012 魔斬・壱
アルカディア本部、第三医務室。 空調の低い唸りだけが響く殺風景な部屋で、錬暖はベッドに身を預けていた。
視線の先には、点滴の調整を行う看護師の後ろ姿がある。外部から雇われたという彼女の、白衣越しにも分かる豊満な曲線を目で追うことだけが、今の彼に残された唯一の娯楽だった。
だが、そのささやかな慰みの時間は、唐突な電子音とドアの開閉音によって破られた。
「どうもー」
ノックもなしに現れたのは、軽薄な笑顔を貼り付けた楼門だった。
錬暖は反射的に「げっ」と顔をしかめたが、次の瞬間にはそれを仮初の愛想笑いへと塗り替える。
楼門は遠慮する素振りもなく、ベッド脇の丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「けがの具合はどうですか?」
「おかげさまで。アルカディア特製の防護制服を着ていなければ、今頃内臓が飛び散っていたことでしょう」
錬暖は包帯の巻かれた腕を少し動かし、冷ややかな視線を上司へと送る。
「いくつか骨は折れてますが」
「やがて治療特化の能力を備えた職員が来るみたいですから、それまでの我慢ですね」
「……それで、本題はなんでしょうか、楼門部長」
錬暖の声色が一段低くなる。
「まあまあそう気負わないで。怪我人を相手に仕事の話を急かすほど、野暮な男じゃありませんよ」
「報告書を後程まとめてご提出いたします」
「ええ、よろしくお願いしますね。ただ――」
楼門の目が、笑った形のまま光を失った。
「ただ?」
「その前に幾つかお聞きしたいことがあるんですよ」
「やっぱり仕事の話じゃないですか」
「ま、まあ、最終的にはそのつもりでしたが」
「勿体ぶらずに、本題に入りましょう。部長がお聞きしたいことはある程度察しておりますので」
ため息交じりに錬暖が促すと、楼門は軽く肩をすくめた。
「じゃあ、遠慮なく。それで――加賀瀬善嗣は生きてました?」
「ええ。漠頭の投げた鉄球が直撃してもなお、生きてましたよ。我々のように防護服を身にまとっているわけでもないのに」
錬暖の脳裏に、あの瞬間の光景が蘇る。普通の人間なら肉塊に変わっているはずの衝撃だった。
「ふむ……それはまた興味深い話ですね」
「彼が無能力者だという話が聊か信じがたい。空から落ちて生きている、という時点でもはや御伽噺のように思えますが」
「私も実際信じていません。飛行系の能力さえ持っているならば話は別ですが」
「あるいは死んでも生き返る能力とか?」
「過去にその例はありましたが、少なくともアンティキティラは魔那を検出していました。今回の加賀瀬善嗣の場合は違います。彼は能力はおろか、魔那さえも宿していなかった。れっきとした、NULLです」
「アンティキティラが判定を誤ったという線は?」
「彼女に限ってそれはないでしょう」
さらりとこぼれた言葉に、錬暖の眉がピクリと動く。
「彼女?」
「いえ、なんでもありません。とにかく、アンティキティラの測定は稼働以降ミスがありません。加賀瀬善嗣のNULL判定も絶対的なものでしょう」
楼門は口元を手で覆い、話を強引に修正した。あからさまな誤魔化しだったが、錬暖はあえて追及しなかった。今はそれどころではない。
「では、ただただ頑丈な体の持ち主?」
「或いは、空から落ちた際に何者かの助けが入ったとか?」
「…………」
「老人と子供はすでにこちらで保護してますよ。まあ二人とも、今は病床の上ですが」
さらりと告げられた事実に、錬暖は「やはり」と心中で呟く。この組織の手回しの早さは相変わらずだ。
「もう一人います」
「……つまりそれは、貴方と漠頭さんを襲った人物?」
「ただ者じゃありません」
錬暖は天井を見上げた。蛍光灯の白さが目に刺さる。瞼の裏に焼き付いているのは、あの飄々とした佇まいの女の姿だ。
「貴方のその目は、アンティキティラには劣るが、ある程度の相手の力量を捉えることは可能でしたね?」
「おっしゃる通りです」
「では何を見たんです?」
楼門の問いに、錬暖はゆっくりと息を吐き出した。恐怖とも興奮ともつかない寒気が背筋を走る。
「恐縮ながら楼門部長、貴方の底知れぬ力のオーラを火柱に例えるなら、あの女は火山の大噴火そのものです。それも、かなり異質な。あのような力は初めて見る。得体のしれない何かが女の周りを蠢いていた」
錬暖の言葉に、部屋の空気が重く淀んだ気がした。 楼門は無言のまま、続きを促すようにじっとこちらを見ている。
「次元が違いますよ、はっきり言って。おそらく、私が知る限り、アルカディアの人間で彼女に勝るオーラを持つものはいない」
「……ふむ」
「尤も、部長貴方も含め、普段から力をひた隠しにされている方が多い職場なので、何とも言えませんがね」
皮肉を込めて付け加えると、楼門は満足げに頷いた。
「いえ、おそらくその通りでしょう。貴方の目に狂いはない」
「随分と私の目を買っておられますね」
「実をいうと、貴方たち以外にも被害者がいるんです」
楼門は組んだ足を組み替え、さも天気の話でもするかのような軽さで言った。
「と、いいますと?」
「カワチ支部の職員四人が、騒ぎを聞きつけて現場に向かったのですが、その四人とも気づけば地面に寝転がっていたみたいです。全員がなぜ寝ていたのか、前後の記憶がはっきりしていないとか」
楼門は指を四本立て、それをパタリと倒してみせた。
「ただ、四人とも共通して、謎の女性を見たという記憶があるんですよ」
「……間違いない」
錬暖は確信と共に呟いた。 脳裏に焼き付いたあの女の残像と、報告の内容が合致する。
「錬暖さんも先ほど女、と言っていましたね。同一人物とみていいでしょう。貴方と漠頭さんを軽々と撃破し、それなりに実力を持った四人の職員を嘲笑うように眠りに落とした人物――ただ者じゃない、という表現は的を射ています」
「……これからどうされるので?」
不安が鎌首をもたげる。任務失敗、目標の取り逃がし。処罰は免れないはずだ。 だが、楼門は天井のシミを見つめながら、独り言のように言葉を紡いだ。
「そうですね。極秘作戦と称して貴方たちにお任せしてしまった私の不手際を、どうにか帳消しにする必要もありますし、今後は慎重に事を運んでいかないと、とんでもないことになりそうな気がしてなりません」
「…………」
「あぁ、いえ、錬暖さんはお気になさらず。別に貴方を責めているのではありません。上司として、仕事の質を見極め切れなかった私の落ち度ですよ」
張り付けたような笑顔。その瞳の奥が全く笑っていないことに、錬暖は背筋が凍る思いがした。
「しかし……この件は知られてはならないと」
「ことが事です。当初はNULLの脱走を許した失態を秘匿するために動いていましたが、もはやこの件は加賀瀬善嗣だけに留まらず、彼自身の異常性、そして彼を取り巻く何か或いは何者かを突き止める必要が出てきました」
楼門の声色が、事務的なものへと切り替わる。
「実はちょうど、明日が支部長会議となっていましたので、そこで色々と報告するつもりです」
「我々の失態も含め、ですか」
「まさか!」
楼門は大げさに手を振って否定した。
「錬暖さん、そこまでネガティブにとらえないでいただきたい。むしろ私は、お手柄だとも思っていますよ」
「ありがとうございます……」
礼を言いながらも、錬暖の胃の腑は重く沈んでいた。この男にとって、部下の生死などデータの一ビットに過ぎないのだという事実を突きつけられた気がしたからだ。
楼門はおもむろに立ち上がった。制服の皺を丁寧に伸ばす。
「なんにせよ、錬暖さん、貴方が元気そうでよかった」
「ご心配おかけして申し訳ありません」
「ああ、それから」
楼門が医務室のドアノブに手を掛けた矢先、思い出したように振り返った。 その表情は、どこまでも慈悲深く、そして残酷だった。
「漠頭さんですが……残念です、あのまま目覚めることはなかったみたいです」
「そう、ですか」
感情を殺して答えるのが精一杯だった。漠頭が扱いきれない異端児であったのは事実。彼が死のうが生きようが、自身の感情に何ら起伏を起こすことはない。だが、どこか哀しい気持ちが芽生えているのも事実だった。錬暖はわずかに握りこんだ右手を、そっと開いた。
楼門は短く頷くと、静かにドアを開けた。
「では、また」
パタン、と扉が閉まる。 再び訪れた静寂の中で、空調の音だけが虚しく響いていた。 錬暖は天井を見上げたまま、乾いた唇を震わせた。
「……嘘つきめ」
あの男は、最初から漠頭が消すつもりでいた。用済みになった駒を、自らの手で処分したのかもしれない。「元気そうでよかった」という言葉の裏に張り付いた死の匂いを、錬暖は振り払うことができなかった。
医務室の扉を閉めた楼門を待っていたのは、異様な殺気を纏う人影だった。
無機質なほど白い廊下の壁に背を預け、顔の半分以上を包帯で覆った女――絢風。 彼女は包帯の隙間から覗く鋭利な瞳で、楼門を睨みつけていた。
楼門はわざとらしく眉を上げ、驚きの表情を作ってみせた。
「おや、絢風さん。どうしてこんなところに」
「加賀瀬善嗣が生きていると聞いたので」
「はあ……一体どこの誰なんでしょうね。口が軽いどころか、コンプライアンスの欠片もない馬鹿は」
困ったように首を振るが、楼門の脳裏にはすでに数名の顔が浮かんでいた。組織とはいつだって、穴の開いたバケツのようなものだ。
「それで、あの男は今どこに?」
「わかりません。仮にわかっていたとしても、貴方には教えられませんよ」
「なぜです!?」
絢風が廊下に響くほどの声を荒げた。普段の冷徹な彼女からは想像もつかないほど、感情の堰が切れている。
「監察室長からきつく言われてますのでね」
「室長が……?」
「『ボクの可愛い絢風ちゃんのお顔を、これ以上傷つけさせはしない!』……と仰ってましたよ。涙ながらにね」
「ふざけないでください」
「私に言われましても」
楼門は肩をすくめると、絢風を無視して次の目的地へと歩き出した。カツカツと革靴の音が響く。すぐさま、焦燥に駆られた足音がその横に並ぶ。
「部長からお願いしてもらえないんですか」
「残念ながら絢風さん、私もこれ以上貴方がこの件に関わるのは反対です」
「だからなぜ!?」
「理由は明白でしょう? 一度仕留め損なっているのですから、彼を」
楼門の言葉は、鋭利な刃物のように絢風のプライドを抉った。 彼女はギリリと奥歯を噛み締め、悔しさを滲ませる。
「いまだに信じていないようですね……! 私は確かに奴の心臓を撃ちぬきました。この目でハッキリと確認してます」
「それなのに彼は立ち上がり、貴方の顔に拳をお見舞いして、挙句の果てに超人的な跳躍力で天窓を突き破り、高度数千メートルから地上へと落下していった、と」
「……信じがたい話でしょうね。ですが事実です。やつは、NULLではない! 何かしらの能力を隠しています!」
「……はあ」
楼門は歩きながら、今日何度目かわからない深い溜息をついた。
「アンティキティラの測定にハズレはない。彼がNULLであるのは揺るぎない事実。にもかかわらず、それを裏切るように無能力者とは思えない言動の数々……。頭が痛くなってきましたよ、本当に」
「次こそ必ず殺します」
「絢風さん、勘違いしないでください。私は別に、一度ミスを犯した貴方だから、という理由だけで関わるなと言っているわけじゃないんですよ。先んじて老医と子供を確保した行いに関しても、流石は監察室のエース候補と言わざるを得ませんし」
「どういうことですか?」
「事態は想像以上の展開を迎えている、ということです。個人の復讐心で動かれては、盤面が狂う」
楼門は「第八医務室」のプレートが掲げられた扉の前で足を止めた。
「……ここでなにを?」
「まずは情報収集から始めていきませんとね。外堀から埋める、基本でしょう?」
楼門が迷いなく扉を開け放つ。 消毒液の匂いが鼻をつく室内。そこには数多のチューブやケーブルに繋がれ、電子音と共に微かな呼吸を繰り返す老体――ドーモスの姿があった。 そしてその枕元には、アルカディアの純白の制服に身を包んだ、小柄な女性が立っていた。
黒髪のボブカットに、丸眼鏡。その奥にある瞳は、小動物のように穏やかで、どこか怯えを含んでいる。
彼女は入室してきた楼門の姿を認めると、弾かれたように背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「お、お疲れ、さまですっ……!」
消え入りそうな、たどたどしい挨拶。 楼門はいつもの営業スマイルを浮かべ、柔らかく応じた。
「お疲れ様です。リラックスしてください、楓さん」
絢風は怪訝そうに眉をひそめ、そのひ弱そうな少女をじっと見つめる。 戦闘員には見えない。かといって、医療スタッフにしては雰囲気が幼すぎる。
楼門はそんな絢風の疑問を察したように、手のひらで少女を示した。
「紹介します。彼女は加賀瀬善嗣のクラスメイト――松野楓さんです」




