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016 メモリーダイブ・弐

 一か月前の、土砂降りの夜だった。


 カワチのスラム街の片隅にある、古びた診療所兼住居。

 湿気た壁紙と、染みついた薬品の臭い。そして部屋の隅にある古臭いベッドからは、ヒュー、ヒューという、壊れた笛のような呼吸音が絶え間なく響いていた。


『……う、ぅ……』


 ベッドに横たわっているのは、幼い少女ナランだ。

 だが、その姿は痛々しいという言葉では足りなかった。


「魔那過剰分泌亢進症」。彼女の両腕は壊死したように青黒く変色し、その浸食は首筋から顎、そして額の一部にまで達している。毒素と化した自らの魔那に焼かれ、彼女は高熱と激痛の中で浅い呼吸を繰り返していた。


『よし、終わったぞ』


 部屋の中央で、ドーモスは血の付いたガーゼをゴミ箱に投げ捨てた。


 彼の目の前には、腕を刃物で切られたチンピラの男が座っている。


『暴れるならよそで暴れな。次は縫ってやらんぞ』


『へへ、すまねえ先生。やっぱり先生の腕は確かだ。命拾いしたよ』


 強面のチンピラが、ドーモスに対して深々と頭を下げる。スラムの住人にとって、金のない者でも見捨てずに治療してくれる元医者のドーモスは、絶対的な恩人であり、アンタッチャブルな存在だった。


『とっとと行け』


『ああ、ありがとよ!』


 男は何度も礼を言いながら、雨の中へと駆け出していった。


 ドーモスはため息をつき、手についた血を洗い流そうと水道の蛇口を捻った。


 その時だった。


『……失礼しますよ』


 帰った男と入れ替わるようにして、新たな来訪者が現れた。


 スラムには似つかわしくない、仕立ての良い黒いスーツに、黒い傘。


 雨に濡れた靴音を響かせ、その男は、勝手知ったる他人の家のように土足で踏み込んできた。


『あんた誰だ?』


 ドーモスがタオルで手を拭きながら睨みつける。


『私はハンプトンといいます』


 ハンプトンは傘を畳み、感情の読めない爬虫類のような笑みを張り付けた。


『この辺りに凄腕のお医者様がいると聞いたもので。ぜひみていただきたいと思いましてね』


『生憎だが俺はもう医者じゃない。ただの隠居ジジイだ。帰ってくれ』


 ドーモスは冷たく突き放し、背を向けた。だが、ハンプトンは帰るどころか、部屋の奥――ナランの眠るベッドへと視線を向けた。


『……なるほど。あのお孫さんが、貴方が医者を辞めた理由ですか』


『……なに?』


『「魔那過剰分泌亢進症」。末期ですね。青い痣が額まで回っている。あと一か月もてばいいほうでしょう』


『黙れ! 部外者が勝手なことを言うな!』


 ドーモスが声を荒らげる。だが、ハンプトンは動じない。


『私なら、彼女を完治させるコネクションがあると言ったら?』


 その言葉に、ドーモスの動きが凍り付いた。完治。それは彼が夢に見続け、そして医学的に不可能だと絶望した言葉だった。


『……ふざけるな。そんなこと、できるわけが』


『論より証拠だ。手始めに、少し楽にして差し上げましょう』


 ハンプトンはそう言うと、悠然とナランのベッドへ歩み寄り始めた。


『近づくな!』


 ドーモスの理性が飛んだ。孫に何をする気だ。

 彼は衝動的に棚の上にあった水平二連式のショットガンを掴み取り、ハンプトンへと銃口を向けた。


『それ以上一歩でもナランに近づいてみろ! 頭を吹き飛ばすぞ!』


 至近距離での殺害予告。引き金には指がかかっている。


 だが、ハンプトンは立ち止まらなかった。彼は銃口を見ても、まるで道端の小石を見るかのように気にも留めない。


『落ち着いてください。危害を加えるつもりはありませんよ』


『来るなと言ってるんだッ!』


 ドーモスは躊躇なく引き金を引いた。


 スラムで生きる彼に、殺人の躊躇いはない。轟音が部屋を揺るがす――はずだった


 カチッ。

 間の抜けた音が響いた。


 不発か? いや、違う。銃声の代わりに、黒光りする銃口から「それ」は飛び出した。


 ボフッ。

 飛び出したのは、鉄の弾丸ではなかった。


 鮮やかな黄色い大輪――向日葵だった。


 茎のついた向日葵が、まるで手品のように銃口からニュルリと現れ、だらりと力なく垂れ下がったのだ。


『は……?』


 ドーモスはあっけにとられ、垂れ下がった花を見つめた。


 ハンプトンは振り向きもしない。ナランの元へゆっくりと歩を進めながら、独り言のように呟いた。


『どこかの国では、「ナラン」とは「太陽」を意味する言葉らしいですよ。彼女には向日葵がよく似合う』


『な、なんだこれは……どうなってる!?』


 ドーモスは我に返り、パニックになりながら再度引き金を引いた。


 カチッ、ボフッ。今度は二輪目の向日葵が飛び出し、床に落ちた。


 もう一度引く。カチッ、ボフッ。


 三輪目。四輪目。引き金を引くたびに、殺意の象徴である銃から、場違いに明るい夏の花が面白おかしくポンポンと飛び出してくる。


 それは悪夢のような、狂気じみた光景だった。


『なんだってんだ!?』


 ドーモスは腰を抜かしそうになりながら、花束と化したショットガンを取り落とした。


 ハンプトンは既にベッドの脇に立っていた。


 彼は苦しそうに喘ぐナランの顔を覗き込むと、その爬虫類めいた表情を一瞬だけ崩し、どこか慈悲深い、聖職者のような顔を垣間見せた。


『可哀そうに。苦しかったね』


 彼は白い手袋を外し、ナランの青黒く染まった額に、そっと指を添えた。その一瞬、彼の目がほんの少し桃色に輝いたのを、誰も知る由はない。


 スゥ……。


 奇跡が起きた。指が触れた場所から、汚泥のような青黒い変色が嘘のように引いていく。  壊れた笛のようだった呼吸音が、静かな寝息へと変わる。


 苦痛に歪んでいたナランの表情が、安らかなものへとほどけていった。


『な、なにをしたんだ……』


 ドーモスはへたり込んだまま、呆然と呟いた。


 魔法か、それとも神の力か。


 ハンプトンはゆっくりと振り返り、何事もなかったかのように手袋をはめ直した。


『一時的に症状を抑え込んだだけです。あくまでその場しのぎに過ぎませんがね』


 ドーモスは戦慄した。床に散らばる向日葵。安らかに眠る孫娘。そして、目の前に立つ黒服の男。


 理解した。いや、理解させられた。


 この男は、ただ者ではない。人知を超えた怪物だ。


『……あんた、何が望みだ』


『さっきも言ったように、みて、ほしいんですよ』


 ハンプトンはニヤリと笑い、ドーモスを見下ろした。


『これから一週間から半年の間に、この空から「()()()()」が落ちてきます。彼を診ていただきたいんです』



***



 向日葵の乱舞から数分後。ドーモスは震える手で淹れたコーヒーを、作業台を兼ねたテーブルに置いた。湯気と共に、安っぽいインスタントの香りが湿気た室内に漂う。


 ハンプトンは優雅にカップを手に取り、一口啜ると「良い香りだ」と嘘のようなお世辞を言った。


『……さっきは悪かったな』


 ドーモスは自身のマグカップを両手で包み込み、バツが悪そうに謝罪した。


 ハンプトンは「全然ですよ」と笑って返す。その笑顔は完璧すぎて、逆に不気味だった。


『それで、なんだって? 空から落ちてくる男を助けろと?』


『はい。その少年の名前は伏せますが、転移人です。……貴方が転移人を毛嫌いしているのも知っていますよ。あの子の両親に何があったのかも』


 ハンプトンは流し目で、ベッドで寝息を立てるナランを見た。


 ドーモスの肩がピクリと跳ねる。それは彼にとって、そしてナランにとっても、触れられたくない古傷だった。


『……お前さん、何者なんだい?』


『私のことはさておき――どうです? 頼まれてくれますか?』


 ハンプトンは問いをはぐらかし、核心へと迫る。


『……ナランを助けてくれたことには感謝している。だが、人が空から落ちてきたらまず間違いなく死ぬだろう? それを診ろというのは、つまり死体を診ろということか?』


『ご心配なさらず。彼は間違いなく空から落ちてきますが、生きていますので』


『転移人ゆえに、何かしらの超能力でも持っているのか?』


『うーん、どうでしょう。そこは私も未知数なんですが。まあ、とにかく天空から落ちてもなお死なない男、だと認識してもらえれば結構です』


 ハンプトンは他人事のように肩をすくめた。


『……わかった。いや、わかっていないが。とにかく、近いうちに不死身の男が空から降ってくるから、そいつが完治するまで診ればいいんだな?』


『その通りです!』


 ハンプトンはパチンと指を鳴らした。


『普通なら信じないが……』


 普段なら鼻で笑って追い返す話だ。だが、部屋に散らばる向日葵と、安らかに眠るナランの寝顔が、彼の常識を粉砕していた。


 この男の言葉には、理屈を超えた強制力がある。


『おそらく私の予想では、一、二週間もすればその少年は完治するでしょう。そのあとは、彼を無理やり追い出してもらっても構いません』


『妙な話だな……』


『その後、時期を見計らってまたこちらにお邪魔します。その時は――奇跡を起こす医者と謳われた、とある天才ドクターを紹介しますので』


『ナランの病を治してくれるのか?』


 ドーモスが身を乗り出す。


『アグレッション状態を完治させるという話は、いまだかつて聞いたことがありませんが……その「奇跡の医者」と呼ばれる彼女なら、それをやってのけるでしょう』


『……信じていいんだな』


『信じてください』


 ハンプトンはテーブル越しに手を伸ばし、ドーモスの手を強く握りしめた。


 万力のような力強さ。そして、その瞳の奥にある、深淵のような光――それは、淡い桜色にも見えた。ドーモスは一瞬圧倒され、喉の奥で言葉を詰まらせた。


『……わ、わかった』


『ありがとうございます』


 満足げに頷くと、ハンプトンは立ち上がり、ボロボロの玄関へと歩み寄った。


 彼は黒い傘を開き、土砂降りの夜闇を振り返った。


『では、ドーモスさん。また今度』


 男は雨音の中に溶けるように消えていった。


 ドーモスは狐につままれたような感覚で、しばらく呆然としていた。

 やがて我に返り、ナランの元へ歩み寄る。青い痣が消えた額。規則正しい呼吸音。


『ナラン……』


 ドーモスの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた――直後。


 ザザッ……ザザザッ……。


 楓の視界がぐにゃりと歪む。


 映像と音声に激しいノイズが走り、世界が高速で回転する。


 記憶の時間が飛ぶ。一か月という月日が、走馬灯のように早送りされていく。


 やがて回転が止まると、そこは昼間の穏やかな日差しが差し込む室内へと切り替わっていた。


『ふふふ~ん♪』


 すっかり元気になったナランが、室内で何やら鼻歌を歌いながら絵を描いている。それをあの日以来、片時も離れず見守るドーモス。


 その平穏を破るように、玄関扉が乱暴に叩かれた。


『ドーモスさん! ドーモスさん!』


 転がり込んできたのは、息を切らした若いチンピラの一人だった。


『なんだいきなり。騒々しい』


『例の……! 空から落ちてくるかもっつう男が……!』


 ドーモスの動きが止まった。


『まさか、本当に男が落ちてきたのか!?』


『俺のダチが空から降ってくるのを見たってよ! 南東のほうだ! すげえ音と土煙だったって!』


『……わかった』


 ドーモスは弾かれたように立ち上がり、壁にかけてあった上着を掴んだ。


 ついに来たのだ。あの悪魔との契約を履行する時が。


 彼は工具箱に医療キットを詰め込み、出かける準備を急いだ。

 それを見たナランが、絵を描く手を止めて声を上げた。


『私もいく!』


『駄目だナラン、今から仕事なんだ。危ないから家でじっとしていてくれるかい?』

『やだ! 私もいく! お花を見に行く!』


『……しょうがないな』


 ドーモスは困ったように眉を下げた。生まれてからずっと病魔に苦しめられ、外遊びもままならなかった孫娘だ。その輝くような笑顔を曇らせることは、彼にはできなかった。


『絶対に俺のそばを離れるんじゃないぞ』


 ドーモスはナランの手を引き、チンピラの後を追ってスラムを駆け抜けた。


 南東の廃墟区域――錆びついた鉄骨とコンクリートの墓場。そのさらに奥地、瓦礫の山の頂に、それはあった。


 粉塵が舞う中、一人の男が仰向けに倒れていた。


 黒い詰襟の学生服。あちこちが破け、血に染まっている。ドーモスには一目でわかった。それが転移人特有の衣装であることを。


『……こいつがそうか』


 近づいて息を呑む。

 酷い惨状だった。瓦礫の破片が身体中に突き刺さり、手足は不自然な方向に曲がっている。全身打撲に複雑骨折。常識的に考えれば、即死以外のなにものでもない。


 だが、あの男は――生きている、と言っていた。


 ドーモスは恐る恐る屈みこみ、その男の首筋に指を添えた。


 血まみれの皮膚の下。


 トクン……トクン……。

 弱々しく、しかし確かな鼓動が指先を叩いた。


『……生きてる』


 ドーモスは呆然と空を見上げた。


 雲の切れ間から覗く、青すぎる空。あそこから落ちて、生きているだと?


 ハンプトンの言葉は真実だった。この男は、常識の外側にいる。


『死んでるのかい?』


 後ろから追いついてきたチンピラが不安げに尋ねるが、ドーモスは答えなかった。


 彼は再び男の顔を見た。苦悶に歪むその表情。


 今まさに、この男の魂は三途の川の淵を彷徨っているのだろう。


『おじいちゃん! その人、生きてるの?』


 足元で、ナランが心配そうにドーモスの服の裾を握りしめている。


 ドーモスはその小さな手をギュッと握り返した。


 この男を助けること。それがナランの未来に繋がる。あの悪魔との契約だとしても、孫娘を救えるのなら魂だって売ってやる。


 ドーモスは振り返らず、強い意志を込めてこう答えた。


『ああ、絶対に治してやる』

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