014 魔斬・参
やがて――東の空が、群青色に染まり始めていた。
夜と朝の狭間。世界が最も静まり返るその時間帯に、廃工場だけは異様な熱気に包まれていた。
ブォンッ! ブォンッ!!
空気を切り裂く重低音が響き渡る。
加賀瀬善嗣は、鉄球をまるで玩具のヨーヨーのように軽々と振り回していた。
鎖が風を巻き込み、一〇〇キロの鉄塊が唸りを上げる。半日前にはピクリとも動かせなかったそれが、今や彼の手足の延長のように自由自在に舞っていた。
『歩』で天を取り込み、『環』で全身に巡らせる。その循環は、もはや呼吸と同じレベルで無意識化されていた。
「ふわぁ……」
その光景を、麗香はあくび交じりに眺めていた。
彼女は退屈そうに涙目をこすりながらも、その口元には満足げな笑みを浮かべている。
「上等だね」
麗香がつぶやく。その声は小さかったが、鉄球の風切り音を縫って加賀瀬の耳に届いた。
「それを私に向かって投げな!」
「……は?」
加賀瀬は動きを止めず、回転の遠心力を維持したまま聞き返した。
「え? いいのか?」
「誰に向かって口を利いてるんだい。いいから、全力で来な」
麗香は挑発するように、クイクイと手招きをした。その立ち姿には、一片の隙も、そして防御の姿勢すらない。ただ無造作に立っているだけだ。
加賀瀬は一瞬躊躇したが、すぐに覚悟を決めた。この女の底知れなさは、身をもって知っている。手加減など無用だ。
「知らねえぞ……ッ!」
加賀瀬は踏み込んだ。全身に巡らせた『天』を、腕力へと変換する。遠心力に、全身のバネを乗せる。
解き放たれた鉄球は、先日の漠頭の一撃をも凌駕する速度で、一直線に麗香の顔面へと迫った。死の砲弾。直撃すれば頭蓋骨ごと消し飛ぶ威力。
だが、麗香は笑っていた。
「――見ときな」
彼女が短く呟き、右拳を突き出した。
それは、防御でも受け流しでもない。真正面からの「迎撃」だった。
華奢な拳が、巨大な鉄塊と衝突する。
ドォォォォォォォンッ!!
爆音が鼓膜を叩いた。衝撃波が廃工場内のガラスを震わせ、土煙が舞い上がる。
加賀瀬は思わず腕で顔を覆った。
パラパラパラ……。
やがて、乾いた音が周囲に響き始めた。空から降ってくるのは雨ではない。
粉々に砕け散った、鉄の欠片だった。あの一〇〇キロの鉄塊が、たった一撃で微塵に粉砕され、鉄屑の雨となって降り注いでいたのだ。
「……嘘だろ」
加賀瀬は呆然と立ち尽くした。
土煙の向こう。麗香は傷一つない拳を軽く払い、涼しい顔で立っていた。
「体内に留めた『天』を一気に解放し、対象に叩き込む。――これが『一発』だ」
彼女は空中の鉄粉を鬱陶しそうに払いながら解説する。
「天を循環させるだけじゃ、身体能力が上がるだけだ。だが、一点に凝縮し、それを爆発させれば、こうして物理的な破壊力を生むことができる。魔斬における最初の鬼門と言っていいだろうね」
「凝縮して……爆発させる……」
加賀瀬は自分の拳を見つめた。ただ殴るのではない。体の中にあるエネルギーを、弾丸のように撃ち出す感覚。
「パワーを一気に解放するんだな」
「ご名答。単純だが、奥が深いよ。タイミングを誤れば自分の腕が吹き飛ぶからね」
麗香はニヤリと笑うと、昇り始めた朝日に目を細めた。
「さて、夜明けだ。基礎はおしまい。……ここからが本番だよ、加賀瀬」
「……今から本番かよ」
加賀瀬は額の汗を拭いながら呟いた。
既に『歩』と『環』の習得で、精神的な疲労はピークに達しているはずだ。だが、不思議と体は軽かった。取り込んだ「天」が、枯渇しかけた細胞の一つ一つに活力を注ぎ込んでいる感覚がある。
「今のを見て分かっただろう? 『環』で全身を強化しただけじゃ、あの鉄球を持ち上げることはできても、粉砕することはできない」
麗香は足元の鉄屑の山を爪先で蹴散らした。
「殴って壊す。斬って裂く。敵を倒すための殺傷力を生むには、巡らせたエネルギーを一点に凝縮し、爆発させる必要がある。それが『地』であり、そこから繋がる『一発』だ」
彼女は顎で、工場の隅にあるH鋼の柱をしゃくった。厚さ数センチはある頑強な鉄骨だ。
「あれを殴ってみな」
「……素手でか?」
「ああ。今の『環』の状態なら骨折はしないだろうが……せいぜい『痛い』で終わるだろうね」
試されている。加賀瀬は短く息を吐くと、鉄骨の前に立った。
意識を集中する。体内に渦巻く奔流を感じる。
鋭い呼気と共に、右正拳突きを叩き込んだ。
ガンッ! と硬質な音が響く。
「――っぐ!」
加賀瀬は顔をしかめて手を振った。鉄骨には微かな窪みができた程度。対して、拳の皮が剥け、ジンジンとした痛みが走る。
「だよね」
麗香は予想通りと言わんばかりに肩をすくめた。
「お前は今、ホースの水を出しっぱなしにしている状態だ。それじゃあ水圧は上がらない。破壊力を生むには、出口を指で押さえ、圧力を極限まで高めなきゃいけない」
彼女は加賀瀬の背後に回り、その右腕を指先でなぞった。肩から、肘、そして手首へ。
「流れる天を、拳という一点で堰き止めるんだ。流れを強制的に『留める』。奔流が行き場を失い、内側で暴れ回る感覚……それをねじ伏せて、固めるのが『地』だ」
「留める……」
言うは易しだ。ようやく覚えた「循環」という心地よい流れを、意志の力で遮断する。それは、全速力で走っている車を急ブレーキで止めるような強烈な負荷を伴うはずだ。
「やってみるさ」
加賀瀬は再び構えた。
歩――大気中のエネルギーを吸い上げる。
環――全身へ送り込む。
そして――地。
右拳に意識を集中させる。血管を流れるエネルギーの奔流に対し、手首に見えないダムを作るイメージ。
流れろ。いや、止まれ。ここに集まれ。
(……ぐ、重てぇ……!)
異変はすぐに起きた。
行き場を失った「天」が、右拳の中で圧縮され、どす黒い熱を持ち始めたのだ。腕が鉛のように重くなり、血管が悲鳴を上げて脈打つ。制御を誤れば、自分の腕が内側から破裂しそうな恐怖。
「焦るな。漏らすな。ギリギリまで溜めろ」
麗香の囁きが耳元で響く。
加賀瀬の右腕が、微かに紅くなっていた。
「今だ、放てッ!」
その号令が、トリガーだった。
加賀瀬は堰き止めていたダムを一気に決壊させた。
「オラァッ!!」
渾身の一撃が、鉄骨に突き刺さる。
先ほどとは明らかに違う、重く低い衝撃音が響き渡った。
廃工場全体が揺れたような錯覚。
加賀瀬の拳は、硬い鋼鉄の中に深々とめり込んでいた。
「はぁ……はぁ……ッ!」
拳を引き抜くと、そこには明確な「破壊」の痕跡が刻まれていた。厚さ数センチのH鋼が飴細工のようにひしゃげ、亀裂が走っている。
「……できた、のか?」
「及第点だね」
麗香はひしゃげた鉄骨を覗き込み、満足げに頷いた。
「完全に一点集中とはいかなかったようだけど、初めてにしては上出来だ。これなら、人間の頭蓋骨くらいなら容易くカチ割れる」
「物騒な基準だな……」
加賀瀬は痺れの残る手を握りしめた。
これが『一発』。己の肉体を超えた、純粋な破壊の力。魔那を持たざるNULLが手に入れた、世界に抗うための牙。
「さて」
麗香はパンパンと手を払い、朝日に照らされた廃工場を見渡した。
夜明けの空気は冷たいが、加賀瀬の体からは湯気のような熱気が立ち上っている。
「一旦、休憩といこうか」
「……え?」
加賀瀬は呼吸を整えながら、不満げに顔を歪めた。成功の余韻がまだ掌に残っている。H鋼をひしゃげさせたあの一撃。あの感覚が指先から逃げていくのが惜しかった。
「待ってくれ。せっかく何かを掴んだんだ。このままの流れで次にいきてぇんだが」
「無理は禁物だ。どんなにセンスはあれど、お前の身体はまだ素人なんだよ。意識と肉体の乖離は、時に寿命を縮める」
麗香が顎で加賀瀬の脚を指した。
言われて初めて気づく。加賀瀬の膝は、生まれたての小鹿のように小刻みに震えていた。極限の集中と慣れないエネルギー循環が、神経を焼き切る寸前まで酷使していたのだ。
「気持ちはわかるけどね。それに、次のステップは今までの比にならないくらい難しい。今のまま突っ込めば、確実に壊れるよ」
「……脅しか?」
「事実さ。『地』まで会得したお前でも、たぶん一日二日でどうこうできる代物じゃない」
麗香は煙管を取り出し、火をつけて深く吸い込んだ。
「魔斬の基礎はもうこれで終わりじゃないのか?」
「馬鹿言いな。今までのは『基礎の基礎』だ。言ったろう? 魔斬とは世界の理を盗む技術だって」
彼女は煙を吐き出し、その向こうから真剣な眼差しを向けた。
「次に学ぶべき――『立直』こそが、魔斬における真の基礎になる」
「……り、りーち?」
またしても麻雀用語だ。だが、麗香の顔にふざけた色は一切ない。
「そう。取り込んだ『天』を、体内で練り上げ、昇華させる。純粋な自然エネルギーを、お前自身の魔斬の動力――『和』へと変換する技術だ」
「天を……和に変える……?」
「天はあくまで原油だ。そのまま燃やすこともできるが効率が悪いし、制御も難しい。それを精製して、ハイオクガソリンに変えるのが『立直』さ。『和』を得て初めて、魔斬の奥義である『役』を繰り出すことができる」
「……要するに、必殺技を出すための準備みたいなものか」
「そう、その通り。理解が早くて助かるよ」
麗香はニヤリと笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「だが、その『変換』が地獄なのさ。異物を体内で別の性質に書き換えるんだ。精神力と繊細なコントロール、そして何より強靭なイメージ力が要求される」
「……そんなに難しいのか?」
「ああ。私が基礎を覚えるのに半年掛かったと言っただろう? その内の九割は、この『立直』の習得に費やした時間だ」
「……まじか」
加賀瀬は絶句した。この規格外の天才が、半年。それも九割の時間を費やした壁。
今の自分には、「歩」「環」「地」を一晩で駆け抜けた自負があった。だが、その自信が一瞬で揺らぐほどの重みが、彼女の言葉にはあった。
「だから、急くことはない。まずは休め。泥のように眠って、壊れた筋繊維を修復しろ」
麗香は加賀瀬の肩をポンと叩き、アルカディアの方角――北の空を見上げた。
「アルカディアに殴り込みに行くのは、当分先だ。死にに行くのが目的じゃないならね」




