上がる埃と、静まり返った廃工場の空間があるだけだ。
誰もいない。影すら落ちていない。だというのに、肌を焼くような嘲笑の気配だけが、ネットリと空間に張り付いている。
「へへっ、どこ見てんだよ加賀瀬ェ! 俺たちはここだぜ?」
声は反響し、位置を特定させない。笠井だ。姿を消した安全圏から、一方的に攻撃できる優越感に浸りきっている。
「おい辺見、あいつの足、もう一本いっとけ」
「了解」
ボソリとした囁き声が耳元で聞こえた気がした。
加賀瀬の野生の勘が、けたたましく警鐘を鳴らす。
見えない。何も感じない。だが、確実に「殺意」が近づいている。
(……見えねえなら、感じるしかねえ)




