第62話『◆◆◆◆・ハールメス』
1998年
屋敷を叩くように響く雨音は、まるで弔鐘のよう。
その日、オーリア・ハールメスは人生で最も大切なものを失った。
オーリアは崩れ落ちるように膝をつき、冷え始めた妻コーデの手を握りしめている。
「コーデ、なぜ置いていく……」
三人目の子を産んだ直後、彼女は静かに息を引き取った。
「この子たちは私が育てる。お前の代わりに、私が……」
今にも折れそうだった彼を支えたのは、フリッグという奴隷の召使いだった。
黒人と白人の血を引き、奴隷という立場にありながら、誇りと優しさをまとう女性。
フリッグは静かにオーリアの背に手を添え、囁く。
「旦那様、どうかお顔を上げてください。
倒れてしまえば、子どもたちが泣いてしまいます」
「フリッグ。君がいてくれてよかった」
フリッグは軽く微笑んだ。
「この家で唯一、私たちを“人間”として扱ってくださる旦那様に尽くしたいのです」
「一族の前で君たちを守れる立場ではない」
フリッグはその手をしっかりと握り返す。
「それでも、私たちにとってあなた様は救いです」
その日を境に、オーリアはフリッグにだけ心を開くようになった。
2001年
執務室のランプの光の下で、オーリアの顔色は青白く、目の下には深いくまが刻まれていた。
「旦那様……大丈夫ですか?」
フリッグがそっと湯気の立つお茶を差し出す。
オーリアは重い呼吸を吐きながら、弱々しく礼を言った。
「ありがとう。“あれをやれ、これをやれ”と私は伯父の召使いじゃないというのに」
ふと、フリッグの表情が曇り、オーリアは慌てて言葉を修正する。
「違うんだフリッグ! 決して君たちのことを言っているわけではない。
ただ社長になる身なのに、雑務だけ押しつけられて何も学べんのだ」
肩を落とすオーリアの姿に、フリッグは安心したように微笑む。
「旦那様はお子さんの面倒を見て、私たちのことまで気にかけてくださってくれます。社長になるべくして生まれた方ですよ」
その言葉に、オーリアは静かに目を伏せた。
「人は、生まれながらにして立場が決まっている。
上流階級の者のほとんどがそう思い込んでいる」
そう呟きながら、彼はそっとフリッグの髪に手を伸ばす。
「今思えば、私の妻もそうだった」
フリッグは少しだけ頬を赤らめ、視線を逸らす。
「フリッグ。お前はいつでも私の話を聞いてくれ、心の支えになってくれた」
フリッグは胸に手を当て、かすかに震える声で返した。
「旦那様……いけません。
あなたは社長になるお方。私はただの――」
フリッグは震える声で制止しようとする。
だがオーリアの手はそれより早く、彼女の首元へ触れ、吸い寄せられるように唇を落とした。
「妻を亡くしてから、誰にも触れていない。頼む……私を癒すと思って」
その弱い声に、フリッグの心の防壁はそっと崩れる。
「旦那様……」
かすかな囁きとともに、フリッグは身を預け、二人の唇は深く重なった。
その夜を境に、二人は互いの孤独を埋めるように何度も身体を重ねるようになる。
それから1年が過ぎたある日、フリッグは喉を詰まらせるように言葉を絞り出した。
「子供が……できてしまいました」
その瞬間、オーリアの顔から血の気が引いた。
しかしすぐに、震えるフリッグの手を強く握り返す。
「すまない。でも、君とこの子を必ず守る」
フリッグの目に涙が浮かび、二人は痛いほどに抱き合った。
しかし、この道は決して簡単ではなかった。
フリッグの腹が徐々に膨らんでいくたび、一族や屋敷の奴隷たちの視線が冷たいものへと変わっていく。
(なぜあの奴隷が?)
(まさか、誰かの子?)
疑念はあっという間に屋敷中に広まり、オーリアは焦燥に駆られ決断する。
オーリアは密かにフリッグを屋敷から“消した”。
「体調不良で使いものにならん。捨てておいた」
そう家族には告げたが、実際はフリッグを守るための偽装だった。
オーリアはフリッグを安全に暮らせる場所を探し回る。
「黒人はダメだ。当たり前だろ」
「入る許可証は? ないなら無理だ!」
「黒人がこんなホテルに? 笑わせるなよ」
どのホテルも、どの宿も、あらゆる場所が“フリッグが黒人の血を持っている”、それだけで門前払いだった。
どれだけ金を積んでも、理由を変えようと、扉は固く閉ざされたまま。
オーリアは悔しさに拳を震わせながら、フリッグの手を引き、夜の街を歩き続けた。
そしてついに――黒人が多く住むスラム街の隅、比較的安全な場所に辿り着く。
「ここなら、大丈夫だ」
粗末な部屋。
天井は低く、壁は薄い。だが、唯一“追い出されない”場所だった。
「すまない、フリッグ。こんなことになってしまって……
だが必ず迎えに来る。共に暮らせる日までの我慢だ」
オーリアの声は震えている。
フリッグはその手を包み込むように握り返した。
「その日を楽しみにしております」
互いの額がそっと触れ、短い時間を惜しむように唇が重ねる。
そのあともオーリアは、人目を避けながら不規則な時間でフリッグのもとを訪れ続けた。
夜のスラム街に「白人が誰かに会いに来ている」という噂が流れるようになった。
2003年 スラムの一室。
部屋には、黒人の女性たちが何人も集まっていた。
彼女たちはフリッグを支えている。
「息を……ゆっくり……そう、そのまま……!」
「大丈夫よ、フリッグ。私たちがついてる」
指が布を掴み、涙もこぼれた。
オーリアはおらず、社長就任の式典と重なってしまう。
二人で話し合い、互いの未来のため“立ち会わない”と決めた。
(旦那様……)
痛みの合間にフリッグの心に彼の声が何度も浮かぶ。
「来るわよ――!」
「あぁぁぁぁぁ!!!!!」
最後の叫びが夜を切り裂き、しばらくの沈黙のあと――かすかに、柔らかな声が響いた。
「……っ……おぎゃぁ……」
その声は、フリッグの胸にすべての苦しみを溶かすように染み渡る。
「生まれました!」
泣き声とともに、温かい小さな命が彼女の胸にそっと抱かれた。
「あなたに……会えた……」
その瞬間、部屋中の女性たちが安堵の溜息を漏らす。
誰もが涙ぐみ、静かにその誕生を祝った。
生まれた赤子の名は「◆◆◆◆・ハールメス」
しかし、ハールメスと名乗ることは一度のなく、のちに名乗る名は、バルド。
2003年・出産の1か月後
レアマシー トシスト州 バー『アエリモ』
夜の明かりは落とされ、オーリアは静かに身を潜めていた。
――ギィ……。
扉がわずかに揺れ、光が差し込みフリッグが立っている。
毛布から覗く顔は、驚くほど小さく、柔らかな息をしていた。
「旦那様……」
フリッグは胸の奥に溜めていた想いを抱えたまま、一歩近づく。
「この子の名前は◆◆◆◆です」
オーリアの目が揺れる。
「そうか……◆◆◆◆にしたんだな」
そっと指先で赤子の頬に触れながら、声を震わせて言った。
「よく、この世界に……生まれてきてくれた。
フリッグ……これから三人で、幸せになろう」
フリッグは涙をこぼし、静かに頷く。
アエリモの2階にある小さな部屋が、彼らの家になった。
窓から差し込む朝日が古い床を照らし、その上を小さな影がよちよちと歩いている。
◆◆◆◆は、もう3歳になっていた。
フリッグは洗濯物を干しながら、床を駆け回る小さな足音に微笑む。
「ママ! みて、みて!」
◆◆◆◆が、拾った木の欠片を宝物のように掲げる。
「まあ……素敵ね」
フリッグが笑うと、◆◆◆◆は誇らしげに胸を張った。
しばらくして、階段を上がってくる足音。
「ただいま」
途端に、◆◆◆◆が弾かれたように走り寄る。
「パパーー!」
その瞬間だけは、オーリアは“社長”ではなく、ただの“ひとりの父親”に戻った。
「よしよし……今日も元気だったか」
フリッグはその光景を優しく見つめ、三人だけの時間に、静かな幸福が満ちていた。
誰にも知られず、誰にも邪魔されない――秘密の幸せな日々。
◆◆◆◆が5歳のクリスマスイブのこと。
「ママ!! はいこれ!!」
小さな指でぎゅっと握られた画用紙が差し出される。
そこには、拙い文字と三人が手をつなぐ絵。
『いつもありがとお。これからも大好きなママでいてね』
フリッグは涙をこらえながら、笑顔で言った。
「ありがとね、◆◆◆◆」
だが次の瞬間、◆◆◆◆の瞳は何かを探すように揺れる。
「パパはどこ?? 今日は来ないの?」
フリッグは微笑みの形をつくり、頭をそっと撫でた。
「パパはとても忙しいの。明日には来るわ」
しょんぼりした◆◆◆◆は、それでも健気に続ける。
「今日、一緒に祝いたかった。でも、パパが来たらね、パパの好きなキャクテルってやつ下のマスターに頼んだんだ!」
フリッグは思わず抱きしめた。
この子はどんな世界でも優しくいられる――そう思わせてくれるほどに。
「あなたは本当にやさしい子ね。それにパパと暮らせる日は、あと少しだから」
◆◆◆◆の目が輝く。
「うん!! 三人で暮らせるなら、僕ずっと待てるよ!!」
ハールメス邸
きらびやかなツリーが飾られた大広間。
そこには“本来の家族”が集まっていた。
オーリアは、長男ゾディア(15)、長女ルビル(12)、次女チフカ(10)にプレゼントを配っている。
「父上!! なんで奴隷をくれないんだ! もう今の女と子供は遊び飽きたと言ったじゃないか!!」
ゾディアは高級時計を乱暴に振りながら叫んだ。
ルビルはもらった子犬を足で押さえつけ、冷たい声で言い放つ。
「はぁ……這い回る老人が見たいのに、子犬を送られてもつまらないわ」
そして、次女チフカは奴隷を“椅子”のように扱いながら言う。
「お父様は本当に使えませんね。私にこんな低俗なものを送るなんて……。 本当に社長なの? イケメンをよこせって言っているのに!」
オーリアは胸の奥で息が詰まりそうになる。
だが、これは彼の罪でもあったのかもしれない。
子どもたちを育てる時間はなく、代わりに一族が与え育てた“ゆがんだ常識”。
この国で続く身分差別の残酷な現実。
2015年に奴隷制度が廃止されようと、根に残っているものは深い。
レアマシーを覆い続けるこの闇は、終わる気配はいつくるのだろうか。
翌日のクリスマスの朝
オーリアは胸騒ぎのようなものを押し込みながら車を走らせた。
アエリモに到着すると、彼は急いで店の扉を開け、その光景に驚愕する。
倒れていたのは、いつも話を聞いてくれるマスター。
喉元は深く裂け、血が黒く固まり、床にはかすれた抵抗の跡だけが残っていた。
「マスター!! しっかりしろ!!」
揺らしても、返事はない。
その冷たさが、嫌な予感を確信へと変えていく。
オーリアは階段を駆け上がり、2階の扉を荒々しく開けた。
そこには、何かに叩きつけられたように、顔の形すら失われたフリッグの姿。
肉片は飛び散り、血だまりは広がり、臭っていた。
何度も切りつけられ、衣服は裂け、その身体はゴミのように床に捨てられていた。
そして、天井から吊られ、◆◆◆◆は縄でぐるぐるに縛られていた。
サンドバッグのようにされ、幼い体には無数の傷が刻まれている。
「…………ッ」
声にならない叫びが喉に込み上げた。
部屋の中央に立っていたのは、オーリアが最も信頼していたはずの長年寄り添ってきた秘書であった。




