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019 ベルセルク・弐

 ベルセルクが沈み込む。その丸太のような両脚に、エネルギーが収束していくのを肌で感じた。それは紛れもなく、たった今しがた加賀瀬が突発的にやってのけた機動術――足裏での爆発加速だ。


 加賀瀬が驚愕に瞬きを一つ、その刹那だった。


 ドッ――爆音と共に、目の前から巨獣が消失した。

 視界から消えたのではない。加賀瀬の動体視力を遥かに上回る速度で、裏へと回ったのだ。


「――がッ!?」


 驚く暇もなかった。背中に、ダンプカーが衝突したような衝撃が走る。ベルセルクの剛拳だ。無防備な背後からの直撃。加賀瀬の身体はボールのように弾き飛ばされ、廃工場の床を何度もバウンドして転がった。


「ぐ、ぅ……ッ!」


 普通なら背骨が砕け、即死していてもおかしくない一撃。

 だが、加賀瀬はすぐに起き上がった。血反吐を吐きながらも、その目は死んでいない。


 麗香は紫煙をくゆらせながら、その状況を冷静に分析していた。


(常に『環』を怠らない選択肢をとったね。どこから攻撃が来るか判断できないからこそ、一点防御の『地』ではなく、全身を常に『天』で覆う鎧を選んだわけか。……悪くない判断だ)


 だが、敵は待ってくれない。


 ベルセルクは再び神速を見せた。

 今度は背後ではない。加賀瀬が顔を上げた瞬間、その鼻先に――丸太のような拳を振りかぶった状態で現れたのだ。


「オラァッ!!」


 加賀瀬は咄嗟に両手をクロスさせ、そこに全身全霊の『地』を展開して盾とした。    

 重金属の激突音が響く。加賀瀬は堂々とベルセルクの拳を受け止めた。だが、その衝撃は想像を絶していた。


 骨はきしめき、衝撃波が体内を駆け巡る。内臓がすべて弾け飛びそうな吐き気が彼を襲う。


「ぐ、ウウウウッ!!」


 必死に激痛をこらえる加賀瀬に対し、ベルセルクは止まらない。

 右、左、右。二度、三度と、削岩機のような重い拳が、加賀瀬のガードの上から叩き込まれる。一発受けるたびに足が地面にめり込み、膝が折れそうになる。それは乱打という名の処刑だった。


(……くそ、重すぎんだよッ……!)


 加賀瀬は歯を食いしばり、ひたすら耐え続けた。ガードを解けば死ぬ。だが、このままではジリ貧だ。

 次の拳が迫りくる――と、加賀瀬が身構えた瞬間だった。


 フッ。

 目の前の圧力が消えた。

 ベルセルクの姿が、加賀瀬の視界から掻き消えていた。


「な……?」


 気づいたときには、彼の真横――死角に、その巨体が音もなく佇んでいた。

 フェイントだ。剛速の連打から、急激な静止への移行。緩急自在の動き。

 加賀瀬は視界の端でそれを捉えることは出来た。だが、意識が「正面の防御」に向いていた彼に、次の追撃を受け止める術はなかった。


 ドゴッ!!

 ベルセルクの剛腕フックが、加賀瀬の顔面に容赦なく叩き込まれた。

 首がねじ切れるほどの衝撃。


 加賀瀬の身体は宙を舞い、独楽のように回転しながら地面へと無様に転げ落ちた。


「はぁ……はぁ……ッ」


 視界が明滅する。

 だが、ベルセルクは追撃に来なかった。悠然と立ち、倒れた獲物を見下ろしている。

 加賀瀬が震える腕で地面を押し、再度ゆっくりと立ち上がるのを見て、ベルセルクの口元が微かに動いた。


「……タフだね」


 誰にも聞こえぬほどの、低く、静かな声。

 だが、加賀瀬の耳はそれを確かに拾っていた。


「……あ?」


 加賀瀬は血だらけの顔を拭いながら、妙な違和感を感じ始めていた。

 喋った? この熊が?  いや、それだけじゃない。


 今のフェイント。緩急のつけ方。そして、急所を的確に狙う技術。

 これは「暴れ狂う魔獣」の動きじゃない。まるで、高度に訓練された――

 だが、その違和感の正体を明確にする前に、ベルセルクの拳が再び視界を埋め尽くした。


 しかし、その剛腕は空を斬った。

 ベルセルクが一瞬戸惑いを見せた矢先、加賀瀬の姿は既にそこにはなかった。

 残像だ。加賀瀬は紙一重で懐に飛び込むと見せかけ、さらに加速して背後へと回り込んでいたのだ。


「なっ!?」


 加賀瀬は拳を極限まで握りしめていた。『地』による一点集中。全神経を右拳に注ぎ込む。


 ベルセルクは瞬時に振り返り、防御態勢に入ろうとしたが、コンマ一秒遅かった。


「――――ッ!!」


 ドゴォッ!!

 鈍い衝撃音が響き、加賀瀬の拳がベルセルクの顔面――傷のない右頬へと深々と突き刺さった。

 会心の一撃。タイミング、威力、位置取り、すべてが完璧なカウンターだった。


 だが――ベルセルクの巨体は、微動だにしなかった。


「……ぁ?」


 痛みを味わったのは、殴った加賀瀬のほうだった。

 硬い。あまりにも硬すぎる。先ほど鉄骨を殴った時よりもさらに硬質で、まるで分厚いタイヤゴムでコーティングされた鋼鉄を殴ったかのような、重く鈍い感触。


 加賀瀬の拳から、手首、肘へと、衝撃が跳ね返って駆け抜ける。


「ぐ、ぅ……!」


 拳がじんわりと熱い痛みに襲われ始めた。


 ベルセルクは、顔面に拳をめり込ませたままの加賀瀬を見下ろし――ゆっくりと、その腕を掴んだ。


「――ッ!?」


 抵抗する間もなかった。

 圧倒的な腕力で、加賀瀬の身体は木の葉のように振り回され、地面へと叩きつけられた。


「がはっ!」


 這いつくばる加賀瀬の背中に、巨大な掌が乗せられる。

 たったそれだけで、重力が増したかのように身体が動かなくなった。余裕綽々と押さえつけるベルセルク。


 加賀瀬は必死に抵抗しようともがくが、巨岩に押し潰された蛙のように、指一本動かすことができない。


(くそ……!)


 悔しさと焦りが募る。


 その時――彼の全身から、わずかに青白い電気が走るのを、ベルセルクは見逃さなかった。その隻眼が、興味深そうに細められた、その直後。


「そこまで!」


 麗香の凛とした声が、廃工場に響き渡った。


 ピタリ、と場の空気が止まる。  殺気が霧散した。


「……え?」


 困惑する加賀瀬をよそに、ベルセルクはゆっくりと加賀瀬の背中から手を離し、巨体を退けた。


 そして、先ほどまで凶器と化していた丸太のような右腕を、そっと彼の前に差し出した。拳ではなく、掌を上に向けて。


「いやはや、驚いたよ」


 聞こえてきたのは、獣の唸り声ではなかった。

 深みのある、理知的で、とても優しい男の声色だった。

 その凶悪な外見にあまりに似つかわしくない美声に、加賀瀬は痛みを忘れて目を丸くするしかなかった。


 差し出された手は、明らかに「握手」を求めていた。


「……は?」


 加賀瀬は呆気にとられながらも、思わずその剛毛に覆われた手を握り、引っ張り上げられるようにして立ち上がった。


「君はもう、無意識のうちに『天』を取り込む術を身に着けているようだね。最後の背後への回り込み、見事だったよ」


「あ、ああ……」


 加賀瀬は戸惑うほかなかった。


 だが、先ほど戦いの中で感じた妙な違和感が、パズルのピースが埋まるように明らかになっていくのを感じていた。

 彼の拳――ひたすらにパンチを繰り返していたが、殺すつもりならその鋭利な鉤爪で八つ裂きにすれば話が早かったはずだ。

 だがそれをせずに、彼は爪を隠し、ひたすら殴打のみを繰り返していた。それは野生の獣の戦い方ではない。理性を保った、武道家の組み手だ。


「トウフ、どうだった?」


 こちらに歩み寄る麗香が、ベルセルクに親しげに声をかける。


「師匠が曰く付きの逸材だと仰っていた理由がわかりました。」


「し、師匠……?」


 加賀瀬はきょとんとして二人を見比べた。


 麗香は煙管の煙をふうっと吐き出し、ニヤリと笑った。


「紹介するよ。こいつは私の二番目の弟子、ベルセルク族の『トウフ』だ」


 トウフ、と紹介された熊の魔族は、その巨体を器用に折り曲げ、人間のように礼儀正しく頭を下げてきた。


「とんでもない挨拶となったね、善嗣君。僕はトウフ。師匠の不肖の弟子で、魔斬使いさ」


「……と、とうふ?」


 加賀瀬は思わず復唱した。

 全身傷だらけの凶悪なグリズリー。名前は、白くて柔らかい「豆腐」。

 情報量が多すぎて、加賀瀬の脳が処理落ちを起こしかけている。


「……ど、どういうことだ?」


 困惑する加賀瀬に、麗香が楽しそうに説明する。


「言葉通りの意味さ。命を懸けた闘いを実践してもらったんだよ。お前が極限状態で『基礎』を使えるかどうかを見るためにな」


「つまり、演技だったってことか?」


「手加減はしていたが、殺気は本物だっただろう? トウフは温厚だが、スイッチが入れば本気で相手を潰しにかかるからね」


 トウフは「お恥ずかしい」と照れるように頭を掻いた。その仕草は、着ぐるみを着た人間のようだった。


「初めまして、兄弟子として歓迎するよ、善嗣君」


 差し出された巨大な掌。


 加賀瀬は深いため息をつくと、諦めたようにその手を握り返した。


「……よろしく」

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