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009 秘密作戦・肆

「三時の方向。距離、四・五メートル。高さ、一〇〇センチから二〇〇センチ」


 その数字が、壁の向こうのどの位置を指しているのか。漠頭には関係なかった。「壊していい場所」が示された、それだけで十分だった。


「了解だァ!!」


 ブォンッ!!  空気が爆ぜた。漠頭の豪腕から放たれた巨大な鉄球が、唸りを上げて一直線に飛翔する。狙いは玄関ではない。その横の壁――加賀瀬が奥の部屋の座標だ。


 ドゴォォォォォォンッ!!

 着弾の衝撃でボロボロの一軒家全体が激しく揺れ、トタン壁ごと家財や何もかもが砂煙と共に粉々に吹き飛んだ。


 轟音と共に、加賀瀬が身を潜めていた部屋の三分の一が粉砕された。木片と土煙が爆風となって狭い室内を蹂躙する。


「なッ……!?」


 だが、その瓦礫の山の下に、少年の姿はなかった。直撃のコンマ一秒前。肌を焼くような殺気を感じ取った加賀瀬は、思考よりも早く体を弾き飛ばしていたのだ。獣のような反射神経で床の上を転がり、間一髪で死の暴風を回避していた。


「えっ――!?」


 突然の出来事に、ドーモスが腰を抜かしたように後ずさる。


「きゃあああああ!!」


 ナランが悲鳴を上げ、耳を塞いで蹲った。


 舞い上がる粉塵。その向こう側、壁に穿たれた巨大な風穴から、ヌラリと光る眼球が室内を覗き込んでいた――漠頭だ。返り血を浴びた顔に、三日月のような笑みを張り付け、破壊した穴から獲物を品定めしている。それはまさに、童話に出てくる悪い狼が、子豚の家を覗き込むような、不気味で圧倒的な恐怖だった。


「……ッ、化け物かよ」


 加賀瀬は冷や汗を流しながら、その視線に射抜かれて立ち尽くすしかなかった。


 すると、破壊された壁の向こうから、マイクパフォーマンスのようなよく通る声が響いてきた。


「強硬手段、というやつです。散弾銃を向けられては、我々もそれなりの対応をせざるを得ませんからね」


 錬暖の声だ。わざとらしく残念がるその口調には、罪悪感の欠片もない。


 ジャララッ……!  鎖が巻き取られる音が響くと、漠頭は手元に戻った鉄球を片手で弄び、今度はそれを玄関に向けた。


「お邪魔しますよっとォ!」


 ドゴンッ!!  鉄球が建て付けの悪い扉を枠ごと吹き飛ばした。


 もはや鍵など意味をなさない。暴力という名の鍵が、ドーモスの聖域をこじ開けたのだ。土足で踏み入る巨体。漠頭は、家主たちを見下ろして嘲笑った。


「どうもこんにちは! 正義のヒーロー、アルカディアです!」


「き、貴様らぁ……!」


 ドーモスが震える手で散弾銃を構え直す。目の前の怪物を撃つ。その判断は正しかった。だが――


「おじいちゃん!!」


 恐怖に駆られたナランが、ドーモスの足元へ泣きながら駆け寄ってしまった。


「ナラン、離れろ!」


 ドーモスの指が止まる。発砲すれば、反動や流れ弾で孫を傷つけるかもしれない。

 その一瞬の迷い。修羅場において、それは致命的な隙だった。


「オイオイ、よそ見かよジジイ」


 漠頭は見逃さない。彼は無造作に、剛速球を投げるようなフォームで鉄球を放った。鎖分銅のような軌道ではない。至近距離からの、砲撃だ。


「がッ――!?」


 鈍い音が響いた。鉄球がドーモスの右肩に直撃する。老人の体は木の葉のように吹き飛び、背後の壁に激突した。散弾銃が手から滑り落ち、ドーモスは白目を剥いて崩れ落ちる。


「おじいちゃん! おじいちゃん!」


 ナランが泣き叫びながら、動かなくなったドーモスの体に取りすがる。


「おい! しっかりしろ!」


 加賀瀬が駆け寄り、ドーモスの脈を確認する。気絶しているだけだ。だが、肩の骨は砕かれているかもしれない。ナランの嗚咽が部屋に響く。理不尽な暴力への怒りと、守る術を持たない自身の無力さに、加賀瀬は唇を噛みしめ、血が滲むほどの焦燥感に駆られた。


「加賀瀬善嗣、ようやく会えましたね」


 破壊された玄関から、錬暖が悠々と入ってきた。埃っぽい空気を手で払いながら、まるで知人に会ったかのような気軽さで声をかけてくる。


「逃げ回るネズミを捕まえるのも、骨が折れるんですよ」


「半殺しならいいんだよな?」


 漠頭が鉄球を揺らしながら、獰猛な笑みを浮かべてじりじりと間合いを詰める。  逃げ場はない。背後には気絶した老人と泣きじゃくる少女。


(ここでやるわけにはいかねえ……!)


 加賀瀬が覚悟を決めるより早く、漠頭の腕が唸った。


「潰れろやァ!!」


 放たれる鉄塊。加賀瀬は持ち前の反射神経を総動員し、床を蹴った。


 ブンッ!  鉄球が鼻先をかすめる。風圧だけで皮膚が切れそうだ。


 だが、回避した鉄球が壁を削り、その衝撃で天井のコンクリート片がバラバラと落下してきた。

 その破片が、ナランやドーモスの頭上へと降り注ぐ。


「きゃっ!」


「チッ……!」


 加賀瀬は瞬時に判断した。自分がここにいれば、流れ弾や余波で彼らが死ぬ。


(外だ! 外に引きつける!)


 加賀瀬はナランたちから離れるように、破壊された壁の穴へ向かって全力で走り出した。

 鉄球はかわした。漠頭の体勢は崩れているはずだ。この隙に外へ出れば――。


 その時だった――


「が、はッ……!?」


 衝撃は、背後から来た。


 かわしたはずの鉄球が、まるで意思を持った生き物のように軌道を変え、加賀瀬の背中に直撃したのだ。


(な、んで……後ろから……!?)


 加賀瀬はその実情を知らない。


 漠頭の能力『殺意執着(ストーカー)』。彼が投げた物体は、狙い定めた対象に衝突するまで、物理法則を無視して執拗に追尾する。


 違和感と激痛に苛まれながら、加賀瀬はその衝撃で前につんのめり、無様に錬暖たちの前へと転がり落ちた。


「ガハッ……ぅ……」


 肺の中の空気が強制的に吐き出される。背骨が軋む音がした。目の前には、軍用ブーツが見える。


「ヒャハハハ! 逃げられるわけねェだろ! オレの球はしつこいんだよォ!」


 漠頭が嘲笑いながら、鎖を手繰り寄せる。獲物は地面に這いつくばった。勝負ありだ。漠頭は油断しきった様子で、鉄球を手元に戻そうと鎖を引いた。


 その瞬間――死に体に見えた加賀瀬の目が、ギラリと光った。


「……ナメてんじゃ、ねえぞ!」


 加賀瀬は残った力を振り絞り、地面を転がって漠頭の足元へ肉薄した。そして、全体重を乗せた蹴りを、漠頭の脛骨へと思い切り叩き込んだ。喧嘩殺法――ローキック。


「ぐおッ!?」


 想定外の反撃と痛み。巨漢の漠頭が、思わず姿勢を崩してよろめく。


「なっ!?」


 傍観していた錬暖が驚愕に目を見開く。


 加賀瀬の攻撃は止まらない。彼は転がりながら崩れ落ちていたコンクリートの破片を掴むと、起き上がりざまに錬暖の顔面めがけて全力で投げつけた。


「うおッ!?」


 錬暖は慌てて首を捻る。破片は頬をかすめ、眼鏡のつるを弾き飛ばした。


 二人が怯んだ、ほんの一瞬の隙。加賀瀬にとっては、それで十分だった。


「ッらぁ!」


 加賀瀬は痛む背中を無視して床を蹴り、破壊された壁の穴から外へと飛び出した。


「あ、待ちやがれ!」


 体勢を立て直した漠頭が叫ぶ。

 だが、その顔に怒りの色はなかった。逃げる加賀瀬の背中を見つめる彼の表情は、獲物を見つけた猛獣の歓喜そのものだった。


「いいねぇ! やりがいがあるぜぇッ!」


 漠頭は嬉々として鎖を振り回し、破壊された家を飛び出し、走り去る加賀瀬の背中をとらえた。


「そらよォッ!!」


 剛腕が唸り、巨大な鉄球が砲弾のごとく放たれる。背後から迫る死の風切り音。加賀瀬は振り返りもせずに左へステップを踏んだ。野生の勘が、その軌道を完全に見切っていたからだ。


 だが――。


(……あ?)


 視界の端。一度はかわしたはずの鉄塊が、空中で急停止し、まるでビデオの巻き戻しのように不自然な挙動で向きを変えたのだ。 物理法則を無視した急旋回。鉄球は意思を持った猛獣のように、再び加賀瀬の横腹へと食らいつこうとしていた。


「嘘だろッ!?」


 加賀瀬はバランスを崩しかけながらも、無理やり体を捻った。


 ヒュンッ!!  鉄球が横薙ぎに通過する。直撃は免れたが、強烈な風圧と共に学ランの脇腹部分が大きく裂けた。皮膚が擦過傷で焼けるように熱い。


 だが、追撃は来なかった。鉄球が空中でピクリと止まり、それ以上進めなくなったのだ。鎖の長さだ。漠頭の持つ鎖の全長は十メートル。加賀瀬の全力疾走が、ギリギリその射程圏外へと逃れていたのだ。


「チッ、逃げ足の速いネズミだぜ」


 漠頭は舌打ちし、走りながら器用に鎖を手繰り寄せる。ジャラララッという金属音が、死のカウントダウンのように背後から迫ってくる。十メートルという距離は、決して安全圏ではない。一瞬でも足を止めれば、すぐに死神の鎌が届く距離だ。


 加賀瀬は心臓が破裂しそうなほどの全力疾走で、入り組んだ路地裏へと飛び込んだ。


(直線じゃ追いつかれる……!)


 廃墟と廃墟の間の、人が一人通れるかどうかの狭い脇道へ方向転換する。障害物があれば、あの巨大な鉄球も通り抜けることはできないはずだ。


 だが、その常識はすぐに粉砕された。


「隠れんぼかァ? 無駄だ無駄だァ!!」


 ドガアアアアアンッ!!  

 背後で爆音が響く。漠頭が再投擲した鉄球が、廃屋の壁を紙細工のように貫通し、瓦礫をまき散らしながら最短距離で加賀瀬を追いかけてきたのだ。壁を突き抜け、眼前に飛び込んでくる黒い鉄塊。


「くそッ!」


 回避は間に合わない。加賀瀬は咄嗟に両腕をクロスさせ、急所だけを庇った。


 壁を破壊したことで威力と速度が減衰していたのが幸いした。ズンッ、と重い衝撃が腕に走る。骨は折れていない。だが、芯に響くような鈍痛が、加賀瀬の顔を苦痛に歪ませた。


「ぐぅッ……!」


 加賀瀬はよろけながらも足だけは止めなかった。止まれば死ぬ。その本能だけで、瓦礫の山を駆け抜ける。入り組んだスラムの地形を利用し、何度も曲がり角を抜け、死角へと滑り込む。


 やがて、背後の破壊音と鎖の音が遠ざかった。


(……撒いた、か?)


 荒い息を吐きながら、加賀瀬は廃墟の影で足を緩めた。


 周囲に漠頭の姿はない。静寂だけがそこにある。十メートルの射程外に逃げ切った――一瞬の安堵。助かったかもしれないという甘い期待が、脳裏をよぎった。


 その、瞬間だった。


「――ガッ!?」


 左方。死角となっていた廃屋の隙間から、音もなく鉄球が飛来した。


 気配を完全に消した奇襲ではない。漠頭が予測して投げた軌道が、建物を大きく迂回して加賀瀬の側面を突いたのだ。


 加賀瀬は反射的に身を翻し、その一撃を紙一重でかわした。


(よし、かわし――)


 だが、その思考は絶望へと変わる。かわしたはずの鉄球が、真横で急停止した。  

 そして、まるで磁石に吸い寄せられるように、真横から加賀瀬の腹部めがけて直角に軌道を変えたのだ。


「が、はッ……!?」


 回避不能。鉄球は、加賀瀬の腹部のど真ん中に深々と突き刺さった。

 内臓が潰れるような感触。口から空気が絞り出される。

 加賀瀬の体はボールのように吹き飛ばされ、廃墟の民家の壁に激突した。

 メリメリと壁にひびが入り、加賀瀬はズルズルと地面へ崩れ落ちた。


「あ……が、は……」


 視界が明滅する。意識が飛びそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばって耐える。だが、体はもう言うことを聞かない。足に力が入らず、立ち上がることすら叶わなかった。


 霞む視界の向こうから、ブーツの足音が近づいてくる。


 瓦礫を踏みしめ、ゆっくりと歩み寄ってくる巨影。漠頭は、手元の鎖を楽し気に鳴らしながら、虫の息となった獲物を見下ろした。


「タフなやつだな。空から落ちても死ななかっただけのことはある。お前本当にNULLなのか?」


「あ……ぐ……」


 加賀瀬は、肺から絞り出すような呻き声を上げた。


 視界が点滅する。脳が強制終了を求めている。腹部への直撃は、肋骨を何本かへし折り、内臓に深刻なダメージを与えていた。だが、それでも――加賀瀬の瞳から光は消えていなかった。


 膝をつき、壁にもたれかかりながらも、その眼光だけは鋭く、目の前の捕食者を睨み続けている。


 そんな加賀瀬を見下ろす漠頭は、直径三〇センチ、推定重量一〇〇キロにも及ぶ鉄球を、まるで手毬のようにお手玉しながらニヤついていた。


「まったく……! 一発で……ぜぇ……ぜぇ……仕留めきれんのかお前は!」


 漠頭の後ろから、ぜえぜえと激しく肩を上下させながら駆けつけてきたのは錬暖だった。後方支援専門の彼にとって、全力疾走での追跡劇は肉体的な限界を超えていたらしい。彼は壁に手をつき、滝のような汗を流している。


「おい、こいつ本当にNULLか?」


 漠頭が怪訝そうに眉をひそめた。


「普通の人間ならとっくに肉片になってるはずだぞ。何発食らっても気絶しねえし、何よりこの目だ。……気に食わねえ」


 漠頭の疑念も無理はない。NULLと揶揄される無能力者の少年が、致死量の衝撃を何度浴びても意識を失わず、敵意剥き出しの目つきは沈まずにいるのだ。それは生物としての「格」の違いすら感じさせた。


「はぁ、はぁ……。腐っても転移人、ということでしょう」


 錬暖はようやく呼吸を落ち着かせ、眼鏡の位置を直した。


「もう十分だ。抵抗できないようですし、彼を拘束しろ」


「拘束ゥ?」


 漠頭は不満げに鼻を鳴らすと、手元の鉄球を高く放り上げ、片手でバシィッ! と受け止めた。


「おい待てよ。とりあえず半殺しは確定だからよ、体の半分をぶっ潰しても構わねえだろ?」


 漠頭は嘲笑いながら、加賀瀬の下半身を舐めるように見た。


「右足と左足、どっちがいい? 片方だけなら『生け捕り』の範疇だろ?」


「よせ、漠頭!」


 錬暖が鋭く制止する。だが、獣のスイッチはもう切れない。


 加賀瀬の意識は、出血と痛みで間もなく飛びそうだった。抵抗などできるはずがない。


「へへッ、黙って見てな。綺麗に半分にしてやるよ!」


 ブォンッ!!  漠頭が鎖を振り回し始めた。一〇〇キロの鉄塊が、びゅんびゅんとその場で風を切る音を立てながら高速で回転する。その遠心力と風圧だけで、周囲の瓦礫が震え出した。


「やめろ! 命令違反だぞ!」


 錬暖が本気で怒鳴る。だが、殺戮の愉悦に浸る漠頭は聞く耳を持たない。


「死なない程度にコントロールしてやっからよォッ!」


 回転が最高速に達し、漠頭が鎖を振り下ろそうとした、その時だった。


「――世界を守る天下のヒーロー、アルカディア様が白昼堂々子供を甚振ってるなんて、世も末だねぇ」


 凛とした、だがどこか小馬鹿にしたような女の声が、背後から響いた。


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