017 メモリーダイブ・参
夜の帳が下りたアルカディア本部。
その最上階に位置する管理部長室は、広大な闇に沈んでいた。
照明は落とされ、ただ一点、デスクの上のタブレット端末だけが青白い光を放っている。その人工的な明かりが、闇の中に楼門の顔を幽鬼のように浮かび上がらせていた。
楼門は、画面に羅列された報告書を睨みつけていた。
普段の彼が顔に張り付けている「人好きのする笑顔」は、そこにはない。あるのは、理解不能な事象に対する困惑と、焦燥に彩られた真剣な眼差しだけだ。
報告書の内容は、先ほど松野楓の『海馬潜入』によって抽出された、ドーモスの記憶データだ。
『対象:ハンプトンと名乗る男』
『能力:不明』
『特記事項1:銃器の無力化および植物(向日葵)への物質変換』
『特記事項2:接触による魔那過剰分泌亢進症の即時抑制』
『特記事項3:加賀瀬善嗣の転移を、一か月前から正確に予言』
(……デタラメだ)
楼門は奥歯を噛みしめた。
脳裏に、松野楓の報告する姿が蘇る――。
『あ、あの、銃からお花がポンポン出てきて……それで、おでこにこう、指を触れただけで、真っ青だったナランちゃんの顔が綺麗になって……!』
彼女の語り口は支離滅裂で、要領を得なかった。だが、彼女の見た記憶に間違いはなかった。
ハンプトン。この男は、アルカディアが管理する秩序の外側にいる。加賀瀬善嗣というNULL以上に、危険な因子だ。
「……珍しく真剣な顔だね」
不意に、背後から声が降ってきた。
気配はなかった。足音も、衣擦れの音さえも。闇そのものが凝縮して言葉を発したような、唐突な声。
「ッ……!?」
楼門の目が一瞬見開かれ、反射的に振り返る。
そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
闇に溶け込むような黒いコート。漆黒の髪。そして、唇には冷笑を浮かべている。
楼門は僅かに乱れた呼吸を整えると、すぐに呆れを含んだ溜息をついた。
「……何度も言っているでしょう。部屋に入る時はまずノックしてくださいと」
「したさ。心の扉をね」
「貴方に開ける扉はありませんよ」
男は「まあまあ、そう怒らないでよ」と軽薄に笑うと、許可も取らずにデスク前の応接用ソファへ身を投げ出した。
革張りのソファが、男の体重を受けて深く沈み込む。その所作には、この部屋の主である楼門への敬意など微塵もない。
楼門はタブレットの電源を落とし、デスクに肘をついて指を組んだ。
青白い光が消え、二人の間には月明かりだけの薄暗い空間が広がる。
「何の用ですか――冥楽室長」
楼門の低い問いかけに、監察室室長・冥楽は、楽しそうに足を組んでみせた。
「記憶を探る能力者が発掘できたんだってね。それで、件の加賀瀬善嗣の登場を予言していた人物がいたとか?」
冥楽はソファの背もたれに深く身を預け、天井を仰ぎながら独り言のように言った。
楼門は不快そうに眉間を指でつまんだ。
「もう報告書をお読みになったんですか? 貴方にしては珍しい勤勉さだ」
「まさか。文字を読むのは苦手でね。絢風ちゃんから聞いたんだよー」
「……彼女には、他言無用とお願いしたんですがね」
「どうしても加賀瀬善嗣をぶっ殺したいみたいだね、絢風ちゃんは」
冥楽はニヤニヤと笑いながら足を組みなおした。
「もちろん、お断りしたんでしょうね?」
「もちのろんだよ」
「彼女がこれ以上首を突っ込まないように、手綱をしっかり握っておいていただきたいものです。彼女は優秀ですが、優秀すぎて時折暴走する」
「はいはい、善処しますよ」
冥楽は軽く手を振ると、不意に声を潜めた。その瞳から、道化の色が消える。
「ところでさ」
「……?」
「加賀瀬善嗣のドラマチックな登場を一か月前から予言した、ハンプトンとかいう謎の男。これってさあ、つまり――楼門君が『エボケーションプロトコル445』を実行して、加賀瀬善嗣という転移人を呼び出すことを知っていた、ということになるよね?」
エボケーションプロトコル――それはアルカディアが極秘裏に遂行する、異世界からの召喚儀式の総称だ。末尾の『445』とは、今回召喚された県立天明東高校三年一組の三八名を示す管理ナンバーである。
計画の立案から実行まで、トップシークレット中のシークレット。外部の人間が知り得るはずのない情報だ。
「……考えすぎ、とも言えますね。エボケーションプロトコルそのものを予期していたのか、或いは加賀瀬善嗣という個人の運命だけを知っていたのか」
「どちらにせよ、そのハンプトンとかいう謎の男は、我々のシナリオを超えた『未来』を視る力を持っているわけだ」
「それだけじゃありませんよ。弾丸を花に変える奇天烈な手品に……不治の病であるアグレッション状態を、たった指一本で抑制する力」
「すごい人だねぇ」
冥楽は他人事のように感心してみせたが、その目は笑っていなかった。
「……貴方ももう、お気づきでしょう?」
楼門が試すような視線を投げる。冥楽は口角を吊り上げたまま、無言で続きを促した。
楼門はため息をつき、タブレットの画面をタップした。
「ハンプトン。記録によれば、五年前の『千月塔事件』――名だたる魔法使いたちが起こした前代未聞の魔法協会クーデター未遂事件。その実行犯の一人でありながら、謀反を起こした魔法使いたちを全員無傷で拘束し、事件を収束させた男。彼の名もまた、ハンプトンでした」
「ああ、あったねえそんな怪事件。二〇年ぐらい前の『ムサシタワー人質立て籠り事件』の陰の立役者と噂されている人物の名前も、確かハンプトンだったような?」
「ええ。歴史の影に現れては消える、正体不明のトリックスター」
楼門は空中に指で文字を綴った。
「ハンプトン。アルファベットで表すなら『HAMPTON』……。要するにこれは、子供だましのアナグラムです」
「…………」
冥楽が興味深そうに身を乗り出す。
「文字を入れ替えると……口に出すのも億劫になる、とある存在の名が浮かび上がってきます」
「……嫌だねぇ、本当に」
「H、A、M、P、T、O、N……並び替えれば『PHANTOM』――ファントム」
楼門はその名を口にした瞬間、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。
「つまり彼、或いは彼女の正体は、変幻自在で神出鬼没の魔法使いと謳われる、この世で最も敵に回したくない存在――」
楼門は頭を抱え、吐き出すように言った。
「『破壊と創造のエンティティ』」
その禁忌の名が唇から零れ落ちた途端、冥楽はバネ仕掛けのようにソファから立ち上がった。
「やめとこ」
冥楽はぼそりと、吐き捨てるように言った。
楼門は眉一つ動かさず、ただ黙ってその姿を見つめている。
「珍しく君と見解が一致したみたいだ」
冥楽は踵を返し、出口へと歩き始めた。その足取りには、先ほどまでの余裕や道化の色は一切ない。純粋な忌避。一秒でも早くこの話題から、この部屋から立ち去りたいという拒絶の意思が滲んでいた。
「ボクはこの件、これ以上関わらないようにするよ。絢風ちゃんにも厳しく言っておくね。『死にたくなければ忘れろ』って」
そのあまりの変わり身の早さに、楼門は鼻で笑った。
「相手がファントムだから怖気づいたんですか? 監察室長ともあろうお方が」
「そりゃそうでしょ。自殺願望はないんでね。それに楼門君、君だってさっきから生まれたての小鹿みたいに足がブルブル震えてるけど?」
「……震えてませんが」
実際、楼門の足は石像のように微動だにしていない。だが、冥楽の言葉は単なる煽りではなかった。楼門の内心にある戦慄を、的確に揶揄していたのだ。
「まあ、確かに……私も、加賀瀬善嗣にはこれ以上関わらないのが賢明だとは思います」
「それじゃあ、組織長にお願いするしかないね。脱走したNULLを今回ばかりは見逃してもよろしいでしょうか? 何せ相手のバックには、『破壊と創造のエンティティ』こと最強の魔法使いファントムが潜んでいるんですよって」
「…………」
「まあ、組織長が何を言おうが、『世界』様が黙っちゃいないだろうけどね」
冥楽が出入り口の前に立つと、センサーが反応し、無機質な白いドアがすうっと横にスライドした。
廊下の人工的な明かりが、細長い光の帯となって真っ暗な部屋に侵入する。
逆光に照らされた冥楽の横顔は、影に沈み、冷徹な死神のように見えた。
「捕らえたおじいちゃんと子供はどうするの? 殺しとく? どうせスラム街の野良犬みたいな連中だし、処分したって世間は騒ぎもしないだろうね」
「ドーモスさんはともかく、ナランさんは希少価値のある個体として研究対象となるでしょう」
「そっか。……パンドラの箱だと思うけどねぇ」
「…………」
「じゃ、お疲れ!」
冥楽は片手をひらりと振ると、光の向こうへと去っていった。
再びドアがスライドし、完全なる密閉と暗闇が管理部長室を支配する。
残された楼門は、デスクの上のタブレット――ハンプトンの報告書を見つめ、静かに呟いた。
「パンドラの箱なら、すでに開けてしまっていますよ」
その声色には、恐怖を押し殺し、決意へと変えた者特有の、静かで重い怒気が籠っていた。




