001 エボケーション・壱
硬質な床の冷たさが、意識を強制的に覚醒させた。加賀瀬善嗣は、泥のように重い瞼をこじ開け、反射的に上体を起こした。肺に満ちたのは、学校特有のチョークと埃の匂いではない。病院の消毒液をさらに無機質にしたような、どこか人工的な冷気だった。
「……ッ、ここは」
呻くような声が、隣から聞こえた。笠井だ。加賀瀬は鋭い視線で周囲をあさった。
そこは、広大なホールだった。壁も、床も、遥か頭上にある天井も、すべてが病的なまでに白い。継ぎ目ひとつないその空間は、まるでSF映画のセットか、あるいは巨大な実験室のようだった。窓はない。外の景色は一切遮断されている。
「痛ってぇ……なんだよこれ」
「おい、教室じゃねえぞ」
「谷川先生は!? 先生いないの!?」
三八名の意識が戻るにつれ、静寂は急速にパニックへと変わった。泣き出す女子生徒、状況が理解できずに立ち尽くす者、怒号を上げる者。身長一九〇センチの巨漢・杉山が青ざめた顔で笠井の肩を揺すっている。
「おい笠井、これ、マジでやばいんじゃねえか……?」
「うっせえな! 俺に聞くなよ!」
混乱の渦中、加賀瀬だけが冷めた目で己の手のひらを握り、開いた。身体に異常はない。だが、肌にまとわりつく空気の「質」が決定的に違う。
わずかな違和感。それに、床を通して微かに伝わってくる低い振動。ここは地上ではない。もっと高い場所、あるいは――。
その時だった。ホールの正面、白一色だった壁の一部が、音もなくスライドした。
現れたのは、奇妙な意匠の制服に身を包んだ数名の男女。そしてその中央に、人好きのする笑顔を貼り付けた男が一人、芝居がかった仕草で両手を広げていた。
「ようこそ。そして、おはようございます」
その男の声は、混乱するホールによく響いた。あまりに場違いな、演劇じみた挨拶。パニックに陥っていた生徒たちの視線が、一斉にその男――白衣のような制服を纏った金髪の男へと集まる。
男の背後には、白く、流線形のフォルムをした、明らかに地球の技術体系とは異なる「銃」といえる武器を携えた職員たちが整然と控えていた。その圧倒的な「組織」としての威圧感に、生徒たちは誰一人として声を上げることができない。よくしゃべる笠井ですら、唇をわななかせて立ち尽くすのが精一杯だった。
「……スマホ、繋がんねえ」
「私のも……圏外って」
沈黙を破るように、誰かが震える声で呟いた。それが引き金となり、生徒たちは縋るように手元のスマートフォンを操作し始めた。だが、画面に表示されるのは無慈悲な圏外の文字だけ。外部との繋がりが絶たれた事実に、再び悲鳴に近いざわめきが広がりそうになる。
「皆さん、どうか落ち着いて」
男が、たしなめるように片手を上げた。決して大声ではない。だが、その声には不思議と場を制圧する響きがあった。生徒たちは金縛りにあったように口をつぐみ、男を見つめた。
「不安になるのも無理はありません。ですが、我々は貴方たちを害するつもりなど毛頭ない。むしろ、歓迎しているのです」
男は胸に手を当て、優雅に一礼した。
「ここは『アルカディア』。私は管理部長の楼門です」
楼門は、怯える羊たちを安撫するように、柔らかい笑みを絶やさない。
「単刀直入に申し上げましょう。貴方たちは選ばれたのです」
「……選ばれた?」生徒の一人が反射的に返した。
「ええ。貴方たちは、故郷とは異なるこの世界『ネオ』に招かれました。なぜなら、貴方たち一人ひとりが莫大な『魔那』というエネルギーをその身に秘めており、我々にはその力が、貴方たちが、必要なのです」
魔那――ファンタジー映画でしか聞かない単語に、生徒たちの間に困惑と、わずかな好奇心の色が混ざり始めた。
「我々が住むこの世界は今、『混沌のエンティティ』と呼ばれる邪悪な怪物の脅威に晒されています。奴は世界を喰らい、人々を苦しめている」
楼門は表情を曇らせ、悲劇を憂う聖職者のように語った。
「我々だけでは対抗できない。世界を救うためには、別世界から来た、強大な魔那を持つ貴方たちの力が必要なのです。……そう、貴方たちはこの世界における勇者なのです」
勇者。世界を救う力。その甘美な響きは、恐怖で凍り付いていた生徒たちの心を劇的に解かした。ただの高校生だった自分が、特別な存在として必要とされている。その高揚感が、不安を麻痺させていく。
生徒の一人、小林健太は生粋のオタクであったゆえに、自身の置かれている状況がまるで愛読する漫画やアニメによくあるお決まりの展開に類似していることに興奮が隠せなかった。
「これはまるで異世界転生じゃないか!?」
「いえ、転生というより、転移ですが……」楼門は苦笑いで返した。
「俺たちが……勇者?」
「マジかよ……なんかすごくね?」
「魔法とか使えるってこと?」
怯えの色が消え、興奮した囁きが広がる。楼門はその変化を見逃さず、満足げに頷いた。
「もちろんです。これから貴方たちには、その秘められた才能を開花させていただきたい。そのためのサポートは我々アルカディアが全力で行います」
楼門がパチンと指を鳴らすと同時、ホールの床が重苦しい駆動音を上げて左右にスライドした。奈落のような暗がりから、地響きと共にその「巨体」がせり上がってくる。
「さあ、まずは貴方の中に眠る『英雄の資質』を測らせてもらいましょうか。詳しい話はそれからです。御覧ください、能力測定器――アンティキティラ」
現れたのは、高さ三メートルはあろうかという巨大な構造物だった。艶消しの無骨な漆黒の装甲に、血管のように走る蛍光グリーンの発光ライン。そのデザインは、明らかに何かを模していた――『顔』だ。上部には目にあたる巨大なワイドモニターが備わっており、本来あるべき「口」の部分には、厳重なロック機構を備えた厚いハッチが閉ざされていた。
「すげえ……ロボットの顔、か?」
「なんか、睨まれてるみたいで怖くね?」
その威圧的なフォルムに、生徒たちは息を呑む。
だが、それ以上の不安が彼らの胸を去来していた。「測定した後、どうなるのか」「いつ帰れるのか」「世界を救うって具体的に何をするのか?」という根本的な問いだ。
「あの、楼門さん」
おずおずと手を挙げたのは、学級委員長を務める江田川一だった。彼は眼鏡を掛けなおし、楼門の顔を見定めるように睨んだ。
「僕たちは、いつ元の世界に帰れるんですか? 明日も学校があるし、両親や先生たちに心配を掛けたくありません。なにより、これから受験という大事なイベントが控えているのに、こんなこと――」
その言葉は、全員の総意だった。異世界、能力、勇者。聞こえはいいが、日常を捨ててまでここに残る覚悟など、ただの高校生にあるはずがない。
楼門は、困った子供をあやすように優しく微笑んだ。
「もっともな疑問です。ですが、残念ながら今すぐにお帰りいただくことはできません」
「そんな……!」
「我々が貴方たちを招いたこの世界『ネオ』は、貴方たちの故郷と非常によく似た並行世界。ですが、決定的な違いが二つあります」
楼門は指を二本立てた。
「一つは、貴方たちの世界でいえば、そうですね、『魔族』とでも呼びましょうか。要するに、人類の敵とも言える生命体が住み着いていること。そしてもう一つは、数百年にわたり人類を脅かし続けている『混沌のエンティティ』という怪物の存在です」
楼門の声色が、厳格なものへと変わる。
「我々アルカディアは、極秘裏にその脅威と戦い続けてきました。しかし、敵の力は強大だ。世界は今、均衡を保つのがやっとの状態なのです。……だからこそ、別世界から強力な魔那を持つ貴方たちを呼び寄せた」
「なんでわざわざ別世界の俺たちを召喚する必要がある?」
やや興奮気味に問いを投げかけたのは小林だった。楼門の言葉に、彼は敏感に反応していた。
「召喚……あなたはどうやら多少の知識がありそうだ」
楼門は口角を緩ませ、小林、そして生徒全員に語り掛ける。
「先ほども申し上げたように、貴方たちには莫大な魔那が宿っています。魔那、そうそれは、簡潔に言えばエネルギーです。このネオという世界で、混沌の脅威に立ち向かう為に必要な力。その魔那を軸に、我々は魔法や超能力といった多彩な力を発揮することができる――」
楼門はわざとらしく両手を広げた。まるで演劇の最中のように。
「魔那とは、人体にのみ宿る特殊な生体エネルギーです。大気や大地といった自然界には一切存在しません。だからこそ――」
楼門は言葉を区切り、生徒たち一人一人の顔をねめつけるように見渡した。
「その質と量には、残酷なまでの個人差が生じます。後天的に増やすことは難しく、生まれ持った『器』ですべてが決まる。……残念ながら、ネオの人類が持つ魔那はあまりに少ない」
楼門は嘆くように肩をすくめた後、期待に満ちた目で生徒たちを見た。
「対して、貴方たち別世界の人間は違います。貴方たちの体内には、生まれながらにして我々の数百倍もの高純度な魔那が宿っているのです」
「す、数百倍……?」
「ええ。その莫大な魔那があって初めて、エンティティに対抗しうる強力な異能が発現する。つまり、貴方たちは存在そのものが、この世界を救うための『最終兵器』になり得るのです」
自分たちは、生まれながらにして特別だった。
その事実は、劣等感や不安を抱える思春期の彼らの自尊心をくすぐるには十分すぎる殺し文句だった。
人類を守るための戦い。その大義名分が生徒たちの良心を刺激する。だが、それでも「帰れない」という事実は重い。空気が沈みかけたその時、楼門は切り札を切った。
「もちろん、永住しろとは言いません。脅威が去れば、必ず元の世界へお送りします。それに……ご安心ください。時間の心配なら無用ですよ」
楼門は、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「この世界『ネオ』と、貴方たちの世界の時間の流れは異なります。こちらの世界での一日は、向こうの世界ではわずか一分程度に過ぎません」
「えっ……?」
生徒たちが顔を見合わせる。一日が一分。単純計算で、ここで一年過ごしたとしても、元の世界では六時間程度しか経っていないことになる。
「つまり、ここで貴方たちが勇者として成長し、世界を救う大冒険をして帰還したとしても……向こうでは『ちょっと昼寝をしていた』程度の時間しか経過していないのです。貴方たちの――ニッポンという国の寓話でいうところの、浦島太郎の逆バージョン、と言えば分かりやすいでしょうか?」
「マジかよ……精神と時の部屋じゃん」
「それなら、親にバレることもない……?」
「異世界で冒険しても、戻ったら普通の高校生に戻れるってこと?」
その「真実」は、劇薬だった。生徒たちの心にあった「帰らなければならない」というリミッターが、音を立てて外れたのだ。リスクがないなら、冒険してみたい。特別な力を手に入れて、英雄になってみたい。
楼門は、安堵と期待に色めき立つ生徒たちの表情を満足げに見渡した。
「さあ、心配事はなくなりましたね? 世界を救う英雄への第一歩、踏み出してみませんか」
もはや、躊躇う者はいなかった。ただ一人、加賀瀬善嗣を除いて。
彼はいまだ楼門を怪しむように、鋭い目を彼から離さなかった。
楼門はその眼光に気づいていた。だが彼は、一瞥しにやりと笑みを返すだけだった。そして手元のタブレット端末を操作し、朗らかに告げた。
「では、気を取り直して。英雄への第一歩を、改めて! 踏みなおしましょう! さあ! 最初に力を顕現するのは、ええと、一番最初は……」
楼門の視線が、タブレット上の名簿の最上段で止まる。
「――相藤愛さん、前へ」




