011 秘密作戦・陸
意識が覚醒する。最初に感じたのは、鉄錆と埃の混じった乾いた匂いだった。
重い瞼をこじ開けると、視界に広がったのは剥き出しの鉄骨と、ひび割れたコンクリートの天井だ。どこかの廃工場らしい。 後頭部に、硬質だが誰かの配慮を感じさせる枕――丸められた布のようなものが敷かれている。
加賀瀬は反射的に上体を起こそうとした。刹那、全身の筋肉が軋み、焼けるような激痛が神経を走り抜ける。
「ぐっ……!」
「無理に動かないほうがいい。最低限の処置はしたけど、内臓まで悲鳴を上げてる状態だ。安静にしな」
凛とした、それでいてどこか間の抜けた暢気な声が、黄昏時の広大な空間に反響した。 痛む首を強引に巡らせる。視線の先、ガラスの大半が失われた窓枠に、逆光を背負って腰掛ける人影があった。
「……ここは、どこだ」
「町外れの工業跡地さ。今じゃ寄り付くのは野良猫か物好きくらいだ。ここなら、あの阿呆共も追っては来れないだろうよ」
影が窓枠からふわりと身を躍らせる。着地の衝撃を全く感じさせない軽やかさとは裏腹に、かつんと硬質なヒールの音が静寂を打った。
夕陽の残滓を背に近づいてくるその姿は、異質だった。
長身痩躯。一八〇センチはあるだろうか、加賀瀬と目線の高さが変わらない。 整いすぎた顔立ちの中で、底知れぬ闇を湛えた漆黒の双眸が、値踏みするように加賀瀬を見下ろしている。
女は懐から古風な煙管を取り出すと、それを口にくわえ、マッチで火を点け、慣れた手つきで紫煙をくゆらせた。甘い香りが血の匂いを上書きしていく。
「……アンタが、助けたのか」
「勘違いしないでくれよ。私はただ、あの場所を通りがかっただけさ。大人が寄ってたかって子供を甚振る図なんてのは、趣味が悪すぎて見ていられなかったんでね」
女は細い管から長く煙を吐き出し、けらけらと笑う。死線を潜り抜けた直後とは思えないその楽天的な態度は、かえって不気味ですらあった。
「……じいさんと、子供は?」
加賀瀬の問いが落ちた瞬間、空間の温度が下がった気がした。 女の手が止まる。彼女は吸い口から唇を離し、わずかに目を細めた。
「いなかったよ」
「え?」
「現場に残っていたのは血痕と、小さな子供用の靴だけだ。ああ、あと……妙な痕跡もあったね」
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。 死体があったとは言わなかった。だが、その沈黙が雄弁に最悪の可能性を物語っている。
「誰かが連れ去ったのか? アルカディアか?」
「さあね」
女は意味深な視線を天井の鉄骨へと逃がす。
「ま、死体がないなら希望はあるってことさ。ポジティブに考えな」
「……クソッ!」
加賀瀬は拳で冷たいコンクリートの柱を叩きつけた。皮膚が擦れる痛みなど、胸の内に渦巻く無力感に比べれば些細なものだ。 結局、誰も守れなかったのか。 ギリリと奥歯を噛み締め、悔恨に顔を歪める加賀瀬を、女は興味深そうに観察していた。
「魔那の無い人間なんて、初めて見たよ」
「……どうしてわかる」
「この世の衆生には等しく魔那が宿っている。たとえ塵芥のような微弱な量でもね。私はそれを感じ取れるよう修行を積んできた。だがお前からは何も感じない。虚無だ。面白いほどにな」
女は再び煙管を口に含み、思い出したように声を張り上げた。
「ああ! そうだった、自己紹介がまだだったね。私は麗香。しがない魔斬使いさ」
「……ま、まーじゃん?」
聞き覚えのある単語に、加賀瀬は目を丸くする。
「麻雀って、あの卓を囲むやつか?」
「なんだい、知ってるのかい? 魔を斬る業、魔斬を」
「……いや、初耳だ」
音は同じでも、概念そのものが違うらしい。怪訝な顔をする加賀瀬を他所に、麗香は言葉を継いだ。
「で、お前は何者だ? アルカディアに追われる、魔那を持たぬ転移人よ」
加賀瀬は一瞬、言葉を飲み込んだ。この女を信用していいのか、判断材料が少なすぎる。
その躊躇いを見透かしたように、麗香は口角を上げた。
「なに、心配するな。これだけはいえるよ。私はお前の味方だ」
「証拠は?」
「証拠も何も、こうして息があることがその証明だろう? それ以上に何を求めるっていうんだ」
反論の余地はなかった。
「……俺は加賀瀬善嗣。アンタの言う通り、俺は能無しのNULLってやつだ」
「NULLねぇ……」
麗香は天井に向かって煙の輪を吐き出した。
「アルカディアに召喚された時、SランクだのAランクだの、御託を並べられただろう?」
「ああ」
「あんなもの当てにするなよ? アレは奴らの演出に過ぎない。ランク付けなんてのは、お前らのような迷い人を支配しやすくするための、くだらないレッテル貼りさ」
「な……?」
「まあでも、NULLはNULL。そればかりは事実だね、残念ながら」
加賀瀬の沈黙を肯定と受け取り、麗香は不敵に笑う。
「で、これからどうする無能力者君」
「決まってる。じいさんと子供を助けに行く」
「なんだって?」
「じいさんたちは、倒れていた俺を匿って看病してくれたんだ。その恩も返さずに、ここでじっとしているわけにはいかねぇ……!」
「素晴らしいね。立派だよ、涙が出る。でも、そんなボロボロの体で、ましてや魔那を持たぬ無能ごときが、何をするつもりだ? アルカディアの支部にでもカチコミにいくのかい? あの雑魚二人にすら手も足も出なかったというのに」
「関係ない」
加賀瀬の即答に、麗香の瞳がすっと細められた。
「ここで動かなきゃ、男じゃねえ」
「はっ。口だけは達者みたいだ」
次の瞬間、視界が弾けた。 乾いた音が響き、加賀瀬の身体は仰向けに倒れ込んでいた。額に走る鋭い衝撃。麗香によるデコピンだ。だが、まるでハンマーで殴られたかのような威力がそこにはあった。
「……!?」
「威勢がいいのは結構だが、それじゃあただの無駄死にだね。そのじーさんとやらが拾ってくれた命を、ドブに捨てる気かい?」
「なにすんだ……!」
「現実を見な。この世界じゃ、お前はその老人や子供よりも弱い存在なんだよ」
「…………だからって、あの二人を見過ごすわけにはいかねえッ!」
「じゃあ、具体的にどうする?」
「それは……ッ」
言葉に詰まる。策などない。あるのは焦燥と激情だけだ。
黙り込む加賀瀬を見下ろしながら、麗香がゆっくりと手を差し伸べた。逆光の中で、その手だけが救いのように白く浮かび上がっている。
「この出会いは――偶然か、はたまた必然か。あるいは」
加賀瀬は躊躇いながらも、その手を強く握り返し、軋む体を引き起こした。
「私がさっきなんて言ったか覚えてる?」
「さっきって、どのタイミングだ……?」
「私は『魔斬使い』だって言ったろ?」
「あ、ああ……それがなんなのか、よくわからねーが……」
「お前にはピッタリだと思うけどね」
「どういうことだ?」
麗香は加賀瀬の鼻先で、ぎゅっと拳を握りしめた。
「魔斬とは、魔を斬る業。すなわち――魔族や悪党を討つために編み出された古の技法」
彼女はニヤリと笑うと、握った拳を開いた。そこには何も無い。だが、確かな圧力がそこにあった。
「そしてそれは――自身の魔那を使わない」
加賀瀬の目が驚愕に見開かれる。 麗香は煙管をくるりと回し、その吸い口を加賀瀬の心臓へと向けた。
「この世の森羅万象、あらゆる場所に存在する自然のエネルギー『天』を行使する。つまり――」
彼女の言葉が、暗闇に差す一条の光のように響いた。
「お前に可能性を与える業ってことさ」




