013 魔斬・弐
逢魔が時。西の空を焼き尽くすような茜色が、廃工場の剥き出しになった鉄骨をどす黒い血の色に染め上げていた。かつては重機が唸りを上げていたであろう広大な空間は、今や静寂の墓場だ。割れた天窓から吹き込む風が、錆びついたダクトを鳴らして低い音を奏でる。床には瓦礫とガラス片が散乱し、埃とオイルの混じった乾いた匂いが鼻腔にまとわりつく。
世界から隔絶されたようなその場所で、紫煙の甘い香りがふわりと漂った。
「いいかい、これから教えるのは喧嘩の仕方じゃない。世界の理を盗む技術だ」
窓枠に腰掛けた麗香が、細長い煙管を教鞭のように振るった。その紫の髪が、夕陽を受けて妖しく輝く。
加賀瀬善嗣は、瓦礫の山に腰を下ろし、胡乱な目で彼女を見上げていた。
「実践に入る前に、まずは頭に叩き込んでおきな。魔斬の基礎となる三つのプロセスを」
麗香は煙管の先で、何もない空中に三つの点を描くような仕草を見せた。
「魔那が自身の魂から湧き出る『自家発電』だとしたら、魔斬は外の世界から電気をくすねる『盗電』だ。その手順は大きく分けて三つ――『歩』、『環』、そして『地』」
「……ポン、カン、チー?」
加賀瀬が眉をひそめる。聞き覚えのある麻雀用語そのままだ。
「ふざけてるわけじゃないよ。まずは第一段階、『歩』。これは『天』を体内に取り込む技術だ。呼吸よりも深く、毛穴の一つ一つから大気を喰らうようにエネルギーを摂取する。これが出来なきゃ始まらない」
麗香は煙管をくるりと回し、自身の胸元で水平に動かした。
「次が第二段階、『環』。取り込んだ天を、血液のように全身に循環させる。常に流動させ、肉体の隅々まで活性化させる。これによって身体能力は劇的に跳ね上がる」
「なるほど、身体強化ってわけか」
「そして最後が第三段階、『地』」
麗香は自身のヘソの下、丹田のあたりをトン、と指先で突いた。
「巡らせた天を、必要な時、必要な場所に『留まらせる』技術だ。あるいは丹田に圧縮して蓄える。この『地』が出来て初めて、技としての出力が可能になる」
彼女はそこで言葉を切り、鋭い視線を加賀瀬に向けた。
「この三つが揃ってようやく、攻撃への転換――『立直』や、打撃として放つ『一発』へと繋がる。……ま、今のお前には遥か先の話だけどね」
「随分と気の長い話だな」
「理屈は分かったかい? じゃあ、百聞は一見に如かずだ」
麗香はニヤリと笑うと、足元の瓦礫を蹴り飛ばした。
ガコン、と重い音が響く。そこには異質な物体が鎮座していた。
直径三〇センチの鉄塊。先日、漠頭という怪物が振り回していた凶器だ。麗香はいつの間にか、その鎖付き鉄球を回収していたらしい。
「持ち上げてみな」
「……冗談だろ」
加賀瀬は鎖を掴み、腰を入れて引っ張り上げようとした。全身の筋肉が軋み、血管が浮き出る。だが、微かに地面を擦るように動けどほんの数センチ。推定一〇〇キロ超。魔那による身体強化もなしに、生身の人間が扱える代物ではない。
「無理だ」
「だろうね。だが――」
麗香は加賀瀬の手から鎖をひょいと取り上げると、細い腕で軽く振ってみせた。
瞬間、鉄球が重力を忘れた風船のようにふわりと舞い上がった。
「なっ……!?」
「これが魔斬だ」
彼女は頭上へ放り投げた鉄塊が落ちてくるのを、掌で水を掬うように優しく受け止めた。ズシリ、という重みを感じさせない。まるで鉄球の重量そのものを消し去ったかのような所作だ。
ドスン、と足元に鉄球が投げ捨てられ、廃工場の床が悲鳴を上げた。
「まずは基本の『歩』からだ。さっき言った通り、天を体内に取り込む技術さ」
「……簡単に言ってくれるぜ」
「言っておくが、そう簡単な話じゃない。戦闘の達人と呼ばれる連中でさえ、この基礎を固めるのに平均で五年はかかる」
麗香はふふん、と鼻を鳴らし、少し誇らしげに胸を張った。
「ちなみに、この天才である私でさえ半年かかった」
「俺にそんな時間はねえぞ」
「普通ならね。だが――お前には可能性がある」
麗香の脳裏に、不意にセピア色の記憶が蘇った。
――夕焼けが燃えるような赤に染まった山頂。風になびく淡い桃色の長髪。その女性は、眼下の雲海を見つめながら、穏やかな声でこう告げたのだ。
――彼は、魔那を持たないゆえに、きっと魔斬を極めるのも早いだろうね。
(……ふん)
麗香は加賀瀬の目を真っ直ぐに見据えた。
「大丈夫だ、信じな。私が確信をもって言おう。お前なら出来る」
「……根拠のない自信だな」
加賀瀬は悪態をつきながらも、その瞳に宿る真剣な光に気圧されていた。
修行が始まった。だが、それは雲を掴むような作業だった。
「呼吸と一緒だ。私たちは酸素を無意識に取り込んでいる。天も同様に、無意識に取り込めるようにならないといけない」
「だからどうやってやるんだよ。見えねえもんをどう吸えってんだ」
「意識するだけでいい。天は、今この瞬間、目の前の空間に満ち満ちている。お前の肌に触れる空気、肺を満たす風、そのすべてに力が宿っている。それを、自分のものにするように意識するだけさ」
麗香は諭すように続ける。
「最初が肝心なんだ。突破口さえつかめれば、体が自然とそれを覚える。天を取り込む、『歩』という癖をね」
加賀瀬は言われた通り、両手を広げて天を仰いだ。だが、何も感じない。ただの空気が肌を撫でるだけだ。
「……なんも起きねえぞ」
「焦るな。その鎖を持て」
麗香が鉄球を指差した。
「普通の腕力ならそれを持ち上げることは出来ない。だが、天を取り込めば少しは宙に浮かせることができるはずだ。それをバロメーターにしな」
加賀瀬は鎖を手に巻き付け、再び鉄塊と向き合った。
意識しろ。空気中にある何かを、身体に取り込むイメージ。
呼吸。吸って、吐いて。その繰り返しの中に、異物を混ぜる感覚――
――やがて日は完全に落ち、廃工場の窓枠からは蒼白い月光が差し込んでいた。
麗香が持参したオイルランプの暖かな灯火が、二人の影を長く伸ばしている。
修行開始から、既に五時間が経過していた。
「んぐ、んぐ……」
麗香はどこから調達したのか、袋入りの菓子パンを頬張りながら、退屈そうに、しかし鋭い観察眼で加賀瀬を見守っていた。
加賀瀬は汗だくになりながら、微動だにしない鉄球と睨み合っている。
だが、その集中力は異常だった。五時間、ただの一度も休憩を挟まず、その意識を研ぎ澄まし続けている。
(……常人の域はとっくに抜けてるね)
魔那を持たないという欠落が、逆に彼を「天」という自然エネルギーに対して貪欲にさせているのか。飢えた獣が獲物を狙うような、純粋な渇望。
その時だった。
ジャラッ……。
乾いた金属音が、静寂を裂いた。
麗香の手が止まる。パンを口に運ぶ動作が凍り付いた。
鉄球が、浮いていた。
ほんの数センチではない。加賀瀬が鎖を引く動作に合わせ、あの一〇〇キロの鉄塊が、まるで発泡スチロールのようにふわりと宙に浮上したのだ。
だが、当の加賀瀬はその事実に気づいていない。無我の境地に入り込んでいる彼は、無意識のうちに鎖を引き上げ――気づけば、万歳をするような格好で、巨大な鉄球を頭上高く掲げていた。
「…………おい、まじかよ!?」
自分の腕の先に広がる光景に、加賀瀬自身が驚愕の声を上げた。
集中が途切れたのだろう。鉄球は重力を思い出したように、ドォンッ! と激しい音を立てて落下した。
「……驚いた」
麗香はパンの袋を取り落とし、立ち上がっていた。
「私の知る限り、『歩』の会得にかかった時間は史上最短だよ」
パチ、パチ、パチ。
静かな拍手が廃工場に響く。麗香の胸中に、再びあの桃色の髪の女の声が蘇る。
――麗香、たぶんきっと驚くよ! 彼はね――いずれ君をも越える。
(……ふん)
麗香はわずかに口角を緩め、悔しさと嬉しさが入り混じった複雑な笑みを浮かべた。
「今の感覚、忘れないように」
「……いや正直、覚えてねえ」
加賀瀬は荒い息を吐きながら、自分の掌を呆然と見つめている。
「大丈夫、頭じゃなくても体が覚えてるから」
麗香は落ちた鎖を拾い上げ、強引に加賀瀬に握らせた。
「もう一度やってみな」
加賀瀬は唾を飲み込み、再び鎖を引いた。だが、今度は鉄球は重く、びくともしない。
「くそっ、なんでだ……さっきはどうやった?」
「力むな。お前自身の筋力を使うんじゃない。お前の肉体はただの器だ。天という水を注ぎ込むコップになれ」
麗香の言葉が、脳に染み渡る。
加賀瀬は目を閉じ、イメージした。
皮膚にある無数の毛穴。その一つ一つが呼吸をし、空間に漂う未知のエネルギーを掃除機のように吸い上げていく感覚。
身体が熱くなる。血液とは違う何かが、血管を駆け巡る。
ズズズ……フワッ。
鉄球が、再び宙に浮いた。今度は加賀瀬の意志で。
「よし、そうだ。その感覚を全身に刻め!」
麗香の声が鋭くなる。
「取り込んだ天を、一か所に留めるな。心臓のポンプを使って、指先から足先まで循環させるイメージを持て。それが――『環』だ!」
加賀瀬は歯を食いしばり、体内に入ってきた奔流を制御しようと試みる。
暴れまわるエネルギーを、血管という水路に流し込む。巡らせろ。滞らせるな。 全身が脈打つ感覚。その循環が整った瞬間、麗香がニヤリと笑った。
「――隙ありッ!」
ドカッ!! 鋭い蹴りが、加賀瀬の脛を薙ぎ払った。
「ぐっ!? ――ッ!?」
加賀瀬は体勢を崩し、鎖を手放した。
「いきなり何しやがる!?」
「どうだい? ほんの少し力を入れて蹴ってみたんだが」
麗香は悪びれもせず、足をぷらぷらと振ってみせた。
加賀瀬は蹴られた脛をさすった。痛い。だが、骨が砕けるような激痛ではない。まるで分厚いゴムの上から蹴られたような、芯に届かない鈍い衝撃だった。
「……あれ?」
「ふん、少し前のお前だったら、たぶん片足が吹っ飛んでただろうよ」
「なに? どういうことだ」
「今のが『環』の効果だ。取り込んだ天を全身に巡らせることで、肉体そのものが強化される。自然と身体の硬度も上がるってわけさ」
「これが……環……」
加賀瀬は自分の体を見下ろした。見た目は変わらない。だが、内側には確かな力が満ちている。
五時間前には存在すら知らなかった力を、俺はもう使いこなしているのか。
「順調すぎてイラつく」
麗香は吐き捨てるように言った。その目には、指導者としての喜びよりも、才能への嫉妬が色濃く滲んでいる。
「じゃあ次だ。休んでる暇はないよ。今度は、取り込んだ天を全身に巡らせたあと、それを体内に留まらせる――『地』の修行といこうか」




